歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実生活に活かすことのできない解説ばかりです。歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現する手助けになるように翻訳していきます。


※こちらの記事は、平成19年3月2日に書かれたものです。

『覚悟のススメ』、『蛮勇引力』などの名作を描いた山口貴由氏がまたすごい漫画を描いてくれました。
南條範夫原作の時代小説『駿河城御前試合(するがじょうごぜんじあい)』の第一話「無明逆流れ」をもとにした、残酷無惨時代劇『シグルイ』。


『覚悟のススメ』について知りたい方は、下記リンクをクリックしてください:
覚悟のススメ 完全保存版第1巻

『蛮勇引力』について:
蛮勇引力

関連記事:
『シグルイ』10巻

関連記事:
『シグルイ』9巻

関連記事:
『シグルイ』8巻




江戸(えど)時代寛永(かんえい)年間、駿府(すんぷ)城主であり将軍家光(しょうぐん・いえみつ)の実弟徳川忠長(とくがわ ただなが)が切腹を命じられた。数々の凶行に走った忠長だが、切腹の直接の原因となったのが駿府城にて行われた「真剣」による御前試合。全十一試合行われ、参加者二十二名中半数以上が死亡。

その第一試合が隻腕(せきわん)の竜、藤木源之助(ふじき げんのすけ)と盲目破足(はそく)の竜、伊良子清玄(いらこ せいげん)という二人の怪物であった。
そして、この試合にいたるまでの二人の因縁が描かれる…。


今までさんざん残酷な漫画を描いてきた山口貴由氏であったが、これまでの作品にはちょっとした気の緩みや、「エロ」による「遊び」的な部分が感じられることがあった。
しかし、この『シグルイ』は全く力の抜けた部分が感じられない。物語の冒頭から張られた綱が、ピンと張り詰め、少しもたゆまない。
「たゆまない」という言葉がこれほどふさわしい漫画は少ないであろう。

さらに「たゆまない」どころか、太い綱があまりの力で引っ張られ、今にもぶち切れそうな漫画である。
その綱がぶちきれる間に何人もの登場人物が、腹を裂かれ、腕をちぎられ、頭部を破壊されて死んでいく。
しかしそれは、山口氏のこれまでの漫画に見られた単なるサディズムではない。
性的描写も少なくない。いやむしろ、男性の肉体美という性描写を含むのなら、ほとんどが性的描写で構成されている。もちろん女性の性描写もある。しかし、そこには「快楽」が感じられない。「生」と「死」の張り詰めた緊張感しか存在しない。

これが山口氏の「覚悟」であるのだろう、と実感した。
「劇画界のサムライ」、山口貴由の決死の覚悟を見届けたい方はぜひ。

「チャンピオン レッド」で連載中。
※令和5年3月25日注:現在は連載が終了しています。


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※こちらの記事は、平成31年1月26日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「合戦における戦術について」シリーズの第6弾ということで「川中島(かわなかじま)の合戦」について書きます。
『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の澤田ふじ子氏の記事を参考にしています。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。


参考
第1弾 勝弦峠の合戦
第2弾 戸石城の合戦
第3弾 長森原の合戦
第4弾 三分一原の合戦
第5弾 栃尾城の合戦

まずはどのような戦だったのかというと




一般的には第一次~第五次までの五度の戦があったとされていますが、有名な武田信玄〔晴信〕と上杉謙信〔長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎〕との戦いですね。

第一次は天文(てんぶん)22年(1553年)に武田晴信が北信濃(きた・しなの)の村上義清を追い詰めて起こった戦いです。
義清に助けを請われ、それを受け入れて北信濃への影響力を守ろうとした長尾景虎が晴信と衝突した戦いですが、本格的な戦いは行われていません。

この戦いによって村上義清の北信濃への影響力がほぼ無力化し、武田晴信が影響を及ぼし始めます。


村上義清についてもっと知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
戸石城の合戦―相手の心理を推し量る

関連記事:
各合戦の動員人数について(17)上田原の合戦

関連記事:
各合戦の動員人数について(14)瀬沢の合戦


第二次は天文24年(1555年)、北信濃の豪族(ごうぞく)が武田(たけだ)方へ寝返ったことによって旭山(あさひやま)城が武田方へ帰し、それを抑えるべく景虎が葛山(かつらやま)城を築城したことで、晴信は旭山城への援軍として犀川(さいがわ)まで出兵し、川を挟んで長尾軍と対峙しました。

この合戦も大きな戦いは行われませんでしたが、武田家は着実に北信濃への影響力を強めています。

第三次は弘治(こうじ)3年(1557年)、葛山城に進出した晴信を抑えるべく景虎が出陣したことによって起こります。
この戦いも晴信と景虎の間には直接的な戦いは行われず、晴信の着実な北信濃侵攻がなされます。

第四次がもっとも有名な戦いですね。
永禄(えいろく)3年(1560年)、上杉政虎(長尾景虎が改名)が北条氏を攻めている最中に信玄(武田晴信が改名)が川中島に海津(かいづ)城を築いたことにより、政虎は北信濃にとって返し起こった戦いです。

政虎は海津城を抜いて妻女山(さいじょさん)に陣を敷きますが、それに対する信玄は千曲川(ちくまがわ)の対岸にある塩崎(しおざき)城に入ったと言われます(諸説あり)。

この状態で塩崎城と海津城で政虎を挟む形となった武田軍ですが、信玄はなぜか海津城に移動します。
ここでかの有名な「啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)」の登場ですね。

武田家の本体は妻女山や海津城に北側の八幡原(はちまんぱら)にあらかじめ陣取っておき、海津城から出発させた別働隊に妻女山を襲わせ、逃走してきたところを八幡原の本体と挟み撃ちにする、という作戦です。

しかし、政虎方はこれを事前に察知し、武田家の別働隊に襲われる前に八幡原目指して北上します。
武田家の本体は目の前にいるはずのない上杉軍が現れたことで面喰らい、多大な損害を受けますが、妻女山を襲おうとした別働隊の合流により持ち直し、上杉方は善光寺(ぜんこうじ)に敗走しました。

第五次は永禄7年(1564年)に飛騨に進出しようとした信玄を妨害するために上杉輝虎が出兵したことにより起こりますが、こちらも本格的な武力衝突は起こらずに終わっています。

というわけで、戦術についてですが、個々の戦いを取り上げるのはまた別の機会にした方がいいと思うので、全体像について。

こうやって五度の戦の全体像を俯瞰してみると、まるっきり「碁」ですね。

どこの城に味方勢力を置いて、囲まれたら豪族は寝返って、また囲み返して取り返して…みたいな感じです。

そして特に感じるのは両軍の撤退のうまさです。
以前にも書きましたが(三分一原(さんぶいちはら)の合戦)、撤退というのは非常に難しいです。

関連記事:
三分一原の合戦―有力者を味方にする

人はいつまでも「もっと戦えばいつか勝てるかも」という希望を捨てられないもので、「これ以上戦っても損害が増えるだけ」という判断をなかなかできません。

さらに、いったん敗走するとなるといち早く逃げ帰りたいと気持ちが焦り、戦略が荒くなります。

そうなると軍勢の秩序は乱れ、追っ手に狩られまくってしまいます。

それに対して、この戦いでは両軍ともに「やベー、やべー、どうしよう。マジやべー。おれ死ぬかも。マジどうしよう」と動揺する前に冷静に「これ以上戦っても無駄」と判断したことにより戦略的に退却しています。


「撤退」についての関連記事:
天目山の戦いから学ぶ―撤退のベスト・タイミングとは

同関連記事:
『麒麟がくる』第31回―浅井家の来歴

同関連記事:
野田城の合戦―統率力と「イメージ(印象)」の力

同関連記事:
金ヶ崎城の合戦―過去の実績にこだわらない


2人とも「戦上手」と呼ばれる所以でもあるでしょうね。

というわけで、この戦いで際立っているのは
・地勢を俯瞰(ふかん)して碁石を打つかのように拠点を攻略する戦局眼
・状勢を冷静に判断し、退却のタイミングを見誤らない判断力

ということになるでしょうか。
改めて考えると勉強になります。

今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・武田 大膳大夫〔通称は太郎〕 源 朝臣 晴信〔入道信玄〕
たけだ だいぜんのだいぶ〔通称はたろう〕 みなもと の あそん はるのぶ〔入道しんげん〕
・長尾〔上杉〕 平三〔官職はのち弾正少弼〕 平〔藤原〕 (朝臣) 景虎〔政虎、輝虎。入道謙信〕
ながお〔うえすぎ〕 へいぞう〔官職はのちだんじょうののしょうひつ〕 たいら〔ふじわら〕 の あそん かげとら〔まさとら、てるとら。入道けんしん〕
・村上 左近衛少将〔通称不明〕 源 朝臣 義清
むらかみ さこんえのしょうしょう〔通称不明〕 みなもと の あそん よしきよ

参考
今日は何の日?徒然日記
KIDの日常
明治・大正名所 探訪記

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※こちらの記事は、令和元年9月27日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は新シリーズ「ビジネスに活かす戦国合戦術」第3弾として「沖田畷(おきたなわて)の合戦」について書きます。

第1回 今山の合戦
第2回 耳川の合戦

『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の小石房子氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。


江戸時代の島津家に興味のある方は、下記リンクをタップしてください:
『西郷どん』第18~20回―奄美編、面白いじゃないか!

同関連記事:
『西郷どん』第6~10回―「伊集院」家は貴族ではなく薩摩武士です。

同関連記事:
『西郷どん』第1~5回―立ち上がりは上々!

同関連記事:
戸次川の戦いに学ぶ―逸って決断してはいけない

ということで、




どういう戦いだったかというと、天正(てんしょう)12年(1584年)、肥前島原(ひぜん・しまばら)半島の沖田畷で龍造寺隆信と島津家久との間に行われた戦いです。

耳川(みみがわ)の合戦での大友(おおとも)氏の敗北を受けて勢力を伸ばした龍造寺(りゅうぞうじ)氏は、島原半島への進出を始めましたが、それを受けて有馬晴信は島津(しまづ)氏に救援を求めます。

島津義久は弟の家久を3,000の兵とともに派遣しますが、対する龍造寺氏は隠退したとは言え実権を握り続ける隆信本人が出陣するといい始め、50,000の兵を率いて出陣します。

島津勢は家久の3,000に加えて有馬(ありま)氏の5,000ですから計8,000。
兵数で言えばどう考えても島津氏の敗北ですが、結果はなんと島津氏の勝利。

そしてなんとなんと、龍造寺氏は大将の隆信をはじめ数々の名将が討ち取られるという悲惨な結果となりました。
(その結果、龍造寺家は瓦解し、鍋島直茂が取って代わることになります)

なぜこのような結果になったのかというと、一般的には隆信の油断があったといいます。
天正8年に隠居して以来、隆信は酒食にふけり肥満していたといいます。
その肥満により馬に乗ることができずに輿(こし)に乗っての臨戦というのも討たれた要因の一つといわれています。

また、合戦当日も兵力を恃(たの)んで作戦らしい作戦もなく、とにかく島津勢をひとひねりすべく突撃するだけだったようです。
対する島津勢は湿地帯(沖田畷は湿地帯です)のただ中に陣を構え、周りに土塁(どるい)を構えます。
ひたすらに前進してくる龍造寺勢に対して、周りの土塁に伏兵(ふくへい)を仕込んでいた島津勢は一気に龍造寺軍を包囲し、鉄砲や弓矢を射かけます。
油断しきっていた龍造寺勢はそれで狼狽(ろうばい)し、軍は一気に瓦解し、ついに隆信が討ち取られます。

といった具合で、この戦いをビジネスに応用するとしたらどうでしょうね?

敗北した龍造寺家からの教訓の方が多いような気がします。

ということで、

・成功確実と思われるようなどんなプロジェクトでも最後まで油断せずに慎重に行うべし

といったことになりますかね。


「油断」に言及した記事:
河越城の戦いから学ぶ―基準を満たすまで手綱を緩めてはいけない

同関連記事:
桶狭間の合戦―不利な状況を受け止める


人間が絡むと常に予想不可能な出来事が起こりますので、油断して無策で臨むべからずってことでしょうかね。

また、島津家の目線から言えばこれは桶狭間(おけはざま)の合戦や上記今山(いまやま)の合戦にも通ずるところがありまして、とにかく寡勢(かせい)のときは大将首を狙うに限りますね。
でないと確実に負けます。唯一の勝ちの手段ですね。
というわけで、

・強大なライバルがいる場合は無駄を省いてひたすら核心部分をつくべし

といった感じでしょうか。

今回は抽象的な教訓しか得られなかったのでなんの役にも立たなそうですが、以上です!

※画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・龍造寺 山城守〔通称なのか官職なのか不明〕 藤原 (朝臣?) 隆信
りゅうぞうじ やましろのかみ〔通称なのか官職なのか不明〕 ふじわら の (あそん?) たかのぶ
・島津 中務大輔〔通称は又七郎〕 惟宗〔源〕 朝臣 家久
しまづ なかつかさのたゆう〔通称はまたしちろう〕 これむね〔みなもと〕 の あそん いえひさ
・有馬 修理大夫〔通称は十郎〕 藤原〔平〕 朝臣 晴信
ありま しゅりのだいぶ〔通称はじゅうろう〕 ふじわら〔たいら〕 の あそん はるのぶ
・島津 修理大夫〔通称は三郎左衛門尉〕 惟宗〔源〕 朝臣 義久〔龍伯〕
しまづ しゅりのだいぶ〔通称はさぶろうさえもんのじょう〕 これむね〔みなもと〕 の あそん よしひさ〔りゅうはく→一般的には「りゅうはく」とされていますが、本来は「りょうはく」のはずです〕
・鍋島 左衛門大夫〔通称は孫四郎〕 源 朝臣 信生〔直茂〕
なべしま さえもんのだいぶ〔通称はまごしろう〕 みなもと の あそん のぶなり〔なおしげ〕
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
JAえひめ物流BLOG
九州戦国史~室町末期から江戸初期まで~
しんこうの趣味のブログ

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※こちらの記事は、令和3年10月18日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第51弾として、「大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)」について、実用的視点で学んでいこうと思います。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】
江古田原沼袋合戦権現山の戦い
第一次国府台の合戦川越城の合戦
志賀城の合戦郡山城の合戦
厳島の合戦四万十川の合戦
今山の合戦耳川の合戦
金ヶ崎城の合戦一言坂の合戦
三方ヶ原の合戦叡山焼き討ち
江古田原沼袋の戦い②石山合戦
雑賀・根来合戦第一次国府台の戦い②
三木合戦本能寺の変
九戸城の戦い文禄・慶長の役
関ヶ原の戦い田辺城の戦い
長谷堂城の戦い


※『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の坂井洋子氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。


日常生活を送っていて、親や教師に注意されたり、先輩や上司に苦言を言われたりすることってありますよね。

そういう時ってカチンとくるものです。

「お前に言われたくないわ」って思ったり、「わかっとるわ」と思ったり…

その時、反射的にムッとした態度で反応をしてしまいがちですが、それ、誰が得してますか?

自分の小さなプライドのために感情的な反応をしてしまえば、相手が自分に抱く印象は悪くなる一方です。

長い日本の歴史の中で、「小さなプライド」を自分でへし折ることができなかったために家を滅亡に導いた人物は何人もいますが、今回はそのうちの一例についてです。

というわけで今回は、大御所(おおごしょ)徳川家康が右大臣羽柴(豊臣)秀頼を攻めた「大坂冬の陣」から「自分のプライドを自分でたたき折る」ということを学ぼうと思います。





大坂冬の陣までの流れ


慶長(けいちょう)5年(1600年)、関ヶ原合戦(せきがはらがっせん)により豊臣(とよとみ)政権内での覇権を握った徳川内府家康は、大坂(おおさか)城に入城しました。

その時、豊臣氏当主である(当時)羽柴権中納言秀頼(※)の傅役(もりやく)・片桐市正(いちのかみ)且元は、申し開きのため内府を居所を訪れました。

※「羽柴(はしば)」は名字で、「豊臣」は氏(うじ)に当たります。織田信長や徳川家康など、安土桃山(あづち・もまやま)時代の人物は「氏」ではなく「名字」で呼称するのが普通です。このブログでは、それに合わせて豊臣家の人物についても基本的に「羽柴」を用います。

羽柴藤吉郎豊臣秀吉の名前について詳しく知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
『麒麟がくるまでお待ちください』第4回―羽柴藤吉郎の名称


そこで、関ヶ原を中心とした一連の反徳川(とくがわ)の戦いについては「毛利(もうり)・石田(いしだ)が勝手にやったこと」であり、権中納言は一切関わっていないということを確認しました。

内府はこの時に豊臣政権内での第一の家臣としての地位を確立し、羽柴家(豊臣家)の直轄地220万石のうち160万石を各大名に分配し、羽柴家の領地は60万石となりました。

当時、内府のやりようによっては「毛利・石田にGOサインを出したのは秀頼」と言われてしまう可能性もあり、羽柴家としては何も言えなかったんですね。

その後、慶長8年(1603年)には内府は右大臣・征夷大将軍〔将軍家〕に任命され、武家(ぶけ)の棟梁(とうりょう)となります。

このことで徳川家が天下を取ったとする解釈が一般的ですが、一説によれば、このとき将軍家・家康は「公家(くげ)の棟梁としての羽柴(豊臣)家と、それを支える武家の棟梁としての徳川家」という構想を考えていたという話もあります。

つまり、羽柴(豊臣)家には一公家として存続してもらって、徳川家はその臣下(しんか)として武家を束ねるという構想ですね。

2年後の慶長10年(1605年)には将軍職(しょうぐんしき)を三男・内大臣秀忠に譲り「大御所」となり、先に内大臣となっていた羽柴(豊臣)秀頼には右大臣〔右府〕を譲っています。

このとき羽柴家(豊臣家)は、将軍職が大御所から秀頼に譲られるものと思っていたのに、秀忠に譲られて落胆したという話もあります。

しかし、秀頼は右大臣を譲られているのであり、このことも「公家の棟梁・羽柴家、武家の棟梁・徳川家」構想を裏付ける傍証と言えます。


ただ、羽柴(豊臣)家が「一公家」として存続するには、居城(きょじょう)大坂城は大きすぎました。

そこで大御所家康はどうにかして羽柴家を大坂城から退去させたかったようです。

しかし、羽柴家内は大御所が羽柴家取りつぶしを狙っているのではないかと疑心暗鬼になっていたようです。

そして、大坂城には徳川家に一矢報いようとか、手柄を挙げて取り立ててもらおうとかの野心をもった浪人(ろうにん)衆が集まり始めました。

さらに、キリシタンの派閥争いも絡んでいたようです。

キリスト教には大きく分けて二派あるのはご存知だと思います。

カトリックとプロテスタントですね。

先に日本で布教を開始したのはスペイン、ポルトガルのカトリックでした。

しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前に漂着したウィリアム・アダムス〔三浦按針〕はプロテスタントのイギリス人でした。

三浦按針の登場する記事:
各合戦の動員人数について(8)アルマダの海戦

按針本人にはカトリックに対抗する気は全くなかったようですが、プロテスタントの国であるイギリス出身の按針が大御所に重用されていることを知ったカトリック勢力は過剰反応したようです。

按針に対抗し右府秀頼に近づくため、大坂に集まったとの説があります。

※そこに、伊達陸奥守政宗が裏で絡んでいたという話もあります。支倉六右衛門常長をして、徳川家に対抗すべくスペイン艦隊を呼びにやらせたという話ですが、信憑性はさほど高くないようです。

関連記事:
『真田丸』第49回―伊達政宗の天下取り

この時点で、右府秀頼を大坂城にいさせてはいけないいくつかの理由ができてしまったわけです。

・天下人の城である大坂城に拠れば、「徳川家に対抗できる」と夢を見てしまうこと
・羽柴直臣(じきしん)に「徳川憎し」の機運が根付き、疑心暗鬼になっていたこと
・反徳川の浪人が大坂に集まり始め、右府秀頼を推戴(すいたい)する機運ができていたこと
・徳川に重用された三浦按針に対抗すべく、カトリック勢が大坂に集まり右府秀頼を旗頭(はたがしら)に担ごうとしたこと


こんな状況になってしまっては、羽柴家をそのまま大坂城にいさせるわけにはいかないですよね。

そして慶長19年(1614年)7月、有名な方広寺鍾銘事件(ほうこうじ・しょうめい・じけん)が起こります。

右府秀頼が作らせた方広寺の鐘に刻まれた銘が「国家安康(こっかあんこう)」となっていて、大御所家康の諱(いみな)を「家」と「康」に分断して呪詛(じゅそ)したという言いがかりですね。

これに対し羽柴家は8月に片桐市正を駿府(すんぷ)に派遣するも、相手にされず。

市正は本多上野介正純、金地院崇伝らに次の三箇条を突き付けられます。

・右府秀頼の江戸(えど)への参勤
・淀君(よどぎみ)を人質として江戸へ送る
・右府秀頼が大坂を退去し、国替えに応じる


徳川家としてはこの三箇条のいずれかに応じるように言ったはずでしたが、羽柴家に伝わる頃には何の行き違いか、すべてに応じるようにという話となっていたようです。

これに淀君は激怒し、市正は過激派家臣(かしん)に暗殺されそうになったため大坂城を退去します。

市正の大坂城退去によって、羽柴家は徳川家と交渉できる人物を失い、開戦が決定的となります。

10月には、毛利豊前守吉政〔勝永〕や真田左衛門佐信繁〔幸村〕ら大名(だいみょう)級の浪人衆が大坂城に入城しています。

関連記事:
『真田丸』第41回―幸村が信繁なら勝永は吉政では?

同じ10月に、大御所家康が軍勢を率いて駿府を出発。

少し遅れて将軍家秀忠が江戸を出発しています。




大坂冬の陣


どの時点をもって「大坂冬の陣」の開戦とするかは諸説あるのですが、初めて戦闘が行われたのは11月5日の平野郷(ひらのごう)焼き討ちです。

大坂勢が、徳川方についた平野郷を焼き討ちして有力者を捕縛した事件ですね。

続いて16日には博労淵(ばくろうぶち)・野田(のだ)・福島(ふくしま)大坂方が徳川方に砦(とりで)を取られています。

「野田・福島」と言えば…:
叡山焼き討ち―問題が山積みのときの対処法

26日には鴫野(しぎの)・今福(いまふく)の戦いで徳川方としては上杉権中納言景勝が、大坂方としては木村長門守重成が大活躍しています。


上杉権中納言関連の記事:
長谷堂城の戦いに学ぶ―算盤勘定をもつ

同関連記事:
御館の乱―勝つためにはこだわりをすべて捨てる

木村長門守関連の記事:
『真田丸』第43回―木村重成に注目すべし!


この時点までは大坂方が敗戦に次ぐ敗戦を重ね、砦や重要拠点を次々に徳川方に占拠されてしまいます。

続く12月4日には前田権大納言利家の子・権右少将利常と結城権中納言秀康の子である松平権右少将忠直が、勘違いにより真田丸(さなだまる)を奇襲。

真田左衛門佐の逆襲により大打撃を受けます。


前田権大納言関連の記事:
大河ドラマを楽しむ方法(12)(『麒麟がくるまでお待ちください』第2~3回)

「真田丸」の戦い関連の記事:
『真田丸』第44回―木村重成推し

同関連記事:
『真田丸』、第一次上田合戦に勝てない(第45回)


「真田丸」の戦いにより正面突破が難しいと判断した大御所は、心理戦に出ます。

毎夜毎夜鬨(とき)の声を挙げさせ、女子供の多い大坂方に「今夜、徳川方が襲ってくるかもしれない」という恐怖心を与え精神的に疲弊させます。

さらに、天守に届く勢いで大砲を何発も撃たせプレッシャーを与える作戦に出ますが、そのうちの2発がなんと本当に天守に命中します。

大坂城内はこれで動揺し、情勢は一気に和睦(わぼく)へと向かいます。

条件は、

・(真田丸も含めて)二の丸(にのまる)、三の丸(さんのまる)の破却
・外堀(そとぼり)の埋め立て


です。

12月19日、ついに和睦が成立し、「大坂冬の陣」は終結しました。

この辺りの様子を描いたドラマ:
『真田丸』第46回―良い家康、悪い家康




自分のプライドを自分でたたき折る


さて、ここから得られる教訓ですが、「自分のプライドを自分でたたき折る」ということが学べるのではないかと思うんです。

上記のように、羽柴家が大坂城にいることは天下静謐(せいひつ)の観点では非常にリスキーでした。

そのため、この時点で大御所が羽柴家を攻めることは既定路線だった可能性はあります。

そうだとしても、開戦を防ぐ手立てはあったはずなんです。

この時羽柴家はどうすればよかったか?

そのお手本を、皮肉にも大御所家康が過去に示していたんですよ。

それは、天下人(てんかびと)であった右府織田信長や、太閤(たいこう)羽柴秀吉と大御所の駆け引きです。

天正7年(1579年)、右府織田信長は、大御所家康の嫡男(ちゃくなん)・岡崎三郎松平信康に武田(たけだ)家への内応(ないおう)の疑いがあるとし、切腹(せっぷく)を命じました。
※右府信長が実際にどこまで要求したかは諸説あり。

大御所家康は、徳川家の存続と息子の切腹を天秤にかける事態に陥ってしまったんです。

結局右府信長には逆らわず、粛々(しゅくしゅく)と切腹命令に応じています。
※大御所家康が岡崎三郎と対立していたとの説もあり。


岡崎三郎関連の記事:
「大きな欲」と「小さな欲」―山岡荘八『徳川家康』第6巻

同関連記事:
苦難の時代の幕開け―山岡荘八『徳川家康』第5巻



また、太閤秀吉が関白(かんぱく)になる前、徳川家は「小牧長久手(こまき・ながくて)の戦い」で羽柴軍に勝利していますが、最終的には太閤の上洛(じょうらく)要請に応じています。

関連記事:
小牧長久手の戦いに学ぶ―勝ちすぎてはいけない

当時のそれぞれの立場を考えてみましょう。

徳川家は織田右府の同盟者であり、義兄弟(ぎきょうだい)でした。

一方の太閤秀吉は織田右府の一家臣に過ぎず、家格(かかく)で言えば徳川家が羽柴家に従う義理なんてなかったんです。

しかし、総力戦をやってしまったらおそらく徳川家は羽柴家に負けたと思われます。

そこで大御所家康はなんとかプライドを折り曲げて上洛し、太閤秀吉に頭を下げて臣従(しんじゅう)を誓ったんです。

「大坂冬の陣」前夜の右府秀頼の状況というのは、小牧長久手の時の大御所の状況に非常によく似ています。

家格としては当時は羽柴家は徳川家の主筋(しゅうすじ)に当たりましたが、関ヶ原の戦いでもはや武力では徳川家にはかなわないことが証明されています。

ここでなんとかプライドをへし折って、右府秀頼が大御所に会いにいくなり、徳川家の提示した条件を呑むなりすべきだったんですね。

しかしプライドが勝ったのか、それができませんでした。

非常に残念でしたね。

こういったことって、スケールを小さくしたら日常生活でもよく起こっていると思うんですよ。

少し前に流行った『うっせぇわ』じゃないですが、親や教師、先輩や上司から注意を受けると「カチン」とくるもんなんですよね。

というのも、一方的に注意を受ける時というのは、「プライド」を頭から押さえつけられている状態になるので、反射的に反発心が起きてしまいます。

しかしそこで一歩引いて、「ここで反抗して、果たして自分の長期的利益になるものか」と考えてほしいんですよね。

相手も人間なので、反発されると嫌になるんですよ。

何も言いたくなくなるんです。

反発が続くと相手との関係がまずくなってしまうので、とりあえず何か言われた時点では「はい、わかりました」と言えた方がいいと思っています。

何か事情があるのなら、その後で冷静になってから説明すべきなんですよ。

で、結局ここでも必要になってくるのが、自分の感情を統制する技術です。


「感情」に言及している記事:
安濃津城の戦いに学ぶ―小さな局面での勝敗に捕らわれない

同関連記事:
『青天を衝け』第18回―天狗党の乱について

同関連記事:
「大きな欲」と「小さな欲」―山岡荘八『徳川家康』第6巻


疲れている時など、つい家族に言われたことにカチンときてきつい言葉を返してしまうことがありますが、それは本当にやめた方がいいです。

みんなで感情を統制する技術を身に着け、ハッピーな世の中を実現していきましょう。

ということで、今回は「自分のプライドを自分でたたき折る」ということについて説明させていただきました。

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・征夷大将軍 徳川 右大臣〔内大臣。通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
せいいたいしょうぐん とくがわ うだいじん〔ないだいじん。通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・羽柴 右大臣〔権中納言、内大臣。通称は藤吉郎〕 豊臣 朝臣 秀頼
はしば うだいじん〔ごんのちゅうなごん、ないだいじん。通称はとうきちろう〕 とよとみ の あそん ひでより
(文献上「羽柴」を名乗った例はありませんが、名字に該当するものは「羽柴」です)
・征夷大将軍 徳川 内大臣〔通称不明〕 源 朝臣 秀忠
せいいたいしょうぐん とくがわ ないだいじん〔通称不明〕 みなもと の あそん ひでただ
・片桐 東市正〔通称は助作〕 源〔豊臣〕 朝臣 且元
かたぎり ひがしいちのかみ〔通称はすけさく〕 みなもと〔とよとみ〕 の あそん かつもと
・支倉〔山口〕 六右衛門〔与市〕 平 常長〔長経〕
はせくら〔やまぐち〕 ろくうえもん〔よいち〕 たいら の つねなが〔ながつね〕
・本多 上野介〔通称は弥八郎〕 藤原 朝臣 正純
ほんだ こうづけのすけ〔通称はやはちろう〕 ふじわら の あそん まさずみ
・一色 (通称不明) 源 (諱不明)〔字:以心 法名:崇伝〕
いっしき (通称不明) みなもと の (諱不明)〔あざな:いしん 法名:すうでん〕
・毛利〔森〕 豊前守〔通称不明〕 (氏不明) 朝臣 吉政〔勝永〕
もうり〔もり〕 ぶぜんのかみ〔通称不明〕 (氏不明) あそん よしまさ〔かつなが〕
・真田 左衛門佐〔通称は源二郎、源次郎〕 滋野〔源〕 朝臣 信繁〔幸村〕
さなだ さえもんのすけ〔通称はげんじろう、げんじろう〕 しげの〔みなもと〕 の あそん のぶしげ〔ゆきむら〕
・上杉〔長尾〕 権中納言〔弾正少弼。通称は喜平次〕 藤原〔平〕 朝臣 景勝〔顕景〕
うえすぎ〔ながお〕 ごんのちゅうなごん〔だんじょうのしょうひつ。通称はきへいじ〕 ふじわら〔たいら〕 の あそん かげかつ〔あきかげ〕
・木村 長門守〔通称不明〕 源 朝臣 重成
きむら ながとのかみ〔通称不明〕 みなもと の あそん しげなり
・前田 前権大納言〔通称は又左衛門〕 菅原 朝臣 利家
まえだ さきのごんのだいなごん〔通称はまたざえもん〕 すがわら の あそん としいえ
・前田〔松平〕 右近衛権少将〔幼名は犬千代〕 菅原〔源〕 朝臣 利光〔利常〕
まえだ〔まつだいら〕 うこんえごんのしょうしょう〔幼名はいぬちよ〕 すがわら〔みなもと〕 の あそん としみつ〔としつね〕
・松平〔結城、羽柴〕 権中納言〔通称不明〕 源〔藤原、豊臣〕 朝臣 秀康
まつだいら〔ゆうき、はしば〕 ごんのちゅうなごん〔通称不明〕 みなもと〔ふじわら、とよとみ〕 の あそん ひでやす
・松平 右近衛権少将〔幼名は仙千代〕 源 朝臣 忠直
まつだいら うこんえごんのしょうしょう〔幼名はせんちよ〕 みなもと の あそん ただなお
・織田 前右大臣兼前右近衛大将〔通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ さきのうだいじんけんさきのうこんえのだいしょう〔通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・関白 羽柴〔木下〕 太政大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣〔平、藤原〕 朝臣 秀吉
かんぱく はしば〔きのした〕 だじょうだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ〔たいら、ふじわら〕 の あそん ひでよし
・松平〔徳川〕 次郎三郎〔岡崎三郎〕 源 朝臣 信康
まつだいら〔とくがわ〕 じろうさぶろう〔おかざきさぶろう〕 みなもと の あそん のぶやす
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
大阪どっかいこ!
足短かおじさんのブログ
今日は何の日?徒然日記

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※こちらの記事は、平成19年4月7日に書かれたものです。

以前もご紹介しましたが、またこのゲームをやり始めてしまったので、侵攻状況をお届けしたいと思います。
マニアックなのでご勘弁ください(笑


『信長の野望』についての他の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
信長の野望/嵐世記(13)最終回

関連記事:
信長の野望 嵐世記(12)

関連記事:
信長の野望 嵐世記(11)




今回は1556年7月くらいから開始するシナリオ2で、大名は豊後(ぶんご)〔現在の大分県(おおいたけん)〕の大友義鎮(おおとも よししげ)〔大友宗麟(おおとも そうりん)〕で、難易度は上級、オリジナル武将なしでやっています。


大友家関連の記事:
戸次川の戦いに学ぶ―逸って決断してはいけない

同関連記事:
『麒麟がくる』第28回―摂津晴門とは何者?

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耳川の合戦ー諍臣を愛せ


まず1556年8月には筑前立花山(ちくぜん・たちばなやま)城から秋月文種(あきづき ふみたね)の治める古処山(こしょさん)城に攻め、陥落。
翌9月には少弐冬尚(しょうに ふゆひさ)の筑後勢福寺(ちくご・せいふくじ)城を攻め落とし、江上武種(えがみ たけたね)を処刑し、横岳資誠(よこだけ すけまさ)を登用して今回は終了しました。

とりあえず「信長(のぶなが)の野望」シリーズのほとんどは、他大名の戦力が整わない初期にどれだけ領地を増やせるかがポイントなので、内政などほとんど行わず、何がなんでも他国に攻め込んでます(笑

大友義鎮は最初から勢力が大きめなので、あんまり自慢になりませんが、自己最短クリア記録を更新すべくがんばりたいと思います♪

とかいって、ファイナルファンタジータクティクスをやめて以来、ゲームをやったのはたった30分だけだったりします(笑

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※こちらの記事は、令和3年9月24日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第26回に関しての楽しむためのヒントを解説したいと思います。

大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【『青天を衝け』の楽しむヒント】
・第1回―渋沢家について・第2回―身分秩序について
・第3回―平岡家について・第4回―阿部家について
・第5回―藤田家について・第6回―美賀君の血筋
・第7回―井伊家について・第8回―岩瀬忠震の出自
・第9回―安政頃の西郷吉之助・第10回―安藤信正について
・第11回―高崎城について・第12回―一橋徳川家について
・第13回―越前松平家について・第14回―島津家について
・第15回―三島家について・第16回―池田屋事件について
・第17回―武田耕雲斎について・第18回―天狗党の乱について
・第19回―小栗家について・第20回―土方家について
・第21回―杉浦愛蔵について・第22回―保科俊太郎について
・第23回―栗本鋤雲について ・第24回―証券とは何か
・第25回―貨幣経済とは?


まずはあらすじ。



第26回のあらすじ


明治元年(1868年)11月、パリから帰国し諸々の整理を終えた渋沢篤太夫美雄(吉沢亮)は、武蔵・血洗島(むさし・ちあらいじま)6年振りに帰郷した。

父・市郎右衛門美雅(小林薫)や母・ゑい(和久井映見)、妻・千代(ちよ)(橋本愛)、娘・うた(山崎千聖)らに迎えられるも、想い合っていた従兄・渋沢平九郎昌忠(岡田健史)を亡くした妹のてい(藤野涼子)は一人浮かない顔をしていた。

その頃箱館(はこだて)では、五稜郭(ごりょうかく)を落とした篤太夫の従兄・渋沢成一郎英明(高良健吾)と土方歳三義豊(町田啓太)は新政府軍との戦いを続けていた。

そこにはかつて篤太夫とともにパリにあった高松凌雲(細田善彦)がいた。

高松は敵味方構わず負傷者を治療し、パリでの感動を実践していた。

尾高(おだか)家を訪れた篤太夫は、変わり果てた従兄・尾高新五郎惇忠(田辺誠一)の姿に息を飲んだ。

惇忠は飯能(はんのう)戦争に参加するも三弟・平九郎を失い、次弟・長七郎も病死してしまったことで精神的に弱り、自分ひとりが何も成し遂げず生き残ってしまったことを悔いていた。

篤太夫は同じ苦しみを感じていることを吐露しつつも、「生きていれば新しい世のために出来ることがきっとある」と惇忠を励ますのであった。

血洗島に戻った篤太夫は、千代に今度こそ家族で暮らすことを約束し、主君・前将軍・徳川前内府慶喜(草彅剛)のいる駿府(すんぷ)へ向かった。

駿府で慶喜と再会した篤太夫は、大政奉還(たいせいほうかん)後の慶喜の行動を批難しかけるも慶喜に制され、パリでの民部公子(みんぶこうし)・水戸(徳川)民部大輔昭武の立派な姿を慶喜に伝えた。

ということで、




第26回「篤太夫、再会する」の感想


篤太夫の帰郷は嬉しかったですね。

嬉しそうな市郎右衛門、ゑいや千代、うたなどもそうですし、姉のなか(村川絵梨)も久々に登場しましたね。
村川さん、結構好きなんですよねw

平九郎を失ったていの気持ちは想像できますし、受け入れ難いと思います。

しかし、篤太夫にも予想だにできなかったことで、だれにとっても辛いことですよね。

篤太夫が再会した長七郎は妙に血色がよくはつらつとしていたのでもしやと思いましたが、やはりすでに亡くなっていましたね。

本当に無念です。

その分、長兄の惇忠は今後大いに活躍するので、楽しみにしています。

また、箱館戦争での高松凌雲の行動にはしびれましたね。

こういう人、かっこいいと思います!

今でこそ「敵味方構わず治療する」というのはおかしなことではありませんが、当時は過激な武士の時代を引きずっていた頃。

敵を治療していることが味方の、水戸(みと)藩出身とかの武士に知られたら斬られかねない行動ですよね。

そんな時代にもかかわらず、毅然として治療を遂行するその意志の力に憧れます!

そして筆舌に尽くしがたいのが、草彅剛氏の表情の演技ですね。

ほとんどセリフありませんでしたよね?

表情だけで、戊辰(ぼしん)戦争の無念、弟・民部公子への愛情と篤太夫を頼もしく思う気持ち、等々様々な気持ちを表していましたね。

草彅氏、脱いじゃって世間を騒がせたこともありますが、俳優として怪物になりつつありますね。
すごい人です!




第26回を楽しむヒント―高松凌雲について―


今回は、箱館戦争時に敵味方の区別なく治療していた高松凌雲について書こうと思います。

天保(てんぽう)7年(1836年)生まれで、元々は筑後久留米(ちくご・くるめ)藩の庄屋(しょうや)の子、つまり百姓(ひゃくしょう)の出でした。

久留米藩家老(かろう)の家臣(かしん)・川原弥兵衛の養子となり川原荘三郎直政と名乗り、武士となります。

しかし養家の生活が嫌になり、安政(あんせい)6年(1859年)、24歳の時に久留米藩を脱藩(だっぱん)して江戸(えど)にいた兄・古屋佐久左衛門智珍を頼ります。

江戸では医者を志し蘭方医(らんぽうい)に弟子入りし、その後大坂(おおさか)に移り、緒方洪庵の適塾(てきじゅく)に入塾しています。
※同時期の適塾には、漫画家・手塚治虫氏の曽祖父に当たる手塚良庵もいた可能性があります。


手塚治虫氏原作の漫画『PLUTO』に興味のある方は、下記リンクをクリックしてください:
PLUTO 1巻

同関連記事:
PLUTO2巻

同関連記事:
PLUTO 3巻


ここで西洋医術の他、オランダ語、英語をマスターし、慶応(けいおう)元年(1865年)、一橋(ひとつばし)家臣に抜擢されます。

直後に一橋権中納言慶喜が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となったため幕臣(ばくしん)となり、慶応3年(1867年)に民部公子のパリ留学に随行したことはドラマでも描かれましたね。


民部公子のパリ留学関連の記事:
『青天を衝け』第24回―証券とは何か

同関連記事:
『青天を衝け』第23回―栗本鋤雲について

同関連記事:
『青天を衝け』第22回―保科俊太郎について


その後、パリで見た貧民病院に感銘を受け、日本で赤十字運動に携わることになります。

では、その高松(たかまつ)家の血筋はどういった血筋なのでしょうか?

凌雲の父は高松与吉〔虎之助〕直道といい、凌雲の諱は「直政」ですから「直」が通字であるようです。

そしてその大元はなんと、豊後大友(おおとも)家の祖・大友左近将監能直にたどり着くと言います。

大友左近は筑後守護(しゅご)となっていますが、その三男が高松三郎大夫を名乗ったのが始まりとされます。


大友家関連の記事:
戸次川の戦いに学ぶ―逸って決断してはいけない

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『麒麟がくる』第28回―摂津晴門とは何者?

同関連記事:
耳川の合戦ー諍臣を愛せ


大友左近は中原(なかはら)家の猶子(ゆうし)となっているので、『麒麟がくる』で大悪役を担った摂津掃部頭晴門ともつながりがある訳です。

調べてみると出てくるものですね。

こんな感じで、ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・渋沢 篤太夫〔栄一、栄二郎、栄一郎〕 源 美雄
しぶさわ とくだゆう〔えいいち、えいじろう、えいいちろう〕 みなもと の よしお
・渋沢 市郎右衛門〔元助〕 源 美雅
しぶさわ いちろううえもん〔もとすけ?〕 みなもと の よしまさ
・渋沢〔尾高〕 平九郎 源 昌忠
しぶさわ〔おだか〕 へいくろう みなもと の まさただ
・渋沢 成一郎〔喜作〕 源 英明
しぶさわ せいいちろう〔きさく〕 みなもと の ひであき
・土方 歳三 (氏不明) 義豊
ひじかた としぞう (氏不明) よしとよ
・高松〔川原〕 荘三郎 藤原〔源、中原〕 直政〔号:凌雲〕
たかまつ〔かわはら〕 しょうざぶろう ふじわら〔みなもと、なかはら〕 の なおまさ〔号:りょううん〕
・尾高 新五郎 (氏不明) 惇忠
おだか しんごろう (氏不明) あつただ〔物語中では「じゅんちゅう」〕
・尾高 長七郎 (氏不明) 弘忠
おだか ちょうしちろう (氏不明) ひろただ
・前征夷大将軍 (一橋)徳川〔松平〕 前内大臣〔幼名は七郎麻呂〕 源 慶喜〔昭到〕
さきのせいいたいしょうぐん (ひとつばし)とくがわ〔まつだいら〕 さきのないだいじん〔幼名はしちろうまろ〕 みなもと の よしのぶ〔あきむね〕
・(清水→水戸)徳川〔松平〕 侍従兼民部大輔〔幼名は余八麿〕 源 朝臣 昭武〔昭徳〕
(しみず→みと)とくがわ〔まつだいら〕 じじゅうけんみんぶのたゆう〔幼名はよはちまろ〕 みなもと の あそん あきたけ〔あきのり〕
・川原 弥兵衛 (氏不明) (諱不明)
かわはら やへえ (氏不明) (諱不明)
・古屋〔高松〕 佐久左衛門 平〔藤原、源、中原〕 智珍
ふるや〔たかまつ〕 さくざえもん たいら〔ふじわら、みなもと、なかはら〕 の ともはる?
・緒方〔佐伯、田上〕 三平〔判平〕 大神 惟章〔章、号:洪庵、適々斎〕
おがた〔さえき、たがみ?〕 さんぺい〔はんぺい〕 おおが の これあき〔あきら、号:こうあん、てきてきさい〕
・手塚 (通称・官職不明) 金刺 光亨〔号・良庵、良仙〕 
てづか (通称・官職不明) かなさし の みつとお?〔号:りょうあん、りょうせん〕
・大友 左近将監(通称不明) 藤原(源、中原) 朝臣 能直
おおとも さこんのしょうげん(通称不明) ふじわらの(みなもとの、なかはらの) あそん よしなお
・摂津 掃部頭(中務大輔。通称不明) 藤原(中原) 朝臣 晴門(晴直)
せっつ かもんのかみ(なかつかさのたゆう。通称不明) ふじわらの(なかはらの) あそん はるかど(はるなお)
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
ぴえーるのテレビブログ
心の雑草
2次元なんやかんや

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※こちらの記事は、令和3年3月20日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は断続的に続いている「平成28年 鎌倉(かまくら)旅行シリーズ」の第8弾で、「円覚寺(えんがくじ)」について記事の初回となります。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【今までの記事】
鎌倉ですごい神社を見つけた!(甘縄神明神社)
平成28年の小町通り(1)―光輝くシラス丼と極上のクレープ
平成28年の小町通り(2)―垂涎の腸詰と宝石のようなマカロン
平成28年の小町通(3)―原点回帰したい人のためのおしゃれ団子
鶴岡八幡宮を味わう(1)―太鼓橋と舞殿
鶴岡八幡宮を味わう(2)―大銀杏と本宮
鶴岡八幡宮を味わう(3)―源平池とゆかりの人物
円覚寺(1)―元寇が生んだ禅寺

日本有数の観光地である鎌倉ですが、その魅力とは何なのかについて語りたいと思います。

とりあえず有名だから行ってみたけど、人は多いしなんだかよくわからない建物ばかりだしよ何がいいのかわからない!という人のために楽しみ方を説明したいと思います。




大永6年の襲撃


円覚寺

多くの寺院は長い歴史の中で兵火にさらされていますが、円覚寺も例外ではありませんでした。

円覚寺の所在する相模国(さがみのくに)は室町時代には鎌倉公方(かまくらくぼう)の支配下にありました。

しかし永享(えいきょう)10年(1438年)の永享の乱により鎌倉公方が攻められた後、永享12年(1440年)の結城合戦(ゆうきがっせん)後には相模守護(しゅご)に任命された扇谷上杉(おうぎがやつ・うえすぎ)家の支配下に入りました。

その後、明応(めいおう)の政変(1493年)時に将軍家(しょうぐんけ)・足利左近衛中将義澄の命を受けて伊勢宗瑞が伊豆(いず)入りをすると徐々に伊勢(いせ)家(のちの北条(ほうじょう)家)の侵食を受け、永正(えいしょう)13年(1516年)の新井(あらい)城の戦いによって伊勢家の支配下に入りました。


伊勢宗瑞(北条早雲)の戦いについて知りたい方は、下記リンクをクリックしてください:
新井城の戦いから学ぶ―慎重に準備し、且つ大胆に行動すべし

関連記事:
権現山の戦いから学ぶ―弱い者の戦い方

関連記事:
各合戦の動員人数について(3)新井城の戦い

関連記事:
各合戦の動員人数について(2)権現山の戦い


伊勢家は2代新九郎氏綱の代になって名字を「北条」に変え、山内(やまのうち)・扇谷の両上杉家との対決姿勢を鮮明にしました。

武蔵国(むさしのくに)に進出し一時上杉家を圧倒した北条家ですが、大永(たいえい)5年(1525年)、甲斐(かい)の武田左京大夫信虎と結んだ上杉家の思わぬ反撃にあい、相模国内へ後退します。

大永6年(1526年)にはそれまで北条家と友好関係にあった房総(ぼうそう)半島の真里谷武田(まりやつ・たけだ)家、小弓公方(おゆみくぼう)家、里見(さとみ)家なども北条包囲網に加わりました。

そして当時の里見家の当主・左馬頭義豊とその叔父・左衛門佐実尭の軍勢が鎌倉に襲来し、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)を焼き払い、この時円覚寺も焼かれたと言います。


関連記事:
鶴岡八幡宮を味わう(1)―太鼓橋と舞殿

関連記事:
鶴岡八幡宮を味わう(2)―大銀杏と本宮

関連記事:
鶴岡八幡宮を味わう(3)―源平池とゆかりの人物





青岳尼拉致事件


円覚寺

里見家はその後の天文(てんぶん)2年(1533年)、左衛門佐実尭とその子・刑部少輔義尭(以下「刑部」)によるクーデターにより左馬頭義豊が殺され、刑部が当主となります。

刑部は北条新九郎改め左京大夫氏綱(以降「左京大夫」)と結びクーデターを起こしたのですが、その後、真里谷武田家の家督争いへの介入で左京大夫と対立します。

その後真里谷武田家の家督争いを制し、小弓公方・足利右兵衛佐義明(以降「右兵衛佐」)と結び下総(しもうさ)・武蔵へ進出し北条家と衝突したのが天文7年(1538年)の第一次国府台(こうのだい)の戦いです。


関連記事:
第一次国府台の戦いに学ぶ―「~はずがない」は失敗フラグ

関連記事:
各合戦の動員人数について(4)第一次国府台の合戦


この戦いでは刑部義尭は戦わずに撤退していますが、右兵衛佐は討ち死にしています。
(詳しくは上記リンクをご覧ください)

この時に刑部は右兵衛佐の幼い子供たちを引き取っており、その中に後に青岳尼(しょうがくに)と呼ばれる娘がいました。

この娘はどういう経緯かはわかりませんが、この後北条家の支配下にある鎌倉の太平寺(たいへいじ)というお寺に入り、尼となります。
※そのため「青岳尼」と呼ばれています。

この青岳尼、里見家にいた時代に刑部義尭の子・太郎義弘と恋仲になっていたと言われています。

その太郎義弘は弘治(こうじ)2年(1556年)に鎌倉に渡り攻撃したと言われていますが、その攻撃は実は青岳尼と示し合わせたもので、青岳尼は太郎義弘とともに安房(あわ)に戻り、還俗(げんぞく)して太郎の妻となっています。

この戦いの実在性は定かではありませんが、太平寺にいた青岳尼が房総半島へ渡って太郎の妻となったのは事実であるようです。

この出来事に、北条家当主を継いだ新九郎氏康は不快感を示したと言われ、太平寺を廃寺(はいじ)にしています。

そして、この太平寺の仏殿(ぶつでん)が移築された先が円覚寺で、その建物はなんと、かの有名な「舎利殿(しゃりでん)であるとのことです。

やっと円覚寺が登場しましたね。

僕が円覚寺に行ったときには舎利殿は公開時期ではなく、残念ながら見ることはできませんでした。

歴史の教科書に載っている有名な「円覚寺舎利殿」ですが、実はこのようなエピソードがあったのです。

こんな風に、歴史的な建物にはほぼ必ずそれにまつわるエピソードがあります。

それを知るだけで楽しさが倍増します。

というわけでまだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!

最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・征夷大将軍〔将軍家〕 足利 左近衛中将〔通称不明〕 源 朝臣 義澄〔入道清晃、義遐、義高、義尊〕
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 あしかが さこんえのちゅうじょう〔通称不明〕 みなもと の あそん よしずみ〔入道せいこう、よしとお、よしたか、よしたか〕
・伊勢 左京大夫?〔通称は新九郎〕 平 朝臣? 盛時〔長氏、入道早雲庵宗瑞。いわゆる北条早雲〕
いせ さきょうのだいぶ?〔通称はしんくろう〕 たいら の あそん? もりとき〔ながうじ、入道そううんあんそうずい。いわゆるほうじょうそううん〕
・北条〔伊勢〕 左京大夫〔通称は新九郎〕 平 朝臣 氏綱
ほうじょう〔いせ〕 さきょうのだいぶ〔通称はしんくろう〕 たいら の あそん うじつな
・武田 左京大夫〔通称不明〕 源 朝臣 信虎
たけだ さきょうのだいぶ〔通称不明〕 みなもと の あそん のぶとら
・里見 左馬頭〔通称不明〕 源 朝臣 義豊
さとみ さまのかみ〔通称不明〕 みなもと の あそん よしとよ
・里見 左衛門佐〔通称不明〕 源 朝臣 実尭
さとみ さえもんのすけ〔通称不明〕 みなもと の あそん さねたか
・里見 刑部少輔〔通称は権七郎〕 源 朝臣 義尭
さとみ ぎょうぶのしょう〔通称はごんしちろう〕 みなもと の あそん よしたか
・里見 左馬頭〔通称は太郎〕 源 朝臣 義弘
さとみ さまのかみ〔通称はたろう〕 みなもと の あそん よしひろ
・北条 左京大夫〔通称は新九郎〕 平 朝臣 氏康
ほうじょう さきょうのだいぶ〔通称はしんくろう〕 たいら の あそん うじやす
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
風なうらみそ~小田原北条見聞録
何気ない風景とひとり言
歩けば見つかる小さな歴史

/
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・○○(武将、合戦等)について語ってほしい
・大河ドラマ(『軍師官兵衛』以降)について語ってほしい
・今、○○について悩んでいるが、どの武将を参考にしたらいいか

…等々

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※こちらの記事は、令和2年7月19日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は今年の大河ドラマ『麒麟がくる』第21回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。

大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【『麒麟がくる』の楽しみ方】
・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4回―美濃の情勢/織田家の状況
・第5~6回―当時の京都の情勢・第7~8回―尾張国内の政治情勢/当時の三河情勢
・第9~10回―土岐一族とは/織田家の血縁関係・第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽
・第13~14回―戦国最強の傭兵団/村木砦の戦い・第15~16回―織田一族の関係性/新九郎高政の重臣たち
・第17~18回―斎藤家の血族関係/永禄元年までの織田家・第19~20回―足利将軍家の動き/桶狭間の戦い


まずはあらすじ。



第21回のあらすじ


大高(おおだか)城にて母・於大(おだい)(松本若菜)の手紙を受け取った松平蔵人佐元康(風間俊介)は、母の、織田(おだ)方へ味方するようにとの願いに反し、今川(いまがわ)方を裏切らないことを決めた。

一方の織田上総介信長(染谷将太)は、父・備後守信秀(高橋克典)の言葉を思い出していた。

今川治部大輔義元(片岡愛之助)は用心深いため、必ず駿府(すんぷ)に兵を残しているという。

信長は、今川の軍勢が喧伝されていた2万には満たないと判断し、清須(きよす)城を出陣(しゅつじん)した。

兵を結集した信長だが、まだ今川勢の数が多いことを危惧していた。

しかし家臣(かしん)の佐々隼人正(内浦純一)が突出し、今川の陣に攻撃をかけたことで今川勢が削れたことを好機ととらえ、今川本陣(ほんじん)への総攻撃を命じた。

一方、大高城の松平元康は鳴海(なるみ)城へ援軍として向かうようにとの命令を受ける。

元康は、鷲津砦(わしづとりで)を攻め落として帰ってきたばかりの三河(みかわ)衆に、休むいとまもなく次なる命令を下してくる今川家に腹を立て、大高城から一歩も動かないことを決めた。

一方の信長勢はついに今川義元本人を見つけ、クビを取ることに成功した。

ということで、




第21回「決戦!桶狭間」の感想


いやぁ、面白かったです!

下記「今日は何の日?徒然日記」さんもおっしゃっていますが、これまでドラマで描かれてきた桶狭間(おけはざま)とは違ったアプローチでしたね。

それでいて、史実をしっかりと踏まえているという巧妙さ。

精神論や迷信ではなく、論理的に勝てる可能性を見出していく信長にはかつてない魅力を感じました。

そして、松平元康をはじめとする三河衆が良かったですね。

頑固一徹で結束の強い三河衆をうまく描写していたと思います。


三河衆について書いた記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
これぞ徳川家の柱石・三河武士の死にざまだ!!(山岡荘八『徳川家康』第2巻)

関連記事:
徳川家康の生涯を貫く思想―山岡荘八『徳川家康』第4巻

関連記事:
言葉と人間の本質を見極めた「人間学」―山岡荘八『徳川家康』第3巻

関連記事:
平和への願いとともに生まれた徳川家康(山岡荘八『徳川家康』第1巻)





第21回の楽しみ方―松平蔵人の親族―


桶狭間の戦いについては前回書いてしまったので少し焦りましたが、思いつきましたよ 笑


参考記事:
桶狭間の合戦―不利な状況を受け止める

参考記事:
『麒麟がくる』第19~20回―足利将軍家の動きと桶狭間の戦い


松平蔵人佐元康が今川を裏切れなかった理由となる松平(まつだいら)家の関係性について書かせていただきます。

↓松平家略系図
※クリックで拡大されます。

※織田方は青、今川方は赤で表示しています。
※築山殿(つきやまどの)の母の出自については今川治部の妹という説もあり。


まずは『麒麟がくる』にもしっかり登場している華陽院(けよういん)こと源応尼(げんおうに)(真野響子)についてです。

源応尼は尾張(おわり)または三河の出身で、もともと水野右衛門大夫忠政の継室(けいしつ)でした。

右衛門大夫との間に生まれた娘が於大で、のちに松平蔵人元康の母となるのはドラマでも描かれているのでご存知かと思います。
※於大は松平家を離縁となった後、阿久居(あぐい)(現在の知多郡阿久比町(ちたぐん・あぐいちょう))を領する久松佐渡守に再嫁(さいか)しています。

源応尼はのち、夫・水野右衛門大夫が松平次郎三郎清康、つまり蔵人元康の祖父との戦に敗れたとき、講和の条件として次郎三郎の側室(そくしつ)となったと言われいます(諸説あり)。

その後次郎三郎清康は暗殺され、源応尼は人質として駿府に入りました。

そして同様に人質として送られてきた孫・松平蔵人元康を育てました。


次は蔵人の正室(せいしつ)である築山殿について。

彼女は関口刑部という、今川一族の武将の娘と言われています。

ただでさえ今川家の血を引いているのですが、その母が今川治部義元の妹、または側室だったという説があり、二重三重に今川家に縁のある女性でした。
※築山殿の母は『おんな城主直虎』に登場しています。ドラマ中では井伊次郎直虎の曽祖父・井伊兵部直平の娘という説を採用していました。

参考記事:
『おんな城主直虎』第41~45回―終盤でやっと面白くなってきた

かつては、蔵人は駿府人質時代に不遇の扱いを受けていたという話もありましたが、最近は丁重に扱われていたという説が有力です。

その証拠の一つとしてよく取り上げられるのが、この築山殿の存在です。

今川一族に準じる格をもっていた彼女を正室にするということは、松平家も準今川一族として迎えられたことになります。
※当時、三河に権威として存在していた吉良(きら)氏(吉良上野介の親戚)に対抗したという説もあります。
※当時、築山殿の母の消息は不明。


駿府には源応尼や築山殿のほかに、蔵人の嫡男(ちゃくなん)であり松平宗家(そうけ)の跡継ぎである竹千代(たけちよ)(のちの岡崎三郎信康)と亀姫(かめひめ)(のちの奥平美作守信昌室)がおり、蔵人は何人も人質を取られた状況でした。

こんな状況だったので、母である於大に誘われても(この部分はフィクションですが)今川家を裏切ることができなかったわけですね。

この「桶狭間」のあと、蔵人は松平家の居城(きょじょう)・岡崎(おかざき)城に戻ります。

その時城にいた今川家の城代が駿府へ逃げてしまったと言われており、蔵人はそれに乗じて城を奪い返したと言われていました。

しかし最近は、今川家と連絡を取って、織田家の追撃に備えて岡崎城を防備していたという説が浮上しています。

こんな風に、ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!

最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・松平 蔵人佐〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 元康〔元信、のちの徳川家康〕
まつだいら くろうどのすけ〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん もとやす〔もとのぶ、のちのとくがわいえやす〕
・織田 上総介〔通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ かずさのすけ〔通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・織田 備後守〔弾正忠。通称は三郎〕 藤原〔忌部〕 朝臣 信秀
おだ びんごのかみ〔だんじょうのじょう/だんじょうのちゅう。通称はさぶろう〕 ふじわら〔いんべ〕 の あそん のぶひで
・今川 治部大輔〔通称不明〕 源 朝臣 義元
いまがわ じぶのたゆう〔通称不明〕 みなもと の あそん よしもと
・佐々 隼人正〔官職不明〕 源 政次〔成吉 勝通〕
さっさ はやとのかみ/はやとのしょう〔官職不明〕 みなもと の まさつぐ〔なりよし、かつみち〕
・水野 右衛門大夫〔通称は藤七郎〕 源 朝臣 忠政
みずの うえもんのだいぶ〔通称はとうしちろう〕 みなもと の あそん ただまさ
・久松 佐渡守〔通称不明〕 菅原 朝臣 俊勝〔定俊、長家〕
ひさまつ さどのかみ〔通称不明〕 すがわら の あそん としかつ〔さだとし、ながいえ〕
・松平 次郎三郎 源 清康
まつだいら じろうさぶろう みなもと の きよやす
・(今川)関口 刑部少輔〔通称不明〕 源 朝臣 親永〔義広、氏興、氏広、氏純〕
(いまがわ)せきぐち ぎょうぶのしょう〔通称不明〕 みなもと の あそん ちかなが〔よしひろ、うじおき、うじひろ、うじずみ〕
・井伊 次郎 藤原 直虎〔次郎法師、とわ〕
いい じろう ふじらわ の なおとら〔じろうほうし、とわ〕
・井伊 兵部少輔〔通称不明〕 藤原 朝臣 直平
いい じぶのしょう〔通称不明〕 ふじわら の あそん なおひら
・吉良 上野介〔通称は三郎、左近〕 源 朝臣 義央
きら こうづけのすけ〔通称はさぶろう、さこん〕 みなもと の あそん よしなか〔よしひさ〕
・松平〔徳川〕 次郎三郎〔岡崎三郎〕 源 朝臣 信康
まつだいら〔とくがわ〕 じろうさぶろう〔おかざきさぶろう〕 みなもと の あそん のぶやす
・奥平 美作守〔通称は九八郎〕 源〔丈部〕 朝臣 信昌〔貞昌〕
おくだいら みまさかのかみ〔通称はくはちろう〕 みなもと〔たけべ〕 の あそん のぶまさ〔さだまさ〕
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
第21回までの総評。
あくある~む417ブログのお部屋
茶々さんのブログです。
今日は何の日?徒然日記
こちらもおなじみぴえーるさんのブログです。
ぴえーるのテレビブログ

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※こちらの記事は、令和2年2月18日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第12弾として「三方ヶ原(みかたがはら)の合戦」について書きます。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

第1回 今山の合戦
第2回 耳川の合戦
第3回 沖田畷の合戦
第4回 小豆坂の合戦
第5回 長良川の合戦
第6回 桶狭間の合戦
第7回 稲葉山城の合戦
第8回 金ヶ崎城の合戦
第9回 姉川の合戦
第10回 二俣城の合戦
第11回 一言坂の合戦

『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の今川徳三氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。

合戦の概要がわからなければ何を学べるかわからないので、まずは合戦概要です!




二俣城落城後の武田信玄


以前の記事でご紹介しましたが、元亀(げんき)3年(1572年)、甲斐(かい)の虎武田信玄は上洛を企図して徳川(とくがわ)遠江(とおとうみ)に兵を進めました

途上にある城を次々と落とし、一言坂(ひとことざか)で小競り合いをした後二俣(ふたまた)城に転進し、落城させました


一言坂の戦いについて知りたい方は、下記リンクをクリックしてください:
一言坂の戦い合戦に学ぶ―がむしゃらになれ

関連記事:
二俣城の合戦―「見る」のではなく「観る」


二俣城を出た信玄は城の南西にある合代島(ごうだいじま)に陣を布き、しばらくそこに滞在します。
(下掲地図参照)




信玄の浜松進軍と転進


徳川侍従家康は信玄の動きが読めずに判断に迷っていました。

信玄が徳川侍従の居城浜松(はままつ)城を攻めるにしても、攻めずに素通りするにしても、打って出なければ面目が立たないと判断し、浜松城を出て野戦に持ち込む決意をしました

そんな中、信玄がついに動きました。

合代島から天竜川(てんりゅうがわ)を渡って浜松城の目と鼻の先、有玉(ありたま)に陣取ったのです。

城を出ていた徳川軍は兵を南下させますが、信玄は浜松城を目指さずに北西に向かいます

いぶかしんだ徳川侍従は武田(たけだ)軍を追尾しますが、武田軍の進軍は止まりません。

このまま武田軍が進めば「祝田(ほうだ)の坂」と呼ばれる坂に差し当たるため、徳川侍従はそこを狙い、戦闘を仕掛けることにしました
武田軍が坂を下ったところを狙えば、徳川軍は坂の上から押しかけることとなり、有利だからです。

※三方ヶ原周辺地図(赤矢印は武田軍の動きです)





徳川軍の敗戦


徳川軍が祝田の坂を目指して進軍していると、突然喊声が響き渡りました

徳川軍の左翼石川伯耆守数正と武田軍の右翼小山田左兵衛尉信茂とが衝突したのです。

てっきり祝田の坂を下ったと思っていた武田軍は実は坂上で向きを変え、徳川軍の到着を待っていたのでした。

徳川侍従は完全に信玄の策中にありました

数で劣る上に、不利な陣形のまま合戦に突入した(陣形については下記ブログさんをご参照ください)徳川軍はさんざんに蹴散らされ徳川侍従自身も敗走

討ち死に寸前のところで浜松城に帰着し、命拾いをしました。

討ち死にした武将多数。
割と有名な話ですが、この時徳川侍従の身代わりになって死んだ夏目次郎左衛門吉信は夏目漱石の先祖と言われています。
(余談になりますが、二俣城の合戦時に城将だった中根正照も戦死しています。
夏目次郎左衛門の子孫である夏目漱石の奥さんは中根氏という武家出身でして、この正照の血縁者なのかもしれませんね)


関連記事(夏目漱石関連の記事):
夏目漱石『こころ』におけるKの寿命問題

同関連記事:
『いだてん』第4~5回―視聴率が伸びなかった名作

同関連記事:
『いだてん』第1~3回―異色の現代劇大河





徳川侍従の計略


戦勝に乗じた武田軍は浜松城の目前まで迫りました

徳川家はもはやこれまでと思われましたが、武田軍は突如転進して北西の刑部(おさかべ)を目指していきました。

武田軍が浜松城に到着した頃、徳川侍従は城のすべての門を開け放ってかがり火をたき、完全無防備状態にしました。
これを見た武田軍があまりの無防備さをいぶかしみ、罠を警戒したためと言われています。

徳川侍従が行ったのはいわゆる「空城計(くうじょうけい)」と言われる計略でした。
(これは史実ではないという説あり)

この空城計との前後関係はわかりませんが、三方ヶ原から敗走した徳川軍(主に大久保七郎右衛門忠世隊)が犀ヶ崖(さいががけ)にて穴山梅雪隊に奇襲を仕掛け、一矢報いています。




ビジネスに活かす要素は?


この戦いは武田信玄の戦のうまさと徳川侍従の未熟さが際立つ戦いですね。

信玄の視点で書くべきか、徳川侍従の視点で書くべきか迷うところですが、ミスや失敗の方が学ぶことが多いため、徳川侍従の視点で考えたいと思います。

反省点としては、武田軍の動きに対して読みが甘かった点ですかね。

楽観視しすぎたということです。

ネット上の情報には「楽観的に考えた方がいい」「ポジティブ思考の方が運がよくなる」みたいな情報が多いですが、それとこれとはまた別の話ですね。

抽象度が違います。

漠然とした大ゴールのレベルでは「絶対にうまくいく」という楽観思考が大事ですが、実務を遂行するにあたってはとことんネガティブ思考の方が正解です。

あらゆるトラブルを予想して対策を練るんですが、誰にでもそれができるならだれも失敗しません。

人は、経験していないことを予測することはほぼできません。

だから、小さく冒険して小さく失敗することを繰り返しておくんです。
それで失敗の経験を積んでおけば脳の中でトラブルシューティングが自動再生されます。

徳川侍従の場合は武田軍が祝田の坂上で待ち構えているとは予想だにしていなかったんですね。
(武田軍は徳川軍を誘いだして、自分たちに有利な土地で迎え撃ったわけです)

ただ、徳川侍従の見事なところは反省と転進のスピードですね。
彼はミスをしたら常人離れしたスピードで反省し、あっという間に改めます。
(史実かどうかはわかりませんが、敗戦のさなかに空城計を実行するという冷静さにもそれが出ていますね)

「君子は豹変(ひょうへん)す」と言いますが、これができる人は最強です。

関連記事:
金ヶ崎城の合戦―過去の実績にこだわらない

豹変力」とでも名付けましょうか笑

というわけで、みんなで豹変力を身につけていきましょう笑

今回は以上です!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・武田 大膳大夫〔通称は太郎〕 源 朝臣 晴信〔入道信玄〕
たけだ だいぜんのだいぶ〔通称はたろう〕 みなもと の あそん はるのぶ〔入道しんげん〕
・徳川 侍従〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
とくがわ じじゅう〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・石川 伯耆守〔通称は与七郎〕 源 朝臣 数正
いしかわ ほうきのかみ〔通称はよしちろう〕 みなもと の あそん かずまさ
・小山田 左兵衛尉〔通称は弥五郎〕 平 朝臣 信茂
おやまだ さひょうえのじょう〔通称はやごろう〕 たいら の あそん のぶしげ
・夏目 次郎左衛門 源 広次〔吉信〕
なつめ じろうざえもん みなもと の ひろつぐ〔よしのぶ〕
・夏目 金之助 源 (諱不明)〔号漱石〕
なつめ きんのすけ みなもと の (諱不明)〔号そうせき〕
・中根 (官職・通称不明) 平 正照
なかね (官職・通称不明) たいら の まさてる
・大久保 七郎右衛門 藤原 忠世
おおくぼ しちろううえもん ふじわら の ただよ
・穴山 玄蕃頭〔通称は彦六郎〕 源 朝臣 信君〔梅雪〕
あなやま げんばのかみ〔通称はひころくろう〕 みなもと の あそん のぶただ〔ばいせつ〕
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
戦国武将列伝Ω 1100記事
ヒストリア(歴史のネタ)
今日は何の日?徒然日記

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※こちらの記事は、令和元年7月1日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は今年の大河ドラマ『いだてん』第21~22回の感想です。

まずはあらすじ。
ヨーロッパから帰国した金栗四三(中村勘九郎)はドイツで見聞した女子スポーツを日本でも普及させるべく、東京府立第二高等女学校(とうきょうふりつ・だいに・こうとう・じょがっこう)の教師となって女学生たちにスポーツのすばらしさを伝えようと奮闘する。しかし、女学生の間には女子は運動をするものではないという固定観念が強く、なかなか受け入れてもらえず苦戦する。

竹早(たけはや)(第二高等女学校)の生徒たちに受け入れられ始めた四三。生徒の村田富枝(むらた とみえ)(黒島結菜)らはテニスの大会で岡山(おかやま)に遠征するが、人見絹枝(ひとみ きぬえ)(菅原小春)に惨敗する。東京に戻り、四三は女子陸上大会を開催するが、教え子の富江は靴下を履いていると走りにくいと言い出し、はだしで駆けることで50m、100m、50m障害で見事優勝する。しかし、当時の風潮では女子がはだしを人前でさらすことなど言語道断。父村田大作(むらた だいさく)(板尾創路)が苦情を言いに竹早に乗り込んできたのであった。

ということで、




第21回は「櫻の園」。
いやぁ、気持ち悪かったですね!笑
女学生たちの気持ちがまったく読めずにスポーツを押し付け、挙句の果てに(教育上とはいえ)性的な発言はするわでキモさ全開でした。
(僕自身も女子の気持ちがわかるわけではありませんがね笑)


『いだてん』に興味のある方は、下記リンクをクリックしてください(関連記事に飛びます):
『いだてん』第37~38回―やっぱり出征はつらい

同関連記事:
『いだてん』第35~36回―前畑に感動した

同関連記事:
『いだてん』第31~32回―昭和時代の負の遺物


そして、最終的には四三は受け入れられるものの、受け入れられ方が不自然極まりない。

宮藤官九郎氏はよくわかっていると思うのですが(根拠はありません笑)、現実世界では女子のコミュニティに一旦「キモい」「嫌い」というレッテルを貼られたらそれをはがすのは至難の業です。
ほぼ無理ですね。

というわけで、四三が女子たちに受け入れられていく様が急展開過ぎ。
ありえないですね笑

第22回は「ヴィーナスの誕生」。
面白くなってきましたね。
たぶん、村田富江のサクセスストーリー(架空の人物ですが)に重なる四三の上り調子の雰囲気がいいんでしょうね。
やはり、若くて勢いのある人を描いたほうが物語としては面白いです。
(年寄りの風情を描くためには腕が必要です。大河ドラマという一般多数の人向けの作品では難しいと思います)

そして、板尾創路氏が最高ですね。
あれだけ頭のおかしい(ほめ言葉です)お笑いを繰り広げておきながら、立派に風格のある大正紳士役をこなすとは!
昔、事件を起こしてテレビに出られなくなったときはどうなることかと思いましたが(事件自体は当然償うべきですが)、こんなに立派な演技ができるとは!

彼の登場で四三がカッコよく思え、物語自体が面白くなってきました。

今後に期待!


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○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)※現代劇ですが、ときどき通称や諱をもっている人がいるので。
・金栗 四三 (氏不明) (諱不明)
かなくり しそう (氏不明) (諱不明)
※村田大作は架空の人物です。
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

※画像は記事内容とは関係ありません。

参考
第21回
雑記帳
みはいる・BのB
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
第22回
雑記帳
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
真田のよもやま話

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