●謙信軍先鋒は漆黒の軍団・柿崎和泉守景家隊にて候! | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

先日、謙信が重臣にて上杉十七将の一人、斎藤下野朝信の墓所を越後・刈羽村に初めて訪ねた。

ここんとこ、上杉家武将の面々のゆかりの地などを、長く訪ねていないと痛感。

柿崎和泉守景家の墓所も久しぶりに訪ねた。

上杉四名臣の筆頭となれば、柿崎景家と思っていた。

だが、大河ドラマ「天と地と」(1969年)では、謙信を支えて登場したのは金井新兵衛(知らんかった)。景家出番は記憶がない。

 

大河ドラマ「武田信玄」においては、謙信重臣として終始、直江実綱が侍っていて、景家を誰が演じたかも分からなかった。

 

これはかなりの昔、確か神田の古本屋で買ったような。

「川中島先陣 柿崎景家」(室岡博氏著 日本城郭資料館出版会)という本。

こんな本を持っていたのだが、不覚にもすっかり忘れていた。

実証的な歴史書でなく、逸話や史跡などを細かに紹介され、郷土史家・室岡さんの「景家愛」が滲んでいる。

しかし残念ながら、敵方・信玄家臣の山県昌景、馬場信春、山本勘助などと比べ、今もって注目度に雲泥の差が。

 

昔、学園祭にて「実況中継川中島合戦」を催したとき、描いてもらった景家のイメージ画。部員の生徒、といっても数人、は信玄方を望んだ。

強そう!恐い!

上越市パンフの景家はこれ。今風か。

 

「向かう所、鉄をも通すべしと存ずるほどの者に候」
「智勇の陣将、勇驍の働、一世に七度あり」

「柿崎和泉守景家、大剛の将にて武功番数一番」

などと、古書は景家の武勇を絶賛・称讃、特に第4次川中島合戦での剛勇ぶりは大きく喧伝されている。

 

川中島合戦にて、武田の最前線で奮闘する山本勘助を討ち倒し、その首級をあげたのは、先陣で突撃した漆黒に彩られた柿崎軍団という。

 

勘助討ち死の地は「勘助宮跡」として長野市・長野運動公園敷地内に碑が立つ。

残念ながら「柿崎景家奮闘の地碑」ではない。

 

景家は若き頃から体躯強健にてよく馬を操り、23歳頃の初陣において馬上で大長刀を自在に振り回し敵を尻込みさせたという

 

勇猛が際立つ景家だが、軍事以外の内政・外交の面でもおおいにその才を発揮、謙信より20歳ほど年上の景家は、謙信留守の間の春日山城預かりをしばしば命じられていた。

 

謙信の信頼も厚く、謙信の関東管領職の就任式では、斎藤朝信と共に太刀持ちを務めたほどであった。

 

謙信が居城・春日山城跡を訪ね、景家屋敷跡地まで登るのはしんどい。見上げる本丸跡の向こう側なのだ。遠い~!

 

やっと着いて広大な景家屋敷址地を見ると、上杉家における景家の重い地位をよく物語っている。

 

広大な屋敷の庭園には池も備えられていたという。

 

景家は外交面でも伊達家との養子縁組の交渉や、小田原北条氏との同盟締結にも尽力、子の無い謙信にかわって自らの子・晴家を人質として北条方に送るなど、交渉の中心的な役割を担っていた。

 

ところが、そんな上杉家重鎮の景家の死がはっきりせず、謎に包まれている。

こんな逸話がある。

景家が手持ちの駿馬を織田信長に売った。

信長は礼状とともに時服を景家へ送り届けてきた。

このいきさつを景家は、謙信に報告しなかったため織田方との内通を疑われ、謙信によって誅殺されたというのだ。

 

また、「謙信と景家の離反」を信長が策したとも。

また景家が尽力した北条との同盟は後に破棄され、これがもとで謙信と景家は対立するようになったとも。

前出の著者・室岡氏は、景家の最期について「病死,伏誅死、手打ち、攻殺、逃亡」の五説があり、はっきりしないと記している。

 

景家は柿崎の菩提寺・楞厳寺(りょうごんじ)に眠っている。

寺の過去帳によればその死は天正2(1574)年という。

楞厳寺の山門。柿崎城のものを移築したという。

 

景家が居館・執務所があったとされる柿崎城址

城跡展望台から西を望むと、城の西側を柿崎川が流れ、日本海に注ぐ。

かつては城のふもとを波が洗っていたのかも。

 

東に米山、西に日本海、景勝の良い地だが、城跡は、今は北陸高速柿崎ICの道に囲まれてしまっている。

 

稀代の猛将・柿崎景家の最期は、なんとも不可解で残念である。

しかしながら景家はふる里・柿崎の英雄として、毎年景家を称える「柿崎時代夏祭り」が催され、武者出陣の儀などが行われているという。

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