14歳で父親を亡くして没落した商家の倅、川崎正蔵は、17歳で濱崎太平次が経営する山木商店、長崎支店に稚奉公として採用されました。
その後、川崎正蔵は、濱崎太平次の薫陶を受け、27歳で大番頭に出世、1863年に濱崎太平次が亡くなった直後、独立して神戸で起業したのが、川崎郵船。
その後、事業範囲を拡大、川崎造船、川崎重工、川崎製鉄等の川崎財閥を築きました。
松方正義の三男坊の松方幸次郎が、株式会社となった川崎造船の初代社長になり、幸次郎のアイディアで空前の造船ブームに乗り、巨万の富を得て、松方コレクションが作られました。
上野の国立西洋美術館や、国立美術館・日本美術館が作られた背景には、松方幸次郎の活躍があったのです。
島津斉興・島津斉彬・島津久光等、薩摩藩の名君達は、1840年~1842年の阿片戦争で、あの強大な清国が、英国海軍にコテンパンにやられた事。
しかも、それが、理不尽な阿片・麻薬の密輸を、ジャーディ・マセソン社が清国側の取り締まり・規制にも関わらず、清国政府の意向を無視して密輸し続けた事に対する、報復措置として清国が阿片を没収・廃棄処分した事が切っ掛けとなり、英国政府が阿片戦争を起こした事を熟知して居ました。
英国を中心とする欧米列強諸国がアジア諸国の植民地化を狙い、清国にまでその勢力を拡大して来た以上、次のターゲットが必ず日本になると、強い危機感を募らせました。
だからこそ、殖産興業、富国強兵が必要だと薩摩藩が考える様になり、江戸幕府と長期に亘る内戦を起こし、日本国内の軍事力を無駄に消耗すべきでは無いと判断しておりました。
薩摩伝承館にて展示されている