金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

シュメールの暦は春分近くの新月が元旦

2.22.05.25 追加 補足しました
縄文時代早期には太陽暦は二至二分には到達していたものと考えられるので
シュメールの暦はこの春分 冬至から91日 を暦の起点とするものと考える。
その後縄文時代前期には八節の暦に進展、立春を暦の起点としていたと考える
暦作りは起点が春分から立春に 45日早まったものと考える。
金生遺跡・大配石から、立春と立秋を観測していた施設が分かり、半年一年暦の起点として立春、立秋を観測していたのだろうとの推定が可能となった。
また太陰暦についても二至に基づく半年 6回の月の相の周期の暦が作られていたものと推定できるので、こうした縄文時代早期の暦の知識がシュメールに伝わっていたものと考える。

 

最新のAIの説明から追加しました  2023.03.21

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1.シュメール文明の暦の起点は春分とするが、これはどこから来た知識なのか

‘シュメール文明の暦の起点は春分’ を検索しています
回答を生成しています…

シュメール文明の暦の起点は春分とするのは、シュメールのウル第三王朝のシュルギ王(紀元前21世紀)が定めたウンマ暦を起源とするからです1。この暦は天文観察に基づいて作られ、春分の時期を正確に予測するため恒星・カペラの動きを観察していました1。シュメール文明はイラク南部地方で栄えた古代文明で、メソポタミア文明の一部です2。

受信したメッセージ. シュメール文明の暦の起点は春分とするのは、シュメールのウル第三王朝のシュルギ王(紀元前21世紀)が定めたウンマ暦を起源とするからです。この暦は天文観察に基づいて作られ、春分の時期を正確に予測するため恒星・カペラの動きを観察していました。シュメール文明はイラク南部地方で栄えた古代文明で、メソポタミア文明の一部です。
詳細情報:
1. ja.wikipedia.org
2. ja.wikipedia.org
3. blog.goo.ne.jp
4. blog.goo.ne.jp
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シュメール文明についてもっと知りたいです。
他にも春分を暦の起点とする文明はありますか?
カペラという恒星について教えてください。

応答を停止して


2.カペラが春分を示すと言うことは、何故分ったのか

‘カペラ 春分’ を検索しています
回答を生成しています…

カペラは、ぎょしゃ座の一等星で、冬の大三角形の一角をなす明るい恒星です1。古代バビロニアでは、春分の日没直後にカペラと新月が西の空に並ぶ日を元日としていました2。このように、カペラの位置と動きを観察することで、春分の時期を知ることができたのです。

受信したメッセージ. カペラは、ぎょしゃ座の一等星で、冬の大三角形の一角をなす明るい恒星です。古代バビロニアでは、春分の日没直後にカペラと新月が西の空に並ぶ日を元日としていました。このように、カペラの位置と動きを観察することで、春分の時期を知ることができたのです。
詳細情報:
1. 543life.com
2. ja.wikipedia.org
3. hoshinokoto.com

3.シュメール文明では太陽観測なしに春分をどのようにして知ったのか

‘シュメール文明 春分 太陽観測’ を検索しています
回答を生成しています…

シュメール文明では、太陽観測だけでなく、恒星や月の動きも暦に利用していました1。春分の頃の新月を新年の始まりとするウンマ暦は、恒星カペラと新月が西の空に並ぶ日を元日としていました1。また、太陽が黄道十二宮の牡羊座に入る日も春分と考えられていました2。

受信したメッセージ. シュメール文明では、太陽観測だけでなく、恒星や月の動きも暦に利用していました。春分の頃の新月を新年の始まりとするウンマ暦は、恒星カペラと新月が西の空に並ぶ日を元日としていました。また、太陽が黄道十二宮の牡羊座に入る日も春分と考えられていました。
詳細情報:
1. ja.wikipedia.org
2. news.yahoo.co.jp
3. ja.wikipedia.org

 

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初稿 2021.07.26

シュメールの暦 宇宙の始まり、年の始まり
そのなかでも重要な儀式とされていたのが「聖婚儀礼」です。
その年の豊穣を願って、宇宙のはじまりの日とされた元日(今日でいう春分)に行われるもので、神に扮した王と女神官が交わるといいます。
この大切な春分日は二至二分の暦から決められたもので、元は縄文人のものだったと考える。シュメールは土地が平坦で日の出観測するには不都合だった。

                                                          地図はお借りしました
その土地で春分を知るためにはどうしたか。
シュメールの土地では周囲に山が無い土地のであり、日の出の目標と成るものが無いため
星をその代わりとして使うことにしたものと考える。春分時期の星の動きとの関係を観察した。
これから星座の基が作られた。春分と星座の関係は長い時間が経つと地球の自転軸の歳差運動のため星は移動してしまうので次々に春分確定のための星座は変えられていた。
月とともにシュメールでは星座の知識が蓄積されていた。月は太陰暦をもたらし、星からは星座と星占いが作られることになった。
シュメールの星や宇宙に関する知識の基はこうして始まったものと考える。

引用ーーーーーー
141014 シュメールの女神官の役割は供物の授受と聖婚儀礼
ウルク文化期後期(5500年前~5100年前)に作られたとされる「ウルクの大杯」リンクには、イナンナ女神(豊穣・戦い・性愛の神)に羊や麦を供物として奉納する様子が描かれている。
頭に供物を載せた剃髪した男たちの列の先頭に王がおり、それらに相対するように一人の女性が立っている。その背後に様々な供物が置かれている。
その女性はイナンナ女神を表す葦の束を背にして立っており、手を鼻の前に置く“祈りのポーズ”をしていることから、女神の代理としての女神官だと考えられている。
この女神官の行う重要な儀式に「聖婚儀礼」がある。
これは、その年の豊穣を願って宇宙のはじまりの日とされた元日(今の春分)に行われるもので、神に扮した王と女神官が交合するという儀式である。「聖婚儀礼」はシュメールの円筒印章の絵柄に多く用いられている。
>ウル第三王朝時代からイシン第一王朝時代にかけて、高位の女神官が豊饒の女神イナンナに、王が植物神で女神の恋人とされるドゥムジに扮して、交合を含むさまざまな儀式がおこなわれ、おおらかに性の歓喜を歌う「聖婚歌」が作られた。
(参考文献:小林登志子著「シュメル」)

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シュメール人は自らを「ウサンギガ」、すなわち「黒頭の民」と呼んでいたそうです。
しかし、イスラエル人のようなセム系の民族も黒い頭ですが、それらセム系の民族とは異なり、アッカド王朝以前の遺跡に見られるシュメール人の容貌は〈剃髪した堀の浅い髭のない傾向〉が多く見られたようです。
ということは、私たちアジア人種と同じような姿形だったのでしょうか。
それも剃髪しているとのことなので、坊主ですね。
坊主であるのと関係しているかどうかはさて置き、シュメール人はよく儀式を行なっていました。
そのなかでも重要な儀式とされていたのが「聖婚儀礼」です。その年の豊穣を願って、宇宙のはじまりの日とされた元日(今日でいう春分)に行われるもので、神に扮した王と女神官が交わるのです。          ・・
「大杯」の図像をゆっくり眺めてきたが、それでは図像全体でなにを表しているのだろうか。[中略]
下段と中段に表された場面を踏まえると、上段は都市国家の王が豊穣を祈願あるいは感謝する場面であることは間違いないが、さらに踏み込んで王と女神官による「聖婚儀礼」が表されているとも解釈され、「大杯」の図像はその最古の例になると考えられる。
「聖婚儀礼」は男女の交合により、混沌から秩序を回復し、不毛を豊穣に変えることなどを意味する。シュメルだけの特異な儀礼ではなく、世界中で広く見られる。シュメルでは女神官と王が「聖婚儀礼」をおこない、豊穣がもたらされると考えられていた。
「聖婚儀礼」は元旦におこなわれていた。元日の持つ意味は現代日本では薄れてしまい、単に一年の最初の休日となってしまっているが、シュメルのみならず古代社会では元日は宇宙のはじまりに重ね合わされる日、つまり新しい生の循環が始まる日であった。
出典:シュメル/p75-76 https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/mesopotamia-seikon-girei-ou
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ニサンの月
●カペラとニサンの月
 日の出直前の東の空と、日没後の西の空にカペラが現れるのを観測して1年の長さを測ったといいます。 これには2つ説があり、春分の頃のカペラの日の出直前昇天を年初とした説と、 日没後に新月と並ぶのを年初とした説があります。

 カペラはバビロニアの前代アッカディアでは、「ディルカンイク(光の使い)」と呼ばれ、 バビロニアでは「ディルカン・バビリ(バビロンの護星)」と、 ついでアッシリアでは「年の案内者」と呼ばれました。 また年初を教える星として「マルドゥクの星」と呼ばれました。

●アッカディア
 アッカディアの時代はバビロニアよりも2000年あまり溯りますので、 年初の星は歳差運動により、カペラではなくカストルとボルックスでした。 アッカディアの粘土版には
 ニサンの月の第1日に、星の中なる星(ディルカン)と月が並べば、その年は平年なり、 ニサンの月の第3日に星の中なる星と月が並べばその年は閏年なり

とあります。

●ニサンの月の第3日
第一年 新月とカペラが合
第二年 2日月とカペラが合
第三年 3日月とカペラが合
 第四年目の合は翌月第1日の夕暮れに新月とカペラが合になることでもあり、 真の年初が再び回ってくることを示します。

 月の第三日に新月がカペラと合になるときは、それより1年1ヶ月(13月)後にには、 月の第1日に合となるので、この年を閏年として「13月」を置きました。

黄道十二星座へ
●歳差運動
 地軸の振り子現象により、春分点が毎年約54秒西に移動するため、 70年に約1日の割合で季節に狂いが生じます。 恒星年をカストルやボルックス又はカペラに頼れなくなってしまいました。 そこで昼と夜の長さを正確に測り春分点を決め、回帰年を使うようになりました。
 黄道の星々により観測することを止め、黄道を木星周期の12年から12等分して、 白羊宮の原点を春分の太陽の位置と決めましたのが、紀元前7~8世紀のことであるようです。
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…シュメール人は自らを「ウサンギガ」、すなわち「黒頭の民」と呼んでいたそうです。
しかし、イスラエル人のようなセム系の民族も黒い頭ですが、それらセム系の民族とは異なり、アッカド王朝以前の遺跡に見られるシュメール人の容貌は〈剃髪した彫りの浅い髭のない傾向〉が多く見られたようです。
…「聖婚儀礼」は元旦におこなわれていた。元日の持つ意味は現代日本では薄れてしまい、単に一年の最初の休日となってしまっているが、シュメルのみならず古代社会では元日は宇宙のはじまりに重ね合わされる日、つまり新しい生の循環が始まる日であった。
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シュメール人は自らを「ウサンギガ」、すなわち「黒頭の民」と呼んでいたそうです。
しかし、イスラエル人のようなセム系の民族も黒い頭ですが、それらセム系の民族とは異なり、アッカド王朝以前の遺跡に見られるシュメール人の容貌は〈剃髪した堀の浅い髭のない傾向〉が多く見られたようです。
ということは、私たちアジア人種と同じような姿形だったのでしょうか。
それも剃髪しているとのことなので、坊主ですね。
坊主であるのと関係しているかどうかはさて置き、シュメール人はよく儀式を行なっていました。
そのなかでも重要な儀式とされていたのが「聖婚儀礼」です。その年の豊穣を願って、宇宙のはじまりの日とされた元日(今日でいう春分)に行われるもので、神に扮した王と女神官が交わるのです。          ・・
「大杯」の図像をゆっくり眺めてきたが、それでは図像全体でなにを表しているのだろうか。[中略]
下段と中段に表された場面を踏まえると、上段は都市国家の王が豊穣を祈願あるいは感謝する場面であることは間違いないが、さらに踏み込んで王と女神官による「聖婚儀礼」が表されているとも解釈され、「大杯」の図像はその最古の例になると考えられる。
「聖婚儀礼」は男女の交合により、混沌から秩序を回復し、不毛を豊穣に変えることなどを意味する。シュメルだけの特異な儀礼ではなく、世界中で広く見られる。シュメルでは女神官と王が「聖婚儀礼」をおこない、豊穣がもたらされると考えられていた。
「聖婚儀礼」は元旦におこなわれていた。元日の持つ意味は現代日本では薄れてしまい、単に一年の最初の休日となってしまっているが、シュメルのみならず古代社会では元日は宇宙のはじまりに重ね合わされる日、つまり新しい生の循環が始まる日であった。

出典:シュメル/p75-76 https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/mesopotamia-seikon-girei-ou
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古代エジプトは太陽暦を使い、バビロニアでは太陰暦が使われていた
古代エジプトでは、初め1年を、12ヶ月、1ヶ月を30日とし、それに5日間の祭日を加えた365日の「太陽暦」を使っていました。
しかし、正確な恒星年の1年は365日と4分の1日であるため、長い間にはどうしても暦と季節にずれが生じてしまいます。
そこで、これを補うために「ソティス暦」を併用しました。すなわち、ナイル河の増水を告げるシリウス星が太陽とともに東天に出現するのを見て夏至を知り、1年の長さを決めたのです。
これに対して、バビロニアでは朔望月(さくぼうげつ)をもとにした「太陰暦」が使われていました。
朔望月とは、月の満ち欠けの1周期のことで、朔(新月)から次の朔、あるいは望(満月)から次の望までの期間を言います。
朔とは太陽と月の合(太陽と月の角度が0度)、望は太陽と月の衝(太陽と月の角度が180度)の時である。
1ヶ月の始まりを細い新月が日没の空にかかる時として、そこから日を数えて1か月の長さを決めていたのです。
ところが、太陰暦の1か月は29日または30日で、1年では354日となり、本当の1年の365日とは11日も差があります。
どうしても1年を正確に計る必要が出てきたのです。
そこで、ある特殊な星が日の出時に出現するのを見て年初とし、1年の長さを決めることにしました。
この星は、現代の研究によると、馭者座(ぎょしゃざ)の1等星カペラ、後には牡羊座のアルファ星ハマルで、春分の頃の東空に太陽に先立って姿を現し、バビロニアの年始「春分正月」を定めたといわれます。
春分点は、黄道360度のスタート地点・牡羊座に太陽が入る1年始まりの日
現代の占星術が、夏至でも冬至でもなく、ましてカレンダーの1月1日でもなく、太陽が春分点に到達する時、すなわち太陽が白羊宮(はくようきゅう・牡羊座)に入る時を1年の始まりと考えているのは、遠くバビロニアの暦法の流れを汲んでいるためです。
メソポタミアの南部、シアヌルの地に興隆した古代バビロニア帝国は、初めシュメールとアッカドとに分かれていましたが、アッシリアとの抗争を経た後、前2000年紀にハンムラビ王によって統一されました。
バビロニア帝国は前7世紀、ネブカドネザル王朝の時に栄華の最高潮に達し、前539年にペルシアのクセルクセス王によって征服されるまで、およそ2000年の興亡の歴史をたどりました。
バビロニア帝国で天文観測に従事していたのは、カルデア人と呼ばれる哲学者の集団でした。
カルデア人は明らかにバビロニア人とは別種の民族で、その系統はバビロニア人よりも古く、その知的水準はバビロニア人よりも高かったようです。
彼らは「神聖科学の管理人」と呼ばれ、占星術や天文観測技術だけでなく、医学・薬学・数学・言語学・建築学などの知識の所有者として、バビロニアの知識階級、あるいは聖職者階級を形成していたのです。
天文学と数学が高い知的価値を有するのはインドもバビロニアも一緒だった
カルデア人が擁していた諸科学のうち、特に価値を認め得るのは、天文学と数学です。
ギリシアの哲学者シンプリキオスによると、カルデア人はアレクサンドロスの時代に、1903年に渡る天体の観測記録を残していたと述べています。
カルデア人は月の1日の平均運動速度を13分10度35秒と定め、また朔望月が29日12時間44分毎に起こることをすでに算出していました。
また、恒星の年周運動を観測して春分点を知り、1年の長さが365日6時間11分であることを確認しています。
太陽や月や惑星が、常に天の一定の軌道を通ることに注目して、太陽の通り道である「黄道」(こうどう)を考え出し、「黄道12宮」を設定したことも、カルデア人の偉大な功績です。
ーーーーーー
しかし、これらの事実を踏まえてもなお、シュメール人がわたしたち日本人のような東アジア系とは断定されず、未だ謎のままなのは、西アジア系のセム系の像も多く見られるためです。
とはいえ、【シュメール人には西アジア系・東アジア系がいた】のは確かなことでしょう。
共通点はそれだけではありません。
彼らシュメール人は、日本語と同じような「仮名交じり文」を使っていました。
しかもシュメール人の発明した「楔形文字」は、漢字の形成と同じ過程を経ており、日本語と同じ膠着語であるそうです。
【1】シュメールの楔形文字は、漢字の形成とほぼ同じ過程を経て成立した
【2】シュメール文字は現代日本語の漢字仮名まじりと同じ構造をもつ
【3】シュメール文字は子音のみならず母音をも記す
   (シュメール周辺のセム系言語の文字は、子音のみを表記する)
【4】シュメール語は膠着語である
https://trakl.exblog.jp/17689928/
※ 日本人は漢字仮名まじり文章で生活しており、日本語の文法は膠着語(にかわで接着するの意で、テニヲハの接着語によって単語がぺったりとくっつくさまを示す)系統に属する。更に日本語は、母音が非常に強調される特色がある。
シュメール人による「楔形文字」が【漢字の形成と同じ過程を経て誕生した】ということは、漢字を生み出した中国大陸の「殷」という国もまたシュメール人との関連が考えられるわけですが、実はそのような説も既にあります。


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