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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

「神の畑、神の建物」

2024-04-14 13:59:19 | メッセージ
礼拝宣教  Ⅰコリント3章1-15節

 春爛漫の4月、入学、就職、又異動のシーズンを迎えています。新しい歩みを始められた方に主の伴いがゆたかにありますようお祈りいたします。

先週はコリントの第一の手紙1章から、コリントの信徒たちの間で分派や派閥による争いが起こっていたというお話でした。
今日の3章の冒頭でパウロは、「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語った」と述べます。
ここに肉の人と霊の人が出てきますが。
「肉の人」とは、主を信じてクリスチャンとなったが、その考え方や生き方は相変わらず自分本位でキリストに倣うことなく、未だ妬みや争いが絶えず、悪口を言い合っている人たちのことを言っています。
一方、「霊の人」とは、人間的に立派であるとか、完全な者という意味ではなく、どんな時も神との関係を築き、キリストに倣いながら主の平和を祈り願いつつ日々を生きる、霊的に成長している人のことを言っているのです。
ある教会では牧師が替るたびに、前任の牧師に導かれた教会員の数人は教会に来なくなり、その教会に着任された牧師の数だけ分派ができたりすることもあるようですが。
コリント教会の党派争いは、伝道者のアポロが現れて表面化してきました。彼は旧約聖書に精通し、素晴らしい伝道の働きをしました。ところが、ある人々が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言う状態になっていたのです。

ここでパウロはまずコリント教会の信徒たちに5節、「アポロとは何者か。又、パウロとは、何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」と問いかけました。
アポロも私も福音の伝道者、福音のあかし人にすぎないということであります。
それにも拘わらず、コリントの信徒はパウロやアポロが自分たちに信仰を与えてくれた者であるかのように考え、パウロ党、アポロ党といった派閥を造り反目し続け、争い合っていたのです。
そればかりでなく、自らを知恵ある者として高慢になり、人を見下す者がいました。

パウロはこの高慢になっている人たちに対して、6節で「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と語ります。
いくらパウロが優れた働きをした者であったとしても、ただ信仰の苗を植える者であり、一方アポロがいくら雄弁な働きをした者であったとしても、その福音の苗にただ水を注ぐ者であったに過ぎないのです。
実際に信仰の苗を育て、実りへと至らすことがおできになるのは、すべてのものを創造し、生かし、守り育て、永遠の命に至らせことがおできになる救いの神さま以外にいません。すべては人の業ではなく、この神さまの御業なのです。

ところで、パウロが言う「成長」とは何でしょうか。
日本は敗戦後、高度成長期がありましたが。この場合の「成長」は前進する、発展する、大きくなる、拡大することを示すものであったでしょう。けれど教会が大きくなった、人が増えた、信仰生活が長くなったということが「成長」とは言いません。ここでパウロが成長と述べたことは、能力によるものでも発展といえるものでもないのです。
先に「肉の人」に対して「霊の人」という事が語られていましたが。この神が与えて下さる成長とは、どんな時もキリストに倣う人、神の御心に聞いて歩む人、神の栄光が顕されることを忍耐強く祈り続けていく人、でありましょう。
私たちの教会においても、90歳以上であるにもかかわらず遠方よりこの礼拝に毎週出席なさっておられる方がたがおられますが。そのお姿を通して、どんなにか共々に元気づけられ、励まされます。又、仕事などの忙しさの中でも時間をできる限り作って礼拝に参加されておられる方。礼拝に対面で参加できなくても、オンラインで礼拝に参加されておられる方。真摯に礼拝の音声配信に耳を傾けておられる方、なかなか礼拝に来ることができなくても教会の祝福を祈り続けておられる方とさまざまですが。神への感謝と喜びを色あせることなく保ち続けて生きるところに、その成長は確かなものとされていくのです。

パウロは9節のところで、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と述べています。
それは自分本位の生き方でなく、豊かな実を共にみのらせていく「神の協働者」ということです。
「あなたがたは神の畑」と述べたのは、6節でパウロは植え、アポロは水を注いだ神の協働者として共につながりながら、神さまの栄光が顕わされる畑として成長するということです。

では、「あなたがたは神の建物」と述べたのは、どういう事でしょう。
それは、一人ひとりと教会がしっかりと建て上げられていくことを示しています。
パウロは「神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と述べています。この土台は11節にあるように「イエス・キリスト」であります。
パウロは「すでに据えられたこの土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできない」とも述べます。
どのような建築に際しても、重要なのはまずきちんとした土台を据えることです。

私たちの大阪教会では2013年11月に3代目の新会堂が完成しました。
基礎には確かな土台をつくるため13本もの杭が打ち込まれました。まるでイエスさまと12弟子を表しているようにも思いましたが。何よりも起工式に聖書が据えられ土台ができました。神の言(ことば)であるイエス・キリストの信仰が据えられた、ということが重要でありました。
どんなに外観的に立派で頑丈に見えても、基礎となる土台がしっかりと据えられていないのなら、大きな災害が襲来すれば、どうなるかわかりません。梁や基礎は隠れて見えませんが、建物にとってはとても大事な要となるのです。
同様に、パウロは「だれも他の土台を据えることはできません」と述べ、その土台が「神からいただいた恵みによって据えました」(10節)と述べます。
この恵みとは、パウロ自らもそうであったように、罪のため十字架にはりつけにされ、その贖いの血によって赦しと新しい命を与えてくださるイエス・キリストの救いであります。
ですから、如何にキリスト教的であろうとも、賛美歌らしきものを歌っていようとも、説法が優れていようとも、イエス・キリストを神の救いの基としないのなら、それは本質を欠いたものであり、キリストの信仰とは言えません。
キリストが、今も十字架につけられたままのお姿で私たちを、この世界をとりなし続けていてくださる。この神の愛のお姿こそが私たちの信仰の「土台」なのです。

次にパウロは、このイエス・キリストという土台の上に、「おのおの、どのように建てるかについて注意すべきです」と述べます。
建物を建てる人は、まずどんな建材を用いるか。又、その設計を熟考するでしょう。
ある人は「金、銀、宝石」と、それぞれ自分がイエス・キリストという尊い土台にふさわしいと思えるもので建て上げていこうと努めます。
「木」という自然の建材を用いて土台の上に築こうとする人もいます。ある人は「草」や「わら」によって。それが劣っているとか悪いというのではありません。問題はどのような目的でそれを建てるのか。どのようなあり方で神の栄光を表わそうとしているのか、ということです。
これは、信仰者として人生を、日々どう生きるか。どのように建てあげていくかに、たとえられているのです。
そして、やがてそれがどのようなものであるかを試される日が必ずやってきます。

13節「おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その日はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。」(13-15節)。
これは最後の審判と裁きの時を示しているように思いますが。同時にいつそういった試みられるような時が来るかわかりません。
現実の生活の中で信仰が揺さぶられる出来事が起こるかも知れません。又、思い通りにいかなくて喜びや感謝があせる事があるかも知れません。けれど、そこで主への信仰を投げ出してしまうなら、どれほどの損失でしょう。建築中半で神にある価値ある人生を投げ出さないためにはどうしたらよいのでしょう。
主イエスは、「だからいつも目を覚まして祈っていなさい」とおっしゃいました。しっかりとした信仰の土台が築かれているかどうか。日毎、自分自身が主からの問いかけに聞いて、その信仰を吟味していくことがとても大切なことです。
どんな勇者も躓き倒れることがあるでしょう。しかし、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」とイザヤ書にあるとおりです。

パウロはここで、「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、仕事が焼き尽くされたその人は損害を受ける」とは述べても、その人が滅びるとは言っておりません。「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と述べるのです。
どういうことでしょうか。
救いは、人の業にあるのではなく、唯神の御手のうちにあるからです。
神さまの目的は私たちを断罪するためでなく、救うことにあるのです。
ですから大事なことは、私たちのすべての営み、その生の全領域においてイエス・キリストを土台としていくことであります。そのように神さまに信頼して生きる限り、神さまは御憐れみによってかならず救って下さるのです。

今日の聖書の言葉は、何を土台に据えて、人生設計をしているのかを問いかけます。
イエス・キリストの土台の上に人生をどのように建て上げていくか。その土台の尊い価値に気づいた人は、その建て方、生きる質も大きく変わってくることでしょう。
たとえ、試練や予想もしなかった出来事に遭遇したとしても、主が共におられる希望、イエス・キリストという「土台」を基に据えて生きる確かさは、何ものにも勝る恵みです。
今週もこの感謝と喜びのうちに歩みだしてまいりましょう。
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