友との旅は、長篠城址から長篠(設楽原)合戦の古戦場へ。
「いやぁ、ありがと、強右衛門さんの墓参ができるなんて思いもしなかったよ」
「そうか、じゃ次は、我ら信州の真田兄弟の墓参だな」
「おぉ~、真田兄弟、そうか、長篠で死んだんだ!」
「昔、亡きまぁちゃんと三人での『テニス部三強の旅』で、真田兄弟の菩提寺、上田の信綱寺へ行ったなぁ」
「そう、そうだった…」
左から信綱室、信綱、昌輝の墓塔。
家臣が長篠から首級を持ち帰り埋葬したという。
我ら三人は高校時代テニス部(当時は硬式庭球部)だった。
県大会団体優勝、強右衛門に感涙感動してる相方と組んで列伝は個人戦ダブルス優勝、シングルスは列伝が優勝(ナンカイオナジコトジマンスルダ、モウ!)
その後テニスを続けたのは、列伝だけだったが、我ら三人はずっと親交を続けてきた。
「おれ、慶応の合格発表にまぁちゃんと一緒に行ってさ。『ほほ、受かったわ、おい、パチンコ行くぞ』にはあきれたわ」(笑)。
そんなまぁちゃんは三年前、先に旅立ってしまった…。
最近は毎年1回、春日山城、小諸城、上田城、高田城へ…行ったなぁ。
真田信綱・昌輝兄弟は、馬防柵が復元されている主戦場から少し離れた北の地の高台に主だった家臣と並んで眠っている。後方の墓地。
真田隊は武田方の右翼先鋒・馬場信春隊と並んで、織田方と全面衝突した。
戦国最強の武田軍がこんな狭い山あいの地で騎馬軍団など駆使できるわけがない。
ではなぜ、馬場信春、真田兄弟など、あのような数多大将格の武将が次々と討ち死にしたのか?
勝敗を決したのは「鉄砲の多さでも三段撃ち」ではなく、三~四倍ともいえる織田方の兵卒の数ではなかったか。
対して、一万余で挑んだ武田の慢心か。
信綱・昌輝兄弟は同じ石柱に二人の名が刻まれている。
墓所からの眺め。
遠くに第二東名高速、馬防柵はその向こう。
馬防柵へ。
初めて見たと、はしゃぐ友!
「他にだれか墓参したい武将、いるか?」
「そうだな、やっぱ先鋒赤備え隊の山県さんとこへ」
山県昌景の墓所。向かいの森が徳川家康の本陣。
設楽原古戦場の、討ち死にした武田方猛将たちの墓参は哀しい。
北に位置する真田兄弟まで墓参者はほとんどいない。
一般的な古戦場案内図には記されていないことが多いこともある。
そしてまた古戦場の南の端、強右衛門が豊川を潜って上陸したあたりに近い地に山本勘蔵墓所がある。
ここまで来る墓参者もほとんどいない。
勘蔵は、あの山本勘助の嫡子である。享年20。
父は第四次川中島合戦で戦死、信濃の地に。
子は遠く三河の地に眠る。
もう一人、高坂昌澄墓。
二人とも徳川方の大久保隊と衝突、昌澄は25歳の若さで散った。
昌澄は、あの武田四名臣の一人・高坂弾正昌信の子。
父は長篠合戦に参陣せず、上杉に備えて信濃・海津(松代)にいた。
長篠は、何度来ても将兵たちの哀感が漂う。