礼拝宣教 マタイ23章1-12節 受難節Ⅲ
先週は主イエスの「エルサレム入場」の歓喜、さらに主イエスが義憤に駆られた「宮清め」の記事でした。エルサレム入場の際には、主イエスに従って来た多くの群衆が、「ホサナ、ホサナ、神よ、救い給え。」と主イエスをほめたたえました。
一方、そのような主イエスに反感と妬みをもっていたのが、ユダヤの指導者であったファリサイ派の人々や律法学者たちでした。彼らは、自分たちを救ってくださるメシアとなるお方は、かつてのイスラエル建国の父ともいえるダビデ王の子孫であると主張してきました。王にふさわしい権威と権力、政治的指導力を持っていた人物が救世主であると信じていたのです。
しかし、主イエスはメシアがどのように民の解放と救いを実現なさるかについて、3度に亘って「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する」(16,17,20章)と告知されていたのです。
彼らはなぜ主イエスを排斥しようと殺意まで持ったのでしょうか。それは彼らの心が頑なになって、自分たちの地位や立場が蔑ろにされることを恐れていたからです。
マタイ22章では一人の律法の専門家が主イエスを試そうとして、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねますが。それに対して主イエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とお答えになります。彼らはその律法の精神を忘れてしまうほどに利得の関係性に依存していたと言えるでしょう。
本日はマタイ23章の主イエスが「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」記事から御言に聞いていきますが。このところから主イエスご自身が何を最も大切な教えとして生きられたのかを、私たちは知ることができるでしょう。
主イエスは、弟子たちや従って来た群衆に語られます。
「律法学者たちとファリサイ派の人々は、モーセの座についている。だから彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」
「モーセの座に着く者」と言うのは、モーセが神の教えと戒めをしっかりと聞き、それを行ったように、それを人々に守り行うように指導する人を指しています。
主イエスが弟子たちや群衆に、「彼らの言うことは、すべて行いなさい」と語られたように、律法自体は正しいもので、人を生かすものに違いありません。
しかし、律法学者たちとファリサイ派の人たちは、「言うだけで実行しないから、彼らの行いは、見倣ってはならない。」と主イエスは言われます。
彼らはモーセの律法以外にも、日常においてこのように生活しなさいといった事細かに定めた600以上もの決り事を民衆に押しつけ、守るように教えていました。それを守るのはとても大変なことでした。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」と主イエスは指摘されます。彼らは口では律法を語り教えるのですが、肝心の「隣人を自分のように愛する」律法の精神が欠落していたのです。
さらに主イエスは彼らが、「すべて人に見せるため」にそうしていると指摘されます。
額や腕に巻きつける「聖句の入った小箱を大きくしたり」「衣服の房を長くしたり」「宴会では上座(かみざ)、会堂では上席(じょうせき)に好んで座ることを好み」「広場で挨拶されたり」「先生と呼ばれたりすること好んでいた」というのです。彼らはいつも自分を人によく見せ、賞賛されことを求めていたのです。
マタイ6章には、主イエスが「施しをするとき」「祈祷をするとき」「断食をするとき」に大事なことを語られていますので、あとでゆっくりと読んで頂ければと思いますが。
そこには、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」「祈るときも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」と、主イエスは教えておられます。
ここで共通しているのは、「偽善者のようであってはならない」という点であります。それは本日の箇所の律法学者やファリサイ派の人たちの間に見られることでもありました。
「偽善」という言葉を広辞苑で引くと、「本心からではなく見せかけにする善い事」と解説があります。律法学者たちやファリサイ派の人たちは、本来は神によって招かれ、民の間で立てられた者であったのです。彼らは神を敬い、神の義に聞き従い、律法を説き、教える立場にありました。
しかしそれがいつの間にか、自分たちは特別な者といった特権意識を持つようになっていったのでしょう。賢く立派な人、人に賞賛され、もっと重んじられる者になりたい。いつもそんなことを考え、そのような思いでいっぱいになっていたのかも知れません。
マタイ18章では弟子たちの間で、「天の国でいちばん偉い者は、いったいだれか」といった議論が起こったようですが。そこで、主イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。
子どものようにというのは様々な解釈があるでしょうが。先の律法学者やファリサイ派の人々の偽善と照らし合わせば、小さな子どもは人からどう見られるかなど重要だとは思わない、ということがあげられるでしょう。見せかけの良いことをして自分が人より立派になりたい、一目おかれたいなどと小さな子どもは思わないでしょう。主イエスが子どもを招かれた時も、子どもはいかに自分が出来る人間かなどとは考えもせず、そのあるがまま主イエスと人々の前に心を開いて出て来たことでしょう。その子どものように何も着飾ることなく、立派に見せようと偽善になることもない。それは真に解放されている人の姿を表わしているように思います。
主イエスは私たちが神の愛といつくしみによって真に解放され、他者と福音の喜びを分かち合うことを願い、招かれます。その招きは私たち自身が、神への愛と隣人愛を生きる者とされるためのものです。
私たちは主に救われた喜びと幸いから、奉仕や働きがなされていきますが。その喜びや幸いが色あせ薄れていきますと、奉仕や働きが重たくなり、しんどくなっていくことが起こることもあります。そういうときにこそ、ヨハネ黙示録2章4節「はじめの愛」に立ち返っていくことが、大事でしょう。奉仕も働きも、また毎週一緒に捧げております主日礼拝も、すべては主の救い、解放された者としての喜びと感謝、それは、ただ、恵みによる外ありません。あの幼子のように主のもとに招かれている喜びを生涯に亘り保っていきたいですね。
最後に8節以降を一気に読ませて頂きます。
「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」。
主イエスは弟子たちの間で、だれがいちばん偉いのか、と論じ合われていること残念に思われていました。倣うべきお方はイエス・キリストお一人なのです。
主イエスは、弟子たちや主イエスに従って来た群衆たちの間で、それは今日的にはキリストの教会において、あるいはキリスト者、クリスチャンの間で、このように指摘されておられるということです。
私たちのバプテスト教会においては、牧師は教職者や聖職者ではなく「教役者」と呼んでいます。役者のようにも読めますが。それは、いわばキリストの教会から託された役割の人ということです。教会が主の導きのもとで宣教や聖礼典、牧会のために立てているのです。役割からしてその責務は重く、その分給与にも与かっているのですが、同じ兄弟であり、信徒なのです。聖霊の導きによって、キリストの信徒である私たちが共にキリストの体なる教会を建て上げていく、そのような共同体なのです。キリストの愛によって互いに仕え合い、助け合いながら、福音の拡がりを祈り求めていく教会、私たち一人ひとりでありたいと願います。
先週お伝えしたように、倒れて救急で病院に搬送されるという初めての経験をしましたが。そこで思いましたのは、私が倒れても教会の働きが不断になされていくだろうか?いや、働きが止まってしまうようなことがあってはならない、ということをつくづく考えさせられました。もちろんそうならないように、どうか私に託されている働きが守られるために続けてお祈りください。同時に皆さまお一人おひとりが主の招きに応え、キリストの弟子として歩まれる幸いを祈りたいと思います。
今日の宣教題を「イエス・キリストに倣って」とつけさせていただきました。
「自分を低くして、子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」と言われ、自ら柔和なろばの子に乗って来られた主。
「いちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と語られる主。
今受難節の只中でありますが、そのように語られる主イエス・キリストご自身が家畜小屋に生まれ、生涯神と人に仕え、私たちの罪をあがなうため、十字架の死に至るまでご自身の身を低くされたのです。私たちはその主の救いと解放の恵みに与っている者として、神の愛と隣人愛に生きる実りある人生を歩んでまいりましょう。祈ります。
礼拝宣教 マタイ21章1~17節
七日の旅路を守られ、こうして導かれて主の御前で礼拝を捧げられます恵みを感謝します。私事で恐縮ですが、先週の火曜日午後に事務室で仕事をしていた時に座っていた椅子から落ちてどうやら後のテーブルに後頭部をぶつけてしまいもうろうとしていました。その時に連れ合いから電話があり受話器をとった私は「ここどこ?」と答えたそうですが。その後救急者で病院の最寄りの病院の救命救急科に運んでもらいいろんな検査を受けた結果、病名は外傷性くも膜下出血であるということでした。けれどその後は不思議と守られ、一日入院した後、何と退院することができました。ほんとうに唯、神に感謝するほかなかったです。また、連れ合いにも感謝でした。還暦を過ぎてから年齢とともに体が以前のようには無理ができなくなってきていますが。しかしそういう中、今日も礼拝に集うことができ、宣教にも立つことができましたこと。唯、感謝です。
受難節・レントの第3週を迎えました。今日は先ほど読まれました主イエスの宮清めの箇所から御言に聞いていきます。
主イエスはいよいよこの21章でエルサレムに入場されます。それは勝利者ダビデが王として迎えられたようなものではなく、十字架の苦難へと向かう道でありました。
この箇所はマルコ、ルカ、そしてヨハネとすべての福音書に記されています。それほど主イエスのエルサレム入場と神殿の宮きよめは弟子たちに強いインパクトを与える出来事だったのです。 中でも9節の「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と、群衆が賛美している場面は、この主イエスこそ神の救いのご計画を成し遂げる救い主である、というメッセージです。このホサナは、「神よ、救ってください」という意味で、救い主を待ち望んできた民の叫びであり、切なる祈りなのです。
まず、主イエスはエルサレムに入城されるために子ロバをお用いになられました。王として勇ましく格好のよい軍馬ではなく、ろば、しかも子ろばにお乗りになられるのです。
旅行者の旅の便宜のために用い、また荷を運ぶためにも用いていたろば。さらに農耕にも用いられていました。
自らの勇ましさを誇示するためなら軍馬を用いるでしょう。けれど主イエスはエルサレム入場というここ一番の時に、軍事力や権力と関わりのない、人々の日常生活に欠かせないろば、地道に奉仕し、働くろば、それも未熟で小さく弱々しい子ロバに乗ってエルサレムに入場なさるのです。
預言者ゼカリヤの書9章9節には、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられし者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」とありますが。マタイ福音書はこの救いの王、メシアの到来の預言の言葉をアッシリア、バビロン、ギリシャ、そしてローマなどの大国の支配のもとで翻弄され、打ちひしがれてきたエルサレムの人々のために、救いの王である主が来られた。その旧約で預言されてきたメシヤ、救い主である王は、「高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って来る」とあるように、主イエスは「柔和な王として荷を負うろばの子に乗って」おいでになられるのです。
「柔和」を国語辞典で調べますと、「性質や態度がやわらかであること」と解説があります。けれども聖書の「柔和」には、たとえば詩編37:11に「貧しい人々は地を継ぐ」というその貧しさ、打ちひしがれている有様、という意味があります。それは唯、神の救いを深く待ち望むほかない人たちです。主イエスはそのような唯、助けを求め、祈るほかない人たちの痛みと苦しみ、悲しみと嘆きを自らも知っておられるお方です。そのお方が、救いと解放をもたらす「柔和な王」としておいでくださったのです。
ところがです。10節「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、『いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ』と言った」とあります。
ここを読むと、子ろばに乗ってエルサレムに入場されたイエスさまに対して、2通りの人たちがいたことがわかります。一方は、子ろばに乗る主イエスをほめたたえていた群衆たちです。彼らは世にあって貧しく、小さく、低くされていた人たちでありましたが。主イエスの神の国の福音といやしと解放を受け、主イエスについてきた人たちでした。もう一方は、エルサレムの都に住む多くの人たちでした。その生活はローマの支配下にあっても、まあ保証されており、ある意味その居心地の良さが揺るがされることを不安に思う人たちも多くいたのです。そのため、子ろばに乗った主イエスとそれを喜びながら従って来た群衆を見て、その心は穏やかではなかったのでしょう。
「救い」とは何でしょうか。それが起こった時、実現した時、「ああ救われた」という実感を持つ。それが救いです。でも、助けが必要でないと思っている人にその救いは実感できないのです。
それから、主イエスは子ろばから降りられると、神殿の境内に入りました。(当時のヘロデ王の時代の神殿の絵図を週報の表に添付していますのでご覧下さい)
まず、大勢の人が見える境内(A外庭)は、ユダヤ人以外の異邦人も入れ、多くの礼拝者でにぎわっています。そこには神への献げものとなる動物が売られ、又捧げものをするための両替所が見えます。しかしだれもが自由に出入りできたのはこの外庭まで、その奥の中庭(B)には異邦人や子供や障がい者は入れません。だから異邦人の私たちはみな外庭までですね。またユダヤ人でも献げ物ができる人しか入ることができません。そしてさらに、その奥は至聖所(C)があります。そこで焼き尽くす捧げものが献げられ、罪のゆるしの宣言を受けるのです。そこには神殿に仕える祭司たちがおり、ユダヤ人としての条件の整った男性しか入ることができなかったのです。女性は中庭まででした。
さて、神殿の外庭に入られてその様子をご覧になれた主イエスは、12節「そこで売り買いしていた人びとを皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」と怒りをあらわにされました。神に心から助けと救を求めて来ている人たちが、締め出され、蔑ろしにされていることに、主イエスは激しい義憤を表されたのです。主イエスがここまで公然と激しく行動なさったという記事は公生涯においてここしかありません。それは、主イエスが柔和の王であるがゆえに、神の憐れみと慈しみを損なうようなことには厳しく臨まれたことを伝えております。
神殿入り口の広場、境内には犠牲の捧げものの動物を持ってくることが難しい遠方からの巡礼者もいました。長旅からの危険や苦労をしてやっと神殿まで辿り着いたのです。それが両替するのも大変な手数料を要求され、又捧げる動物はとても高い値がつけられていました。心底神の助け、救いに与りたいと願う人たちが食い物にされていたのです。両替人らはその心から神の前に出ることを願い、祈願したいという人の思いをむさぼっていた実態を主イエスは見抜かれたのです。しかもその神殿を取り仕切っていたユダヤの祭司や律法学者たちはそれを容認し、そういったやり取りでにぎわっている境内の有様を神殿の繁栄と捉えていたのです。
「神を愛し、隣人を自分のように愛する」という律法の心は損なわれ、本心から神の救いを願い、求める人たちの信心、その純粋な柔和な者の祈りを商売の道具にするような悪魔的力が渦巻いている神殿は、「神の祈りの家」からほど遠いものでした。
ユダヤの宗教的指導者はじめ、商売人、またエルサレムの都の多くの者たちの心は鈍り、人を分け隔てしていたのです。主イエスはそのような人たちに「目を覚ませ」と強く呼びかけたのです。
私たちはどうでしょう。人がたくさんいること。整った設備、教養ある言葉、活動が盛んなこと。
それも良いかも知れませんが。今日のエピソードから、主イエスは何に憤り、憂い、又何を望まれているかを問いかけています。お帰りになられてからも今日の御言を黙想し、反芻してみましょう。
さて、14節以降の記事はマタイの福音書にしか記されていないものです。ここに重要なメッセージがあります。
「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスのなさった不思議な業を見、境内で子供たちが叫んで、「ダビデの子ホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子に、あなたの賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
主イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入場された時、「ダビデの子ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と、叫んだ群衆は主イエスを慕い、エルサレムまで従って来た人たちでした。主イエスとの出会いによって砕かれた心に救いを見出した人たちが、この方こそ「神の救い」と都エルサレムへの入場を祝ったのです。
それを聞きつけた目の見えない人や足の不自由な人たちが、主イエスのそばに寄って来ました。そして彼らはいやされるのです。
すると、それを見ていた子どもたちが、「ダビデの子、ホサナ(主よ、どうか、救ってください)」と、主イエスに叫んだというのですね。
何ということでしょうか。子どもたちは主イエスのなさったことに神の愛といつくしみ、その救いを見て、「神の救い、主よ、どうか救ってください」と叫び出すのです。子どもの感受性は時に大人がドキッとするくらい鋭いものです。子どもたちは神の救いがどんな方から来たのかを、曇りのない眼で一瞬見抜いたのでしょう。
本日の宣教題を「幼子、乳飲み子の口によって」と題をつけさせて頂きました。
詩編8編2-3節には、「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちているでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」と歌われています。幼子がいつも親を探し、求め、乳飲み子が乳を慕い求めるように、「神よ、あなたを求めます。神よ、どうか救ってください」と、いかなる時にも、主を呼び求める者であり続けたいですね。
私たちもまた、その幼子、乳飲み子のような霊性をもって主に求め、柔和なイエスさまに倣う者として歩んでまいりましょう。祈ります。
礼拝宣教 マタイ20章1-16節
本日は主イエスが語られた「天の国」についてのお話です。天の国と聞くと皆さんはどのようなものをイメージなさるでしょうか。光溢れるところ、温かく愛が溢れるところ、、、人の考えは様々です。では主イエスは何と語られたのでしょう。
先ほど読まれた箇所の前の18章には、弟子たちに天の国でいちばん偉いのでしょうかと尋ねられた主イエスが、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われます。また当時、裕福で教育も受けていた律法を実践できた言わばエリートの人たちこそ天の国に入れるのだろうという考えに対して、実は彼らが天の国に入るのは大変難しく、彼らがへりくだって唯神のあわれみによらなければ救い難いことを語られます。
さらに19章には、弟子のペトロが主イエスに「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と表明すると、「神の報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と言われます。しかし、ここで主イエスは30節「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」言われて、本日の「ぶどう園の労働者」のたとえ話をなさるのです。
先にその20章が読まれたが。みなさんはどうお感じになられましたか。
朝一番からずっと働いた者とまあ終りがけにきてほとんど働いていない者と同額の賃金が支払われたとすると、朝一番から働いていた人が「不公平じゃないか」と言うのは、そうだろうなあとも思えます。何しろ日中の猛暑と熱風にさらされての作業だそうですから、涼しくなった時間に来て僅か働いて同じ扱いになると、その心情もうなずけます。思うのはごく自然に湧く感情ではないでしょうか。でも、この主人はいわゆる労働基準法に反するようなことはしていません。なぜなら、夜明けの一番先に雇われた労働者には、当時の一日の労働の対価とされる1デナリオンを約束どおりに支払っているのです。その彼らも理解のうえでぶどう園に行ったのです。ですから彼らにとっての問題は「外」にあるのではなく、彼らの「内」、つまり人と比べて不平や妬む感情にあったのです。
では、次に後で雇われた人たちについて見てみましょう。
この主人は、9時頃にも出かけて行き、仕事もなく広場に立っている人々がいたので、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と約束し、彼らはぶどう園に出かけます。さらに主人は12時ごろと3時ごろにまた出て行き、同じようにしたといいます。そこでも主人は9時にぶどう園にでかけていった人たちと同様、ふさわしい賃金を払ってやろうと約束したということです。1デナリオンという報酬の約束はなかったのですが、この午後12時と午後3時に仕事もなく広場に立っている人たちにもまた主人の招きに応えて、彼らもぶどう園に向かうのです。
ところが、この主人はもう作業も終りに近い午後5時頃に広場に行き、まだ人々が立っているのに気がついたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねます。すると彼らは「だれも雇ってくれないのです」と言ったので、主人は彼らも「ぶどう園に行きなさい」と招くのです。
もちろん彼らは喜んでぶどう園に向かったことでしょう。
が、彼らは先にぶどう園に向かった人たちと異なる点が1つありました。彼らは、「1デナリオンを払おう」「ふさわしい賃金を払おう」という約束をもらっていなかったという点です。それでも彼らは「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と思いもかけず主人に声をかけられたことに、喜んでその招きに応えてぶどう園に行かい、働いたことでしょう。
さて、夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と伝えます。
そこで、5時ごろに雇われた人たちから順に賃金が支払われるのですが。彼らは主人から予想もしていなかった1デナリオン、つまり1日の労働に価する賃金をもらうのです。時間給に計算しなおせば破格の賃金です。何という気前のいい主人でしょうか。彼らの歓喜と主人への感謝の声が聞こえて来そうです。
そして午後3時、12時、朝9時にぶどう園に向かった人たちもそれぞれ1デナリオンの賃金が支払われ、いよいよ朝一番に雇われた人たちの支払いの順番が回って来ます。きっと自分たちはもっと多くもらえるのだろうと期待していたに違いありません。ところが、です。彼らに渡された賃金も又、同じ1デナリオンであったのです。どうにも心のおさまりがつかなくなった彼らは、「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と、主人に不平を言ったというのです。
このところを読みますと、「何で長時間働いた人たちと超短時間しか働いていない人たちの賃金が同じなのか」と、そう思いますよね。確かに不公平なようにもみえます。働きに応じてというのが世の一般的な価値観ですし、生産性を社会は重んじるのです。そのように見れば、これはおかしな賃金支払いということになります。
けれどもこの主人は不当なことをしたのではなく、14節にあるように「この最後の者にも同じように支払ってやりたい」と思ったからそうしたのです。
私たちもこの主人に倣って考えますと、最後の5時に広場にいた人たちは、それぞれに事情を抱えていた人たちだったのでしょう。それは体調かもしれないし、家族のこと、様々な事情を抱えていたのかもしれません。人はより良く生活したくても、又、働きたくてもそれが難しいこともあるわけです。まあ、朝早くから広場に来れた人はそれなりの状況があったと言えるでしょう。朝9時以降に広場にいた人について新共同訳聖書は、「何もしないで立っている」と訳していますが、岩波訳聖書は「仕事もなく立っている人」と訳しています。何も怠けていたのではなく、仕事がしたくてもいろんな理由で取り残されていたことも考えられるでしょう。午後5時の人たちにいたっては、もはや誰から声もかけられず顧みられることなく、ただうなだれるほかなかったのではないでしょうか。その彼らの思いを、ぶどう園の主人は広場に足を何度も運ぶことによって、知ったのでしょう。
野宿生活をなさっておられる方々からお話しを伺いますと、怠けようとして野宿しておられるのでは決してないということを知らされます。空き缶や段ボールの収集でわずかな収入を得ながら働いておられる方、また、働きたくても働くことができない様々な事情をそれぞれが抱えておられるのです。
また、知的障がい者施設止揚学園の前福井達雨園長は、「子ども笑顔を消さないで」のご著書の中で、「目に見える生産性から見れば、私が5の仕事をした時、障がい者は1の仕事しかできません。でも、今、同じ仕事をしているのですが、私が1の目に見えない努力をした時、あの人たちは、5の努力をしなければいけません。この生産性と努力性は、同じ価値だと思います。」と福井先生の実体験からおっしゃっています。
このたとえ話で主イエスは世の経済的論理ではなく、「天の国」とはどういうものかという話をなさっているのです。
朝早く来て夕暮れまで一日働いた者、又、途中から働いた者、そして夕暮れの仕事が終わる直前に来た者も、みなが等しく、それぞれふさわしい対価として1デナリオンが支払われます。天の神さまは、その一人ひとりを尊く価値ある存在として愛し、慈しんでおられることがこの話から伝わってきます。
1デナリオン。一日の労働に対する対価この賃金は、その日を生きていくために必要な命の糧と言えましょう。それを天の神さまはみな等しく与えてくださるのです。
旧約の時代、天から与えられたマナという糧は、多く集めた者も少なく集められなかった者にも、量ってみればなぜかみな一升でした。それで等しく、誰もが皆、命を養われたのです。
主イエスはご自身のことを「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して受けることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)と言われました。私たちはこの命の糧、主イエスによって活かされているのです。
今日の「ぶどう園の労働者」のたとえ話から、私は宣教題を「ただ、恵みによって」とつけました。
私たちもまたそれぞれに、神のぶどう園に招かれています。この主の招きは人の側の価値観を遙かに超えた「ただ、恵みによる」ものです。もう日も暮れそうな5時にぶどう園の主人と出会い招かれたその心は安堵し、その想像を超える報酬に喜びと感謝が溢れます。
ところが、それなら自分はもっと受けても当然と考える人たちは不平を口にします。よく言われますのは、人生の最後の床の中で主を信じた人も同じように救われるのはずるいように思えるという話です。自分は朝早くから働き、昼は太陽が燦々と照りつける中を辛抱しながら、汗を流し労したのにと、そういった不公平感が起こってしまうでしょう。
ルカ15章の有名な「放蕩息子」のたとえで、父が放蕩の生活を悔い改め帰って来た弟息子を手厚く迎え入れた時、その兄は父に不平をぶつけます。しかし父は兄息子に、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と言います。兄はずっとその父のそばにいて、いつの間にかその恵みの偉大な尊さに対して心が鈍くなっていったのではないでしょうか。そのため悔い改めた弟への父の大きな愛が見えなくなり、その喜びを共にすることができなかったのです。
主イエスは弟子たちにおっしゃいます。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。
当時ユダヤでは、律法を学び、守り、行うことで神に認められ、天の国は近づくように思われていました。そして、それを守ることが出来ない人たちを罪人と見なし、天の国から遠い者と見下していたのです。しかし主イエスはそうした罪人と呼ばれ、裁かれるような人たちと出会い、交流し、天の国の福音を伝え、招かれるのです。主イエスはその働きのために弟子たちにこのたとえをお話になりました。
彼らも又、おごることなく、謙遜で、人を見下すことなく、神の恵みを共に喜ぶ者となるためです。天の神さまは、最後まで広場に残されている人たちを決してお見捨てになることなく、今日もいつくしみ深い眼差しを注いで、天の国へと招こうとしておられます。
「ただ、恵みによって」歓喜と感謝に溢れる私たちを主は楽しみとしてくださるでしょう。又、「ただ、恵みによって」という主への感謝と喜びこそが、私たちの信仰のバロメーターなのです。
私たちの信仰経歴や年月が、その神の恵みに対する感受性を鈍らせているとしたら、「先にいる多くの者」の一人なってしまうでしょう。「ただ、恵みによって」ある今を、今日も喜び賛美しつつ共に天の国の幸いに与ってまいりましょう。お祈りします。
礼拝宣教 マタイ18章21―35節
3月を迎え夜明けが早くなり、梅の木にはつぼみをつけ、春を感じます。教会暦では5日水曜日からレント・受難節を迎えます。十字架の苦難を耐え忍び、その死によって私たちの罪のゆるしと救いのみ業を成し遂げられた主イエス・キリスト。そのお姿を胸に刻んで受難節を歩んでまいりましょう。
先週は様々なことがありました。まず感謝でしたのは関西地方教会連合と連盟教会音楽研修プロジェクトと共に賛美フェスタIN関西が当教会で行われ、感謝連合諸教会はじめ他教派の教会の方々も含め100名近い方々が教会堂にあふれるほどとなり、午前中は教会音楽や賛美について共に考え学び合い、午後は皆で共に賛美をささげる素晴らしい恵みの時になりました。前日はまた連合としても期待されていた礼拝奏楽者研修会も当教会で行われ、講師の方から「奏楽者の心得」についての講演、ピアノによる個々人の実技レッスン・アドバイスも行われ、大変有意義な時になりました。連合会長としての今年度の働きを無事に終えることができました。主とまた支え祈っていただいた教会のみなさまに心から感謝いたします。
さて、先週はもう一つショッキングなことがありました。天王寺区の国際交流センターで開かれた「海外ボランティア体験コンサート」のチラシ案内を知人から頂きました。主催は国際青少年連合・主管は日本多文化センター・後援が大阪府と大阪市教育委員会だとチラシに明記されていたので、まあ行ってみようと足を運びました。中に入ると1000人収容できる会場が人であふれており、その多くはアジア系の青年でした。開演とともにこの海外ボランティアの会長で韓国の牧師らしい人が、ヨハネ福音書やローマ書の御言から熱情的にメッセージを語り始めました。
内容はキリストの血による罪の贖いにより、私たちは義人とされたというところからでしたが。話をさらに聞いていて、何かおかしい変だぞと違和感がわいてきました。その人は「十字架のあがないを受け入れたら義人なのだから、罪人ではない。だから自分を罪人だと言うな」と言います。まあそこまではわかりましたが。この牧師といわれる人はさらに、「義人となった。ゆるされているのだから、もう罪を悔い改める必要はない。そうですね」と会場の参加者に向けて強く訴えると、そこに集まっていた青年たちが一斉に「アーメン」と大声で応答するのです。それは異様な光景でした。聖書のどこに「罪を悔い改める必要ない」などと書かれているでしょうか?それは罪ある生き方をよしとする、聖書の言葉を曲げた教えです。キリストの使徒パウロは、バプテスマを受けても以前の悪い行いを、「すべてゆるされているのだから」と言って改めようとしない人たちを強く戒めました。その後に続く華やかな合唱団はじめ、青少年たちの燃え上がるような踊りは、プロ顔負けでしたが、神を賛美するものではなかったです。さらに海外ボランティア体験者の演劇がなされたのですが、それはその活動がいかに良いものかを強調し、不信や疑いを抱く親御さんや家族に対してのアピール作りでした。その演劇のある映像の中で、ふとある教団の表記を目にした時、キリスト教界で注意喚起されている異端カルト一派であることを確信しました。帰宅後このチラシを善意で私にくださった知人にこのことを連絡しますと、「異端の活動は大変恐ろしいですね。」との返信がありました。判りづらいだけにだれもがカルトに取り込まれる危険性と怖さを経験しました。
そういうことで、本日は「ゆるされた者として」と題し、マタイ18章21節-35節から御言葉に聞いていきましょう。私たちは神の深い愛と憐れみによって、救いと解放に与り、クリスチャンとされています。
けれども人としての弱さや至らなさを抱え、気づかないうちにも罪を犯すことがあります。だからこそ私たちは聖書を読み続け、気づいたところから神の御心に聞き従い、悔い改めて神の義と愛にとどまり続けることが本当に大切です。
この18章のはじめの節で、主イエスは「心を入れ替えて、自分を低くし、こどものようにならなければ決して天の国に入ることはできない。」と言われます。
その天の国の関係性において、15節では「罪を犯した兄弟がいたら、黙認するのではなく、その相手と直接会って、忠告するように」と言われました。そこで相手が言うことを聞き入れた、つまり自分の罪に気づき、悔い改めたなら、「兄弟を得たことになる」と主イエスは言われます。それは18節に「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という神の罪の贖いと救い、その解放が主の兄弟姉妹の間に起こされ、この地上においても神の国、天の国が訪れるということです。
ここで筆頭格の弟子ペトロが主イエスに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」と尋ねました。
すると主イエスはペトロに、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とお答えになります。
この七の七十倍というのは7×7その10倍、はい490回ということではありません。完全を表す7が、しかも70倍ということですから、それはもう無限大という意味なのです。どこまでも、とことんまでゆるしなさいということです。
そこで、主イエスは今日の「仲間を赦さない家来」のたとえをなさるのであります。
ここで興味深いのは、このたとえを読む限り、主イエスは何一つ道徳的な理由づけをなさっていません。こう言ってあげた方が相手のためになるとか。相手をゆるすことはあなたの功徳、徳になるとか。そういう解説は一切なさらないのです。
主イエスは唯、「天の国は次のようにたとえられる」と、「天の国」についてお語りになります。それは主にある兄弟姉妹という神の共同体、教会に向けたたとえです。同時に主は、この社会、この世界に「天の国」が訪れるように、と語られたのです。
それでは今日のたとえ話を見ていきたいと思います。
まず、ある家来が王から1万タラントの借金をしていました。1タラントが当時の労働者の6,000日分の賃金ですから。その6,000日分の賃金の1万倍に当たるというとてつもない莫大な金額です。家来はその莫大な借金を返済できなくなったのです。損害を被った主君は、家来に向かって自分も妻も子も持ち物全部を売って返済するよう命じるのです。ひれ伏してしきりに懇願する様子を見た主君は、唯彼を憐れに思い、赦し、何とその国家レベルで扱うような莫大なその借金を帳消しにしてやったのです。
つまり、主君は自らに与えた家来の、膨大な借金の肩代わりを、唯憐れみのゆえに無条件ですべて負ったのです。この「憐れみ」とは、ただかわいそうというのではなく、腸(はらわた)がちぎれるような心情を表す言葉です。自らそれほどの痛みを感受ながら憐れんでゆるしたのです。それは借金を抱えていた家来には如何に大きな救い、解放でしょう。
ところがです。この家来は自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、つかまえて首を絞め、「借金を返せ」と厳しく責めたてるのです。
100デナリオンとは、100日働けば稼げる金額です。まあ大きな負担には違いないですが、この家来が帳消しにしてもらった6,000万日分の1万タラントからすれば、何とか働いて返していけそうな金額でしょう。
この家来は王に無限大といえる借金がありながら、主君の腸がちぎれるほどの思い、深い憐れみで借金を帳消しにしてもらったにも拘わらず、自分の仲間はゆるしません。借金を返すまで牢に入れるというほどの非情さです。この家来は自分が受けたゆるしがどんなに犠牲を伴う尊いものかを覚えようとしません。だから自分に対して些細な借りがある仲間をゆるすことができなかったのです。この主君はそんな家来に「『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきでなかったか。』」と言います。
主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」とあります。
このたとえを話し終えた主イエスは、最後にこう言われます。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」。
主イエスは、私たちに自分の感情や思いを押し殺して、「ゆるしなさい」とおっしゃっているのではありません。ただ教えとして聞いても、そうゆるせるものではありません。大切なのは、この神のゆるし、この愛を見よ、忘れるな、というメッセージなのです。
私たちが礼拝の中で共に祈る「主の祈り」は、マタイ6章とルカ11章で主イエスが弟子たちに教えた祈りの言葉がベースになっています。
ご存じのように、その中には「ゆるし」についての祈りがあります。「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。この祈りはもともと主イエスが、まず「わたしたちの罪(負い目を)をゆるしてください。」との祈りが先なのです。如何に自分はゆるされなければ救われ難い者である、解放されない者である、そのどうかこの「わたし(たち)の負い目(罪)をゆるしください。」との信仰の告白がこの土台にあります。神の深い憐れみとそこで払われた犠牲の愛によって、わたし自身がゆるされている。その計り知れないその恵みを覚えるなかで、「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるします。」という祈りが与えられていくのです。その無限大の愛とゆるしを受け、「天の国」に招き入れられていることに気づき直す、神に立ち返ることが大事なのです。神のゆるし、その慈しみの中で、人と人とが共につながり、和解し、解かれ、解放されていく天の国、神の国の喜びの知らせ、これこそが福音なのです。
本日の箇所では、「ゆるし」について主イエスが弟子たちに語られたことを、読み解いてきましたが。
その主イエスは、唯一つ「赦されない」ことがあると言われました。
マタイ福音書12章のところでこのようなことをおっしゃっています。「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜は赦されない。人の子(主イエス)に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない」。
膨大な借金をしている家来の苦悩を知って深く心を痛め、その膨大な借金すべてを肩代わりして、ゆるしと解放を与えた君主の姿。それはまさに、罪に滅びゆくほかないような私たちを深く憐れんで、御子イエスを与え、罪の負い目と滅びからあがない出して下さった神の愛を物語っています。7の70倍どころか、スケールを超えた寛大なこの愛と救いに招き入れてくださる聖霊。この聖霊こそ神の大いなるゆるしを証明なさるのです。主イエスは、その聖霊に言い逆らう者はゆるされない、と言われます。
聖霊は「もう罪がゆるされているのだから、何をしてもいい」などと言われるでしょうか。
「7回ゆるせばあとはゆるさなくてもよい、敵として憎め」と主は言われるでしょうか。
聖霊を冒涜することだけは「ゆるされない」と主は呼びかけておられます。
この世界、この社会、私たちの身近なところでも様々な対立や争いが起こっていますけれども。慈愛なる神がどれほどの代価を支払ってくださったかを忘れることがないよう、主の十字架を仰ぎ、「ゆるされている者として」、神の愛に生きてまいりましょう。