論語を読んだとしても、行動が孔子の教えと異なればどうしようもない、との意であるが、これは容易な事では決してなく、私(狩野先生)も「論語読みの論語知らず」の一人であろう。
これは徳性教養の面で述べたが、一方、「学術的に論語を理解すること」もまた困難である。
論語をただ読んでも、これを知る事は容易の業ではない。
古来、子供に素読をさせる時も四書の中でも論語が先とされ、また、文義が理解出来る年齢になっても、論語を先ず読む、といった風に、初学者にも理解出来るし子供にも読めるものとされてきたが、決してそうではない。
学術的に論語を研究するには、必然的にいろいろな問題があり、之れを解決しなければならない。
先ず明らかにせねばならない事は、六経と論語との関係がある。
孔子とは、聖人の道を大成された方であり、聖人の道は六経にある。
であれば、六経を読めば孔子の教えは明らかになる筈で、論語は必要ではなくなる。
しかし、実際はどうであろうか。六経が極めて大切であるのか、否、論語の方が大切なのか、
あるいは、六経の説くところと論語の説くところは、全て一致するのであろうか。
また、一致しないとすれば何を選ぶのか、といった問題が起ってくる。
本文研究については、論語の編纂されたのは何の時代か、何人によって編纂されたのか。
一説には、論語の本文は前半分と後半分では文体が異なる。
後半分は、孔子に関する記事が小説風に書かれている。
これによるのであれば、同じ論語の孔子の言葉でも、信用すべきものと、信用出来ないものがあるという事になる。
例えば、前半部において、管仲を非難しているが、後半部では大に管仲を称賛している。
論語の中で前後矛盾が存在している。
故に後の学者はこの矛盾を解こうとし、後半部の称賛する方を齊人の加筆とした。
もし、この論が正しいとすれば論語は前半分のみが正当なのか、という問題が起きる。
さらに論語は、漢の時に、齊論・魯論・古論と三つの本文があり、篇敷も文字も異同があり、その解釈も様々、同じではない箇所がある。
これらの問題をどう解決すべきかという事が起きてくる。
所感)
■学問の道
漢字が全て旧漢字であり、文章も文語体の文章故か、読み飛ばせる余裕もなく、一文字一文字文章を追いかけている。