長編・青春ホラー “ 影、つどう ”
第 12 回 “ 夜のなごり ”( その 6 )
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うんざり顔の部員たちをフロアに正座させ (今月に入って3度目。)、怒鳴るだけ怒鳴りちらしてから、吉田澄江は練習を終了した。
電気のスイッチを全部切って最後に一人退館する時、澄江はふとふり返ってギャラリーの上に並ぶ窓の列に目をはせた。
―― ほんっとあたしって、毎日こんなことばっかりやってるなあ……いいのかな? ほんと、こんな調子で。
異様な気配の一件は、気の迷いとしてきれいに忘れ去られている。
空を覆った雲は校庭の北側の、ことさら茫漠と広がった畑地の上を漂い流れてゆく。最後に青空を見たのがいつだったかもう思い出せない。
そしてふと我に返ると予鈴も間近な時刻になっていた。校舎からはいつもの朝のざわめきが、遠い街の気配のように漂って来る。
そして、体育館から再び人の気配は消えた。
しかし今はそこにもまた、晩秋の曇った朝が訪れていた。
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校庭の北側、緑色のフェンスの向こうには不規則に傾いた電柱が数本、マッチ棒を立てたように並んでいる。長年の突風に電柱は垂直を保てず、張り渡された電線はたわんで時に素頓狂な虎落笛を鳴らした。
そのあたりは蛇の目ヶ原と呼ばれ、農家さえほとんどない。淋しいと言うより、殺風景と呼んだ方がいい場所である。近在の人々はこの辺で道を聞かれると、生えている木の種類や電柱の数を目安にして説明する。
つまり、ほとんど、あてにならない。
だがどこにいても北側を走る〝県道〟は遠目につくし、絶えず車の排気音のする方が間違いなく北である。そしてもう一つの目印が、昨年の春に通学ならびに農作業の効率促進を目的として開通した、牧堀街道と〝県道〟を結ぶ新道だった。
松脂の匂いがする暗い並木を過ぎて〝県道〟に出ると、道の片側には広壮な松並木が、反対側には長年の風雪に忍従を重ねた末に煮染めたような色になった、古い二階屋が見渡す限り続いている。
並木の向こうは県内最大の規模を持つ総合農園、羽住農場の放牧地であり〝県道〟を右に曲がると徒歩で10分ほどの所にある丁字路で牧堀村は終わる。
汚れた黄色いカーブミラーのある曲がり角から先はもう坂越市で、突き当たる道路は遠い南の牧堀街道と合流するまで、ほぼ一直線に延びている。
奇妙なことにこれほど村に近い場所だと、朝の気配は都心部とは逆に、村の中よりもはるかに緩慢におとずれるようだった。
春日沢3丁目の、狭霧のような静けさに覆われた住宅地の奧では、自宅のガレージ前で火野卓也が自転車の後籠に通学鞄を押し込んでいた。
つい先程電話で父がまくし立てていた小言が、まだ耳の奥にこびりついている。
――何でそのくらいの事が分からない? いつからお前はそうやって母さんの事悲しませても平気な子供になった? お前が母さんやお婆ちゃんと夕飯一緒に食べないんで、みんなどれ程寂しい思いをしているのかどうして分かってやらない? お前はもう18なんだぞ!
父が怒鳴り続けている間、受話器を耳から外しておくことも出来たが、卓也は無言のまま結局最後まで聞き通した。
父は間違ったことを絶対に言わない。
いかなる時でも父の論理は、一切反駁の出来ない完璧な正論だった。
そして卓也はすべてにおいてまちがっており、彼が父に対して持ついかなる欲求も、父の叱責の前では一切合切、身勝手な甘えでしかなかった。
それでも卓也はひそかに思う。
あまりに文句のつけようのない完璧な理屈は、その完全さゆえにどこか間違っているのではないか? と。
しかしなにゆえそう思うのか、何が間違っているのか、卓也の心はそれを突き詰めて考えるには、いつもあまりに疲れていた。
――せめて夕飯までには帰って来い。一家団欒で食卓を囲むことこそ家族愛ってもんだろう。ここまで言われてもおまえの心には、お父さんの言葉がまだ届かないのか?
明後日、父は二月ぶりに帰宅する。
しかし久方ぶりの一家団欒、楽しい夕食とやらではおそらくまた誰も笑わず、卓也の成績を巡り、どこぞの企業のスパルタ式新人養成コースの様相を呈するだろう。
「大概にせえよ! 全く」
聞こえよがしに毒づき、卓也は思い切りスタンドを蹴り上げた。
はね上がったスタンドが乾いた泥のこびりついたシャッターを擦り、耳ざわりな音を立てた。
「いぐつの子供さ向かって、いくつの親父が何説教してらんだ! いい年ぶっこいでハァ小学校の道徳の授業でもあるめえし、何が家族愛だ気色悪い。てめえが家族ほったらかして単身赴任さ出るのと同じで、こっちさも都合づうもんがあるんだ馬鹿たれが!」
近ごろは父と話す気になど一切なれない。
機嫌の善し悪しに関わらず、理路整然としているのにどこかべたべた絡んでくるような口調には、毎度のように会話を続ける気力を奪われた。
加えて妙に芝居がかったそのしゃべり方には、時折堪えきれぬほどの生理的な不快感さえ覚えた。
その一方で、母が父の口調をどうして何とも思わずにいられるのか、卓也にはまったく理解できない。形をなさない憤懣を振り払うように思い切りペダルを踏んで、卓也は檜山美容室の横から春日沢・藪沢線―― 通称〝県道〟へ飛び出した。
土地では三本の指の入る老舗ささまる酒店の前で、勢いよくハンドルを右に切った。
東北線の春日沢踏切から、遠く厨屋村の手前まで続く春日沢・長幡線、通商〝 県道 〟は、北側を薄暗い雑木林に覆われている。
その細長い木立は藪沢から連なる広大な国有林の、最後の直系の分枝であった。林の裏から2㎞先の米代河畔近くまでは、羽角農場の広い敷地が占めている。
牧堀北中学校へ向かうリュックをしょった中学生と二人ばかり行き合い、卓也はギアを入れ変えようと右手を伸ばした。
その時、木立の下の暗がりから陰気な声で呼び止めるものがあった。
「おい。待で」
無視して通り過ぎようとしたが泥で汚れたギアを切り変えそこない、卓也はみっともなくたたらを踏んだ。やむなく自転車にまたがったまま、卓也は声の主と対面した。
松林の中に、なかば放棄されたような羽角農場の南門がある。
閉ざされたためしがない金網張りのゲートの前で、ひどく痩せて背の高い男が、コンクリート製の電柱にもたれていた。
電柱の高所に取り付けられた変圧器にぶあつく絡みついた蔦が、男の頭上に薄汚れた赤と緑のショールとなって垂れ下がっていた。足許の鋪装されてない地べたには、フィルターぎりぎりまで吸ったショート・ホープの吸い殻が散乱している。
曇った寒い朝が人のかたちをとったようなその男を、卓也はよく知っていた。
「おめ、三高の生徒だな」
と言うことは、この阿呆の方は卓也のことをまったく忘れているらしい。
十数年まえ、この先の森のはずれにある放牧地で卓也をつかまえ、吹き溜まった雪の中へ頭から突っ込んだ、羽角農場のごくつぶしの三男坊は。
「そうだけど」
卓也は自転車から降りた。スタンドは上げたまま、いざとなったら助走を付けて逃げるつもりでギアを手探りで慎重に入れ替える。
洗ったばかりらしいがよれよれの青白いつなぎを着た男は、ふらふらと卓也に近づいて来た。 薄い唇はだらしなく開き、二十代後半にして早くも生え際の後退しはじめた長髪が、まるで日陰の雑草のように見える。
「おめん所さ二本柳、づゥ女子いっぺや」
卓也は内心で途方もなく面食らった。
―― 何だと?
しかし昨夜も4時間ばかりしか寝ていないのを思い出し、卓也は必死で出来るかぎり無表情な寝ぼけ顔を取りつくろった。
「さあ。知らないス」
「お前が知らねっつったって、すったな事ァ関係ねェ」
羽角何とかは、胸のポケットから二つに折り畳んだ事務用箋を取り出した。
「とにがぐよ。こいづばその女子さ渡せ。いっか? 二本柳螢さ、だぞ」
二本柳螢、などという田舎臭いくせに妙に由緒ありげな名前をもつ女は、日本中捜したってあの高慢ちき以外にいるとは思えない。
持って行け、と言うように男は便箋を卓也の鼻先に突きつけた。
「誰がら、ど言えばいいのスか?」
「お前さは関係ねェ。―― おう」
予想通りの脅し文句を吐き、男は卓也の胸ぐらに手を伸ばしてきた。
「だどもお前ハァ、この手紙ッコ二本柳さ渡さねがったらハァ、俺さはすぐ分がっからな」
爪の伸びた細長い指が、詰め襟のすぐ下を掴んで軽く揺さぶった。
――幾つになっても、こずるいガキのままだなこの野郎は。――だからか! この病気野郎め、オジンのくせして女子高生に狂いやがって!
こういう状況になるといつも凍りついて動かなくなってしまう心の奥で、それでも卓也は冷静に状況を分析していた。これなら心配するには足らない。
このいい年をしたチンピラ未満はやはり昔と変わらぬ馬鹿だ。
春日沢から牧堀村にかけては知らぬもののない鼻つまみで通っているくせに、当の本人はこの界隈で自分がどんな立場にいるのか理解していないらしい。
あるいは春日沢の裏町を仕切っているのは自分だ、とでも思っているのか。
ともあれこの男には何も分かっていない。目の前にいるのが昔自分が暴力をふるった洟垂れ小僧で、今では駅前の酒屋で万引きした自分のつまらぬ前科から、複雑で醜聞に事欠かない家族環境まで粗方お見通しだとは想像だにできないだろう。
「分がったから離してけねスか? 遅刻しちまうよ」
遅刻しちまうよオ、ってが? と小馬鹿にした口調で真似し、男はけっ、と肩をすくめ手を離した。
「さっさとお勉強しさ行げ。だげどお前、分がってらな。いらねェ事誰がさ語ったり密告たりしたらハァ、お前の親父やらお袋さ、世間づうもんばたっぷり教えてやっからな」
その世間とやらからとことん痛めつけられ、そのくせ田舎の近所づきあいの恐ろしさをてんから嘗めきっている屑野郎は、横柄な仕草で卓也にあごをしゃくった。
「行げ」
卓也は自転車にまたがり走り出した。
安全な所まで行ってから自転車を止め、振り向いて出来る限り人懐っこい笑いを浮かべ、手を振ってやる。
追って来るかと思ったが、痩せこけた羽角の三男坊はただ無言のまま、こちらを見つめるだけだった。遠目に見ると男はひどく憔悴し、消耗しきっているせいなのか目にはろくに焦点が合ってないのが分かった。
やがて男はきびすを返し、雑木林の中へのろのろと歩み去って行った。
薄暗い木立のアーチの先には、小さなT字路がある。突き当たりには雑草に半ば近くまで埋もれた木製電柱が立っていたはずだった。
そこで卓也はむかし、当時中学生くらいだったあの屑に襲われたのだ。
時代遅れの細い木製電柱は丈の三分の一ほどを雑草に覆われている。取り付けられてある傘のついた常夜灯は、この時間だとまだ夜のなごりをまとってぽつん、と寂しく灯っているだろう。
卓也はふと思った。
あのろくでなしは今日一日、どこで何をして過ごすのだろうか?
家族にもろくに相手にされず、街に出ようにもあのようすでは大した金も所持しているまい。
この寒々とした曇天のもとで、濡れた枯れ草と雨の匂いに包まれながら、あいつは今日、いったい幾人の人間と言葉を交わすのだろうか?
誰にとっても行かねばならぬ場所は必要だ。こんな田舎の街外れで暮らすには。
とりわけこんな気のめいる、ときおり時雨の降りしきる秋の終わりには。
濡れた落葉を車輪で轢き潰しながら、卓也はひどく厳粛な気分で自転車を駆った。 道の左側に広がっていた住宅地が終わり、〝県道〟の下を宇賀神川が通る手前で道は鬱蒼とした木立にの下にはいる。
沿道の森は色とりどりに紅葉し、暗い緑にくすんだ黄色や赤紫が混じっていた。
どうどうと轟く水音の中〝県道〟から左にそれて細い坂道に入り、ひんやりした微かな飛沫を浴びながら、卓也は沢胡桃のふとい枝の下を走り抜けた。
薄暗い並木の下ではなく、深海に生い茂った海藻の群落を抜けていくような錯覚に、卓也はふと襲われた。
木立がとぎれると視界が一気に開け、目を遮るものはなだらかな丘の起伏とその向こうに連なる重い雨雲だけになる。
蛇の目ヶ原の畑地に入ると同時に、道端の電柱に取り付けられたスピーカーから、『浜辺の歌』が流れ出した。 村のあちこちに設けられた拡声器から流れる重くひび割れたチャイムは、おのおのわずかに始まるタイミングがずれている。そのせいで平原に響くメロディはやがて重くひび割れた追副曲と化して行く。
さらに丘の斜面に反響して谺を生じ、濁った倍音が重なり合い、いつしか『浜辺の歌』は原曲とは似ても似つかぬ奇妙な楽曲に成り果てていった。
―― そしてその不協和音に満ちた奇妙な旋律こそは、浄善寺ヶ原一帯に住むほとんどの人たちにとってはもっとも古い、無意識の底ふかくに刻み込まれた記憶であった。
【 続 く 】
大 鴉 - れいぶん ー として音楽活動も行っています
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