一乗谷城へ初めて行ったのはかなり昔。
「朝倉が館のほか、国内に館を構えまじく候。惣じて分限あるもの一乗谷へ引越し…」
という分国法「朝倉孝景条々」の史料がよく紹介されていたので、どんな城なのか見たかった。
朝倉氏が自らの居館周辺に主要な家臣を集住させことが戦国の世で、城下町の最初という。
だが行って見ると、深い堀も高い石垣・土塁も少なく、いわゆる城下町のイメージではなかった。
当時は家臣たちの復元町並もなく、一乗谷川の流域に草原が広がっていた。
朝倉館の唐門。
一乗谷城跡、朝倉氏館跡遺跡の象徴的な建造物。
門の左右に土塁がきれいにのびる。
唐門をくぐって居館跡を通り、一段高い台地に作られた湯殿跡庭園へ。
ここから館跡、唐門を俯瞰、遺跡全体がよく見える。
きれいに整備されている。
南北2キロに長く広がる城跡をゆっくり散策。
およそ百年の間、信長に攻め滅ばされ灰燼に帰すまで、朝倉氏はこの地で栄華を極め、一万人もの人々が住む町並が形成されていたという。
この間、将軍・義昭も、明智光秀、多くの文化人も滞在逗留した。
散策する一帯は朝倉氏の館跡で、いわゆる詰めの城は、館背後の山城。
ここから1時間ほど登らねばならないという。
本丸あたりからは福井平野一望というが。私はだめだ~!
城下町の南手口、長大な土塁の「上城戸跡」を南から。
高さ5㍍、長さ100㍍、土塁上には塀が築かれ、土塁の前には堀が設けられいた。
だいたいは唐門あたりをブラブラするだけで、この土塁を初めて見た。
復元されている街並みの屋根を眺めながら、
川沿いに下って、「下城戸跡」へ。
一乗谷川がもっとも狭くなったあたりに城門が築かれていた。
土塁の背後に、高さ4㍍もの巨岩を桝形に40㍍の長さで組み込み、北の守りとしたのである。
北の守りは堅固。
今まで、脇の道を、ここを知らずにすいすい通過していた。ったくもう!
今回一番見ごたえがあった。
朝倉館跡は、草原広場のようで、楽しい散策を満喫した。
館や、櫓、城塀などの復元がいまだないのが残念。
館跡の一角の、朝倉義景の墓所。
朝倉氏の栄華は義景によって終焉した。
武田勝頼の最期を思わせるような義景の最期だが、あまり話題にならない。
私も詳しくは知らなかった。
信長が越前に攻め入ったのは天正元年(1573年)8月8日、一乗谷を焼き尽くしたのは、8月17日という。
出陣していた義景が一乗谷へ逃げ帰ったとき、あわれ、ほとんどの将兵は城下町から逃亡してしていたという。
三日後、義景は大野まで落ち、自刃した。
阿鼻叫喚の落城がウソのような、青空と草原…。