March 2025
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カテゴリ:旅行とか出張です
先日知り合いが「そもそも倉敷はなぜ天領だった?」の理由が判らんとのこと。
その方は「地理的に倉敷は良い場所」だった説を言っているのですが、ドーモ納得できない。 最近、倉敷の歴史を調べると結構面白い人が他所より多いのでは?と感じている 僕は面白半分で調べてみる事にしました。 まず、調査前の僕の倉敷感はこんなもんです。 ・元々、美観地区の船着き場は大阪へ荷を送る港だった。 ・倉敷周辺の干拓が進んで船の行き来が困難になり玉島に移った。 ・江戸⇒明治の切り替わり時期は天領だった。 倉敷の天領についてダラダラと調査していってます。 〇倉敷って? 昔は窪屋郡(くぼやぐん)の倉敷村という位置付けの様です。 古地図等は見つけていませんが源平合戦期の周囲は想像出来そうです。 寿永 3年1184 藤戸の戦い(源平合戦 当時の水深は「馬で海路を渡る浅瀬」という話があった事から浅瀬部分で 最大2mあり他はそれ以上の深さだったのでは?と想像します。 ①倉敷は江戸時代のイツから天領だったの? 手元に吉備人出版の「絵図で歩く倉敷のまち」という本から 江戸時代における倉敷の領土の所属具合を時系列にしてみました。 慶長 8年1603 江戸幕府樹立 元和 3年1617 備中松山藩 寛永19年1642 幕府(天領?) 天和 3年1683 庭瀬藩 元禄10年1697 丹波亀山藩 元禄16年1703 幕府(天領?) 宝永 7年1710 駿河田中藩 享保 6年1721 幕府(天領) 慶応 3年1867 大政奉還 気付き:良く判りませんが、幕府領と藩領を何度か往復しているみたいです。 「丹波亀山藩」「駿河田中藩」って突飛だと思う藩名もあります(汗 約260年の中で後半140年が天領となっているのも良く判らないトコです。 ②とりあえず藩領地の始まりと取り消しのネタを調べてみた。 調べるつっても各藩の情報を検索しただけですケドね~~~。 備中松山藩 (元和 3年1617 ~ 寛永19年1642) 池田長常(藩主)病死 池田家断絶 この後に成羽藩(近所です)から水谷勝隆が入封したのですが、 その際の所領に玉島があって倉敷が無かっただけみたいです。 庭瀬藩 (天和 3年1683 ~ 元禄10年1697) 板倉重信(藩祖)本家福島藩より2万石を分与される ※福島藩板倉家で調べると結構良い家系なのが判ります。 ナゾ・・・ 元禄10年になにが起こってる? 丹波亀山藩 (元禄10年1697 ~ 元禄16年1703) 井上正岑 =後に=> 老中 ※三河井上氏の系図に連なっています 駿河田中藩 (宝永 7年1710 ~ 享保 6年1721) 内藤弌信 =後に=> 大阪城代 代官所設置決定(寛保 元年1741 倉敷代官所完成(延享 3年1746 気付き:丹波亀山藩・駿河田中藩の藩主は後に幕府要職に就いています。 要職に就けるぐらいなので調べると良い家系だなぁと思ったのですが 藩主・・・・ もしかして他の藩(地)も良い家系じゃね?と疑われる。 天領の代名詞の代官所の設置は寛保元年1741に決まったのか・・ ③天領とは?を調べてみた。 え?今更?と思いますがwikipediaを眺めて自分なりに解釈してみました ・国替え等の際に他の大名などに迷惑をかけずに渡せる幕府領のこと。 ・天領の内訳の変遷にて以下の時期に考えが変化したみたいです。 正徳 2年1712 新井白石による大名領地廃止 年貢収納率の低下 享保 7年1722 徳川吉宗によって大名領地復活 気付き:倉敷は享保6年1721以降140年間天領になってるけど、 享保期と言えば享保の改革なので何かかありそうです ④享保の改革で (1720~?)に何かあったんじゃね? ③で天領について調べると享保の改革が絡んでそうな気がしました。 享保17年1732 享保の大飢饉(中国・四国・九州:特に瀬戸内内海沿岸) wikipediaを見ると九州の惨状しか書いていない(汗 享保の改革の終了時期に延享2年1745は代官所設置時期に似通ってます。 ==うーんピンと来ません== ⑤倉敷代官所って? 天領についてwikipediaを眺めていたら「幕末の天領」が記載されてました。 美作国 - 東北条郡8村、勝北郡13村、西北条郡9村 備中国 - 都宇郡15村、窪屋郡7村、小田郡21村、阿賀郡19村、後月郡1村、 浅口郡10村、賀陽郡12村、哲多郡11村、川上郡6村 備後国 - 甲奴郡12村、神石郡1村 讃岐国 - 那珂郡5村、小豆郡3村、直島、男木島、女木島 合わせると約6万4千石の管理統括だそうです。あと「天領石高内訳変遷」には中国筋は28万石程度の石高だそうです。 ただ・・・ 中国筋って何処なのよ?という情報を捜索中です(汗 ⑥そういえば香川の高松藩は徳川頼房の子の松平頼重が来たんですってね。 最近夫婦で高松城の屋敷を見せて貰ってピーンときました。 寛永19年1642 に入封との事なんであまり意味は無さそうです。 気付き:高松の八島で思い出しましたが、源平合戦の「水島の合戦」は 倉敷市玉島乙島近辺であった合戦ですが、平家って高松八島から船で出張ってます。 当時の交通感覚だと水上交通の高松<>倉敷って結構近かったのカモしれません。 ⑦そういえば地理的条件はどうなのよ? 山陽道を調べると倉敷より山向こうの矢掛⇒吉備津⇒岡山の経路の様です。 安土桃山時代近辺で宇喜多氏が倉敷と早島に宇喜多堤を作ったことを考えると、 安土桃山時代⇒江戸初期までは宇喜多堤より瀬戸内海側は遠浅っぽかったのかな? ⑧そういえば中国地方といえば製鉄「たたら」だけどどうなのよ? 調べると高梁川上流の総社・高梁・新見ではたたら製鉄がある様です。 倉敷で調べると時々「たたら」の言葉が出ますが、まだ跡地等判らない状態です。 たたらには燃料の木材が大量に必要だったので浅瀬の倉敷では無理だったのかな? 気付き:中国地方以外でたたら製鉄が可能な地方が少なければ要所になれるカモ? 僕の妄想まとめ 江戸時代初期 : 有力大名が治めない当たり障りの無い地域だった。 高松藩(現高松市)に徳川頼房の子の松平頼重が来た。(幕末まで続く) 江戸時代中期 : 2回ほど幕府の要職になる人が治める場所だった。 江戸時代後期 : 享保の改革頃に代官所が設置された。 代官所は幕末で約6万4千石の地域を管理していた。 で?なんで倉敷に代官所を置いたん? 現在の調査では「有力大名に縁の無い海運に使えそうな場所」程度です。 高松藩の松平家に繋げたいのはヤマヤマですがソレっぽい資料無し。 窪屋郡(くぼやぐん)の倉敷村に代官所が置かれる有力要素は全くありません。 うーむ悩ましい。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2025/02/10 06:16:14 PM
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