百年戦争とスコットランド III-I:廃嫡者たちの戦争

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エドワード・ベイリオルを描いた18世紀の人物画 (Public Domain)
エドワード・ベイリオルを描いた18世紀の人物画 (Public Domain)

はじめに

1328年に樹立された平和が長く続くことはなかった。エドワード三世はこの平和を屈辱的なものと見なし、1330年にクーデターを起こして実権を握った後はスコットランドに対して強硬策を取るようになる。また、1328年の平和は両王国に跨る土地保有の禁止を謳っているものの、戦争の根本原因――王位継承権を持った家系や各地方における有力家門の対立――は解決されないままくすぶっていた。

後者の問題が再燃し、平和樹立の4年後、スコットランドは再び戦争への道を歩んでいくことになる。本章ではこの「廃嫡者たち」の問題から始まり、3人の王の間で争われた戦争の経過をたどっていく。

従来――そして現在においても――中世スコットランドの「第二次独立戦争」と呼ばれたこの争いとはどのようなものだったのか。また、この時期はいわゆるイングランドとフランスの百年戦争が始まった時期(1337年)とも合致する。ふたつの戦争はどのように絡み合い、北西ヨーロッパ全体を巻き込むような「戦争のネットワーク」が形成されたのか。それらを見ていくことにしよう。

デイヴィッド二世の戴冠と摂政政権

マリ伯トマス・ランドルフの摂政政治

ロバート一世の死後、しばらくは王位継承に関する目立った問題は発生しなかった。王位継承者である王太子デイヴィッドはこの時若干5歳。スコットランド人の多くはしばらくの間、成人の王が不在の未来を想像していただろう。

一方で、政権の移行はさしたる混乱もなく行われた。ロバート一世の生前の取り決めに従って彼の重臣かつ甥のマリ伯トマス・ランドルフが摂政となり、彼が「王国を支配し、熱心かつ公正に正義を行った」(『スコティクロニコン』)ことでその未成年期は順調な走り出しを見せていた。

この時期の史料は多くないが、現存しているものからは当時の文書や財務行政が有効に機能していたことが窺える。平和条約で定められた2万ポンドの支払いもしかるべく実行された。既にロバート一世がこの世を去る前にはデイヴィッドとエドワード三世の妹ジョアンの結婚式も済んでおり、より強固な平和に向けての基盤が築かれていたと言えるだろう。

戴冠式

デイヴィッド二世の戴冠式は1331年11月24日、同月に開催されたスクーン議会の最中に行われた。単なる即位式ではなく、戴冠式であることに注目してほしい。彼は、歴代のスコットランド王ではじめて塗油と戴冠による方式で王となった人物だからである。

それまでのスコットランド王は、聖俗貴顕の長であるセント・アンドリューズ司教とファイフ伯に導かれてスクーンの「運命の石」に座し、吟遊詩人がゲール語で王の系譜を古代エジプトのファラオの娘スコータ(無論、伝説の話である)に至るまで遡り、称賛する中で王として即位する習わしになっていた。

戴冠式が2年遅れた理由について、史料は沈黙している。その理由について現代の研究者はいくつかの推測を立てている。塗油と戴冠という初の方式について教皇からの指導を待っていた、デイヴィッドが一定の年齢になるまで待っていた、2万ポンドを払い終えたのちに1296年にエドワード一世が持ち去ったスクーンの運命の石の返還を期待していたなどだ。

一方で、なぜ1331年の11月「に」戴冠式が行われたのかというのも確たる回答が出ているわけではない。しかし、当時のイングランド情勢の変化が多少なりとも影響を及ぼしていたとも考えられる。次に、その情勢の変化を見てみよう。

エドワード三世の親政開始

イザベラ=モーティマー政権

即位直後のエドワード三世は母イザベラと近臣モーティマーの強い監督下に置かれ、政治はランカスター伯(イザベラに味方したレスター伯と同一人物)を筆頭とした摂政評議会によって運営されていた。

一方、王母イザベラとモーティマーも対フランスやスコットランド政策やディスペンサー父子が有した所領や財産の配分など、積極的に政治に関与した。しかしながら、摂政評議会のメンバーでないにも関わらず政治に強く関与したモーティマーを快く思っていない者も多く、1328年10月のソールズベリ議会で彼がウェールズ辺境伯という「イングランドにおいてそれ以前には耳にしたことがない」ような特権的な称号を与えられたことはランカスター伯の反感を生み、彼による武装蜂起へと至ることとなった。

結果ランカスター伯は失脚させられ、モーティマーの権力掌握と彼への反発は強まる一方であった。同じく彼に敵対していたケント伯(エドワード二世の異母兄弟)も1330年3月のウィンチェスター議会の後、突如としてモーティマーによって捕らえられ処刑された。ケント伯の妻子は幽閉され、彼の所領の大部分はモーティマーの息子や家臣に分配されることとなった。

エドワード三世のクーデター

「犬に食われるよりも、それを食った方がましである」(『スカラクロニカ』)。このようなモーティマーの党派的な一連の行動に対し、エドワード三世は武力行使に出る。

1330年10月19日、モーティマーはノッティンガム城で捕らえられた。若い王とウィリアム・モンタギュー率いる王の宮廷の者たちが練った策略の結果だった。王母イザベラの慈悲もむなしく、翌月末にウェストミンスターで開かれた議会にてモーティマーはエドワード二世とケント伯の死に加担し、スコットランドにおける王の権利を放棄し(エディンバラ=ノーサンプトン条約のことを指すと見られる)、王の宝蔵庫を浪費するなど数々の罪状により処刑された。

しかし、彼が道義的な理由でクーデターを起こした美化するのには注意が必要だ。6月に息子エドワード(後のエドワード黒太子)が誕生し、ますます一人前の大人としての自負を強めた王が権力を掌握する上でモーティマーの排除は避けて通れない道だった。また、罪状にもある通りイザベラとモーティマーが前王の宝蔵庫にあった莫大な富を消費し尽してしまっており、王自身が強固な権力基盤を構築する上で彼らから財政のコントロールを奪還することは急務であったとも考えられる。いずれにせよ、このクーデターでもってエドワード三世の親政が始まった。

廃嫡者たち

廃嫡者たち(ザ・ディスインヘリティッド)とは、ロバート一世期にスコットランドにおける所領を失った貴顕たちのことを指す歴史用語だ。

1314年のカンバスケネス議会にて所領を没収された者たち、続く1320年に起こった反ブルースの「陰謀」に失敗して所領を失った者たち、そして婚姻や相続でスコットランド側の所領に対する権利を主張していたにもかかわらず、1328年のエディンバラ=ノーサンプトン条約でその望みを絶たれてしまったイングランド側の貴顕たちを総称する形でその語が用いられている。

エドワード一世時代から対スコットランド戦争や統治で活躍し、スコットランドのバカン伯ジョン・カミン(1308年に没)の姪で相続人のアリスの夫であるヘンリ・ボーモント(彼女を通じバカン伯領の半分の継承権を主張)や、バノックバーンの戦いでエドワード二世側に味方し所領没収されたスコットランドのアソル伯デイヴィッド・オヴ・ストラースボギーの相続人で同名のデイヴィッドなどがその代表的人物だ。

中でもボーモントは1328年の和平の際にスコットランド側の土地の譲渡を約束されていたが、その約束は履行されることなく時が過ぎていった。

廃嫡者たちの計画

エドワード三世の親政開始後、廃嫡者たちの多くはスコットランドの所領「返還」を王に請願する。彼らは王自身が対策に乗り出すか、それとも自らその権利を手に入れるために行動を起こすことを許可してほしいと述べる{『スカラクロニカ』)。

エドワード三世は彼らに対する土地譲渡が滞っている旨を摂政トマス・ランドルフに不服申し立てるも、ランドルフは一向に積極的な態度を示そうとはしなかった。おそらく、ランドルフが有する広大な所領は旧カミン家の所領(つまりは廃嫡者が権利主張していた所領)を多分に含んでおり、自分の所領を割譲することに抵抗を示していたのではないかと考えられる。

ランドルフはエドワード三世からの申し立てに対して、王が廃嫡者たちに自ら行動を起こすことを許可するのであれば「試合を始めてみればよい」と節度を保った口調で答えたとされている(『スカラクロニカ』)。平和的な手段では自らの権利主張が認められないと見た廃嫡者たちは自らの所領の借地化や放棄を通じて資金を調達し、自ら行動を起こす準備を整えていくことになる。

エドワード・ベイリオル

廃嫡者たちの動向を見る上で外せない人物が、エドワード・ベイリオルだ。彼は後に廃嫡者たちが起こした戦争の頭目となり、やがてスコットランド王として戴冠することになる。

彼は前章で述べた通りスコットランドのジョン王の息子で、父がエドワード一世によって廃位された後は一門の故地ピカルディ(現在のフランス北部)で隠棲していた。彼が再び政治の表舞台に出てくるのは1324年7月、エドワード二世が彼をイングランドに呼び寄せた時からである。現在の研究者はこの時からベイリオルと廃嫡者たちの接触が強まったと考えている。

この時のアクションが大きな波紋を生むことはなく、その後彼はおそらく故地ピカルディに戻り、1330年代初頭までを主にフランスで過ごした(その間、彼は一度海峡を渡って1327年のエドワード三世の北部遠征に参加している)。

この期間に彼は廃嫡者たちと協議しながら、スコットランド侵攻への準備を進めて行ったと考えられている。15世紀の『ブルート年代記』にはこの時スコットランドのマー伯が彼にスコットランド侵攻を促したとみえるが、その後マー伯はスコットランドの摂政に選ばれ、結果としてブルース側に与して戦うことになる。実際に誰が彼を戦争へと巻き込んだのかは判然としないが、ベイリオル家研究の第一人者はヘンリ・ボーモントが主要人物だったと考えている。

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