四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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論語研究 序論2-1

f:id:aristotles200:20220110171921j:plain論語読みの論語知らず」という言葉がある。

論語を読んだとしても、行動が孔子の教えと異なればどうしようもない、との意であるが、これは容易な事では決してなく、私(狩野先生)も「論語読みの論語知らず」の一人であろう。

これは徳性教養の面で述べたが、一方、「学術的に論語を理解すること」もまた困難である。

 

論語をただ読んでも、これを知る事は容易の業ではない。

古来、子供に素読をさせる時も四書の中でも論語が先とされ、また、文義が理解出来る年齢になっても、論語を先ず読む、といった風に、初学者にも理解出来るし子供にも読めるものとされてきたが、決してそうではない。

学術的に論語を研究するには、必然的にいろいろな問題があり、之れを解決しなければならない。

 

先ず明らかにせねばならない事は、六経と論語との関係がある。

孔子とは、聖人の道を大成された方であり、聖人の道は六経にある。

であれば、六経を読めば孔子の教えは明らかになる筈で、論語は必要ではなくなる。

しかし、実際はどうであろうか。六経が極めて大切であるのか、否、論語の方が大切なのか、

あるいは、六経の説くところと論語の説くところは、全て一致するのであろうか。

また、一致しないとすれば何を選ぶのか、といった問題が起ってくる。

 

論語の研究は、本文研究と教理研究とに分かれる。

本文研究については、論語の編纂されたのは何の時代か、何人によって編纂されたのか。

一説には、論語の本文は前半分と後半分では文体が異なる。

後半分は、孔子に関する記事が小説風に書かれている。

これによるのであれば、同じ論語孔子の言葉でも、信用すべきものと、信用出来ないものがあるという事になる。

 

例えば、前半部において、管仲を非難しているが、後半部では大に管仲を称賛している。

論語の中で前後矛盾が存在している。

故に後の学者はこの矛盾を解こうとし、後半部の称賛する方を齊人の加筆とした。

もし、この論が正しいとすれば論語は前半分のみが正当なのか、という問題が起きる。

 

さらに論語は、漢の時に、齊論・魯論・古論と三つの本文があり、篇敷も文字も異同があり、その解釈も様々、同じではない箇所がある。

これらの問題をどう解決すべきかという事が起きてくる。

 

所感)

■学問の道

漢字が全て旧漢字であり、文章も文語体の文章故か、読み飛ばせる余裕もなく、一文字一文字文章を追いかけている。

 

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