日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

十字架の言(ことば)

2024-03-24 18:30:56 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ19章17-30節 受難週

レント(受難節)の1ヶ月あまりヨハネ福音書からイエスさまの告別のお言葉を中心に読んできましたが。いよいよ本日イエスさまの十字架の受難と死を覚えて過ごす受難週を迎えました。今日はイエスさまの最期の1日に起こった記事より御言葉に聞いてまいりましょう。

「権限について」
まずこの19章8節以降には、「イエスさまを十字架につける権限」をめぐるローマ総督ポンテオ・ピラトとイエスさまとの問答が記されています。
その中でピラトが、「お前を釈放する権限も十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言うのでありますが、イエスさまは、「神に与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」とお答えになります。
そこでは、イエスさまが神の主権によって十字架にかけられたこと。イエスさまが、その父なる神の御心をお成し遂げられたことが明らかにされています。すべては世の力をもつ者の権限によらず、唯神さまの主権による救いの計画が成し遂げられ。この事実をイエスさまは明らかにされるのです。
このイエスさまのお言葉は、ローマ総督のピラトに神への畏れを呼び覚ましたのでしょうか。彼はイエスさまが十字架刑に相当するような罪を犯したと認めることはできず、その責任から逃れるために何とかイエスを釈放しようと努めるのです。
しかし、ユダヤの指導者たちは「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と叫びながら激しく抗議します。
さらに、ピラトが今一度「見よ、あなたたちの王だ」「あなたたちの王を十字架につけるというのか」と問いかけると、ユダヤの祭司長たちは「わたしたちは、ローマの皇帝のほかに王はありません」と断言するのです。彼らは神が約束された救い主、メシアなる主を拒んで、事もあろうに地上の王以外の王はいないと、彼らが何に仕えているかを暴露するのです。ピラトも又、神への畏れを抱きつつもイエスを彼らに引き渡します。

17節「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴダという所、それは処刑場でありますが、そこへ向かわれた」とあるように、イエスさまは「自ら十字架を背負われた」のです。
それは、イエスさまがあのゲッセマネの園で血の汗をしたらせながら懸命に祈られた末、父なる神の御心を悟り得、そこで確か父なる神の御心にご自身を従わせる道を選び取られた事によるものでしょう。一人の人間として大きな恐れや深い葛藤がある中で、なおも父なる神の御心、ご計画は成し遂げられることを切に願われたからでありましょう。まさに、「御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため、御子によって世が救われるため」(ヨハネ3章16節)であります。イエスさまはそのために自ら十字架を負われたのです。唯この神の愛と救いにすべての権限があるのです。

「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」
さて、ローマの総督ピラトは、イエスさまの十字架の上に「ナザレのイエス、ユダヤの王」と、その罪状書きを掛けた。それは「ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれてあった」とあります。ヘブライ語はユダヤ人の言葉で、ラテン語はローマ帝国の公用語、ギリシャ語は当時の地中海世界で広く使われていた共通語でした。それはいわば全世界に向けられた、「ナザレのイエスこそ王、神の救い」という真理のメッセージであったのです。
ユダヤの民は旧約時代からずっと来たるべきメシア(救世主)、ユダヤの王の到来を待ち望んでいました。この罪状書きを見たユダヤの指導者たちはピラトに、「この男はユダヤの王と自称した」と書き直してくださいと言うのであります。しかしピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と退けます。ピラトの中に正しい人を引き渡したという罪悪感があったかどうかはわかりませんが。このことによってナザレのイエスがユダヤの王であるばかりか、世界の王、救い主、キリストであることを全世界に布告されることになったのです。実にここに神の摂理が示されているのです。

「成し遂げられた」
このヨハネの福音書は、旧約聖書で預言された来るべきメシア(救世主)が、イエスさまであられることを証しています。
18節には「イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真中にして両側に十字架につけた」とありますが。それは預言者イザヤの書53章12節に、「彼は罪人のひとりに数えられた」と記されたことが事実となったことを示しています。
又、「兵士たちがイエスさまの服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着は一枚織の衣になっていたのでくじ引きをして決めた」とあります。これはメシアの苦難を預言したといわれる詩編22編19節に「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」と記されていることと同様のことがなされたということです。そのようにイエスさまの十字架の苦難と死は、旧約聖書に予め預言されていた神の救いを成し遂げられる苦難のしもべのお姿そのものであり、そのお方によって神のご計画の実現は成し遂げられたのだということが証されているのです。
28節「イエスが、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」とありますのも、「口は渇いて素焼きのかけらとなり」という旧約聖書の言葉が実現したのであり、兵士たちが、酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出したのも、詩編の「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇くわたしに酢(酸いぶどう酒)を飲ませようとします」と記されたメシアの苦難に対する預言の成就ととれます。
この酸いぶどう酒を差し出すために使われたヒソプの枝は、かつてイスラエルの民が囚われのエジプトから神によって導き出される折、エジプトで起ころうとしていた災いを過ぎ越すためにほふられた小羊の血をそのいヒソプの枝に浸してから、それぞれの家の門柱に塗ったのです。それによって民は滅ぼすものから守られ、救われるのです。
バプテスマのヨハネは、イエスさまを「世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。イエスさまはまさに世の罪を取り除く過ぎ越しの小羊として十字架上でほふられたのです。ヒソプの枝はその神の御心、救いのご計画が実現する証しであったのです。

「主イエスの十字架の下から始まる新しい関係」
最後に本日の箇所の中で、もう一つ心に留まる光景がございます。
それは、十字架のイエスさまの側に留まり続けていた女性たちのことです。
25節「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」とあります。
マタイの福音書によれば、そこでは大勢の婦人たちが遠くから見守っていたともありますが
この女性たちはイエスさまがガリラヤにおられた時からいつも付き添い従ってきたようです。彼女らはイエスさまとその一行の身のまわりのことや食事のお世話をしてきたようですが。イエスさまが捕えられて弟子たちがみな逃げて行く中、なおイエスさまの十字架の側に留まり続け、その死の最期を見届けた彼女たちの姿にはひときわ存在感があります。 
苦しみの果てにいまわの息であられたイエスさまは、十字架の上から母とそのそばにいた愛弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。それから愛弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われます。
この愛弟子とはヤコブの兄弟ヨハネであったようですが。彼はイエスさまのお言葉を受けると自ら進んでイエスさまの母マリアを引きとり、世話をしたようです。イエスさまの母マリアも同様に彼の申し出を受けたのでしょう。
死ぬ直前にはよく自分の母親を家族や親族に、この人はあなたの親なのだからとか、子どもなのだからよろしく頼んだよ、と言うのが一般的にはあるでしょう。しかしここでイエスさまは、自分の肉親ではない愛する弟子に「この婦人はあなたの母です」。母には「この人はあなたの子です」と言われるのです。
イエスさまはマタイの福音書12章において、ご自分の母と兄弟が訪ねて来たことを聞かれた時、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」とおっしゃって、弟子たちの方を指してこう言われました。「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟姉妹、また母である」と言われるのです。イエスさまに信頼し従って来た弟子たちや女性たちはどんなに嬉しく誇らしかったことでしょう。

この十字架のみそばで母マリアは、愛するわが子が、嘲りと暴力によって血にまみれた姿を前にしていました。かつて預言された通り、剣で心を刺し貫かれる苦しみがマリアを襲っていました。
イエスさまはわかっていらっしゃったのだと思います。たとえ肉親の兄弟がどんなに慰めても、到底癒されない。一生立ち直れない。それほどの状況、それほどの状態です。弟子たちも又、人生をかけて従って来たイエスさまを取り去られる絶望と暗闇の中にいました。
唯彼らが救われるとするなら、それはまさにすべてのご計画は神の御手のうちにあると知ること。その苦難の先には全世界に向けて、大いなる救いの喜びと神への賛美が起こされていく、そのキリストの勝利を体験していくことの外ありません。それは、主イエスが生きておられるという体験であり、今もとこしえまでも主イエスが共におられるという永遠の命の希望です。

イエスさまがこの時、愛する母、嘆き悲しむ母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と仰せになった。また愛する弟子に「見なさい。あなたの母です」と仰せになった。この瞬間、イエスさまと苦しみを共にする者の間に、血縁を超えた新しい人間の関係が生まれたのです。
主イエスにある者はだれも、この神の愛と救いによってつながる神の共同体へと招かれます。
ここにキリストの教会の本質がございます。それは、いかなる人もキリストにある父母兄弟姉妹として名を連ねる者として、互いを尊重し合う救いの喜びを共有しています。
今日もこの礼拝で、主イエスの恵みと救いを共に確認しましょう。さらにその喜びと平安がそれぞれの遣わされる場所に拡がっていきますよう、祈りつつ歩んでまいりましょう。

祈り
主なる神さま。受難週にあってイエスさまが十字架を自ら背負われてゴルゴダへの道を辿り、十字架に磔にされて死なれた箇所から、今日はイエスさまの十字架の言(ことば)からあなたのメッセージを聞いてきました。
今も、世界においてロシアとウクライナ、イスラエルとガザの間に激しい戦争が続き、先行きの見えない現状であります。又、中国と香港、ミャンマーの内戦、さらに先日はモスクワにおいて壮絶なテロが起こりました。今も憎悪と自己保身が渦巻く世界において、愚かな戦争や紛争が飽くことなく起こっております。イエスさまを十字架に再び磔にようとする悪しき力が働いておりますが、それらはあなたに対しては何の力も無い存在です。すべてを治めておられるあなたに私たちは信頼し続けます。
どうか、主よ、あなたがお造りになられたこの世界を憐れんでください。又、あなたご自身の愛と救いのもとに立ち返ることができるように導いてください。又、戦火の中で逃れる場もなく飢えと寒さと苦しみの中におかれているお一人おひとりをどうかお助けください。主よ、あなたの愛につながって、すべての悪と災いにも打ち克つことができるように、この世界を守り、導いてください。
私たちの主イエスのみ名によって祈ります。アァメン。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2024/3/24 受難週... | トップ | 2024/3/31 イースター礼拝式 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿