長崎中が大騒ぎとなったフェートン号事件

フェートン号事件は1815年8月15日早朝(旧暦)に発生しました。野母崎遠見番からオランダ船が入港する知らせが長崎奉行所に届き、長崎の町は大喜び。というのも、この年はオランダの貿易船の入港がなく、もう今年は貿易しないのだろうとあきらめけてたからです。

出島

まずは、待ちかねたオランダの商館員のホーゼマンとスヒンメルの2人と奉行所から検使の菅谷保次郎と上川伝右衛門2人と通詞2人が小舟で近づき、オランダ国旗を掲げた白帆船に乗り込もうとしました。すると武装ボートで拉致され、白帆船に連れ込まれると同時にオランダ国旗を下ろしてイギリス国旗を掲げたのです。これはオランダ商船ではなく、イギリスの軍艦だったのです。大砲48門を備え、350人の乗組員がいました。

フェートン号

艦長はフリートウッド・ペリューという若干19歳の海軍少佐で、目的はオランダ船の焼き討ちでした。当時のオランダはフランスのナポレオンに支配され、フランスはイギリスと敵対関係にありました。余談ですが、ここで驚くのは江戸幕府は既にオランダがフランスに支配されていることに気づいていた事です。

この人から支配されていました

幕府は海外情報に関する報告書「阿蘭陀風説書」を年に1回、オランダに提出させているのですが、当然オランダは国を奪われている事実は伏せます。しかし幕府はこの報告書を徹底的に分析していたらしく、齟齬や矛盾点からオランダが支配されていることを読み解いていたそうです。スパイ活動の9割は公開資料の分析とされているので、当時の日本の情報収集力・分析力は誇るべきものだったのでしょう。国を閉ざしているなかでも限られた情報から必死に学ぼうともしていたと思います。

限られた情報から必死に世界情勢をみたんだろうなぁ

話しを戻しますが、ペリューは夜になるとオランダ船を見つけるため、ボート3槽に50人ずつ乗り込み、長崎港内をくまなく捜索してまわりました。しかしオランダ船は見つからず、捕虜となった商館員2人は釈放することを求めますが、認めませんでした。そればかりでなく、長崎奉行所へは水と食料の提供を要求しました。

フリートウッド・ペリュー

このイギリスの暴挙に松平康英の怒りは凄まじく、奉行所に逃げ込んだ検使の菅谷と上川に対して、大声で怒鳴り散らしました。菅谷と上川は再び小舟でイギリス艦に近づきますが、武装したイギリス兵に追い返されてしまいます。

ならばイギリス艦を焼き討ちじゃい

松平康英は長崎港警備を担当する佐賀藩・福岡藩に準備を命じました。しかし、、、この年の当番であった佐賀藩は経費削減のため駐在兵力の10分の1程度の約100人しか長崎にいませんでした。。。苦肉の策として松平康英は、大村藩、薩摩藩、久留米藩など九州諸藩に応援を求めました。長崎奉行側は本当に無念だったでしょうね、、、オランダは穏便に収めて欲しかったそうで、長崎奉行所の役人が「イギリス船長と刺し違える」と語った時には、オランダ商館長が、必死になって制止したそうです。

本当は引っ捕えたかっただろうなぁ。。。

オランダ商館長の説得もあり、松平康英は応援兵が到着するまでの時間稼ぎとして、要求された水や食料を提供。オランダ商館も豚や牛を供出しました。これを受けてオランダ人2人の人質は釈放。オランダ側は安堵します。しかし、松平康英が焼き討ちしかないと計画を練っている姿に驚き、オランダ商館長が再三再四、穏便な措置を求めます。松平康英は涙をのんで、説得に応じます。実際には焼き討ちをしたくても、できなかったのが実情だったのでしょう。

サガガー、サガガー

要求を満たしたイギリス側は満足して悠悠と長崎港を出港します。その直後に大村藩、諫早藩の大軍が到着しますが、もはや後の祭りでした。。。やりたい放題やられて、出港する船をどんな気持ちで見送ったのででしょうか。佐賀藩がちゃんと常駐してくれてれば、こんなことにならなかったのに、非常に無念だったでしょうね。。。次回に続きます。