金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

世界史上での立春観測の遺跡

金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設は、チャイナで発見された陶寺遺跡の天文台遺跡と同時期のものと推定出来る。
太陽観測としての陶寺遺跡は、金生遺跡の太陽観測とは比較にならない。
チャイナで行われた陶寺遺跡の天文台遺構で観測されている太陽暦観測は、どのようにされているのか皆目分らない。特にノーモンを使用して観測していた様子は有りそうでは無い。

 

縄文時代の長い時間を掛けて探求されてきた太陽観測は、現代の太陽暦と肩を並べられる精度を持つものになっていた。
さらには後のチャイナに於いて暦の起点とされていた立春、立秋が、太陽観測に於いて実現されていたことである。

ここで気が付いたのは、縄文時代中期とは、これ以前の縄文時代の文化、縄文文明であったことである。


図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

2015年06月22日-06月26日トップ  > 科学技術ニュース>  2015年06月22日-06月26日 > 

山西省・陶寺遺跡、伝説の「堯の都」か
2015年06月26日
 中国社会科学院はこのほど北京国務院プレスセンターで、山西省臨汾市襄汾県・陶寺遺跡の発掘成果に関する記者会見を開き、発掘調査の重大な収穫を発表した。中国社会科学院考古研究所の王巍所長は、「陶寺遺跡は『堯の都』であったと推定される。堯舜時代はもはや伝説ではなく、確実な史実によって証明された」と述べた。央広網が伝えた。
 40年弱に渡る陶寺遺跡の発掘調査と研究により、この遺跡が中国の紀元前で機能が最も整った都であったことが明らかになった。この都は、王宮と外郭、下層の貴族居住区、倉庫、王族の墓地(王陵)、天文観測・祭祀用の壇、手工業に用いられる作業部屋、庶民居住区によって構成されていた。建設・使用の時代は、今から4000?4300年前。王族墓地に副葬されていた鼓、銅の鈴、漆器などの礼楽に用いられるものは、最古の礼楽制度の形成を証明している。

天文観測・時報・祭天を一体化していたと見られる壇は、天文学界から世界最古の同類の建築物とされている。偏壺に刻まれている文字はまだ特定されていないが、圧倒的多数の学者は現在までに発見されているうち最古の漢字と判断している。貴族の墓から出土した多くの玉石戉は、王権が同遺跡の社会で主導的な地位を占めていたことを示す。ごく少数の王墓と多数の平民の墓、貴族および平民の住宅の規模、敷地の処理技術と位置の上下の差は、同遺跡の社会にピラミッド型の身分関係があったことを示している。一部の学者は、これを階級制の現れとしている。
 王所長はまた、「一連の考古調査の証拠によると、同遺跡の年代、地理的位置、中身、規模、等級、同遺跡が示す文明の程度は、堯の都と一致する。現在は判断が下せる段階ではないが、堯の都は発掘調査と研究により伝説の時代から抜け出し、確実な史実に変わろうとしている」と話した。
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日本では縄文時代後期が始まる。…  投稿者:吾亞風  投稿日:2022年 5月24日(火)10時02分40秒 返信・引用

 寒冷化により関東地方では人口減少が続く。この時代の遺跡として大森貝塚や大湯環状列石がある。
中国四川省では宝?文化が発展する。
中国湖北省では石家河文化が成立する。
中国陝西龍山文化を代表するこの時代最大級の都市遺跡である陶寺遺跡が形成される。
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すなわち、漢民族は自らを華夏族と呼び、自分達のルーツは周王朝(BC 1066~BC 256)と夏王朝(BC 21世紀~BC 16世紀)であると言う。夏と周に挟まれた殷(商)王朝(BC 16世紀~BC 1066)は異民族であったと言う(参考)。

② 夏王朝の時代的な背景(宝貝と玉文化、参考)

縄文後期は温暖期だったので、湖北省の稲作民が華北に北上した。この時期の華北の遺跡から発掘された温帯ジャポニカの痕跡が、その事実を示している。この時期の中国の著名な遺跡には、山西省の汾河流域の陶寺遺跡(BC2300~BC2000頃)、夏王朝期の遺跡だった洛陽盆地の二里頭遺跡(BC1800~1600年頃)がある。

縄文後期後半に温暖期が終了すると、華北から稲作民が南下し、アワ栽培者の殷王朝(BC16世紀~BC11世紀)が生まれ、その前期の鄭州時代(二里岡遺跡)の遺跡と、後期の安陽時代(殷墟)の遺跡が発掘されている。殷代に寒冷化が進んで華北に稲作民がいなくなると、殷は黄河南岸の鄭州からアワ栽培の中心地だった安陽に遷都したと考えられる。 

寒冷化してアワ栽培地に北上したのは、寒冷化すると降雨が増え、黄河以南の温暖な地域の森林化が進んだから、石器の農具しか持たなかったアワ栽培民は森林の脅威に負け、乾燥した北部にアワ栽培地が移動したからだと考えられる。その観点で言えば、安陽はアワ栽培地の南限に近く、最も生産性が高い地域だったと推測される。 

コメは森林地域での栽培が可能だったのは、単位面積当たりの収量が多いから広大な森林を開墾する必要がなく、湿田では連作も可能だった上に、アワ栽培民より豊かだった稲作民は、一足早く青銅器時代を迎えていたからだと考えられる。稲作民の豊かさが交易活動を活発化させていたから、森林を開墾するための磨製石斧などが流通していた可能性もある。

その様な事情から殷代の中国では、アワ栽培地と稲作地の中間地にある淮河流域は、石器の素材が得られない広大な沖積地だったから、稲作民とアワ栽培民を隔てる広大な森林に覆われていたと考えられる。

③-1 夏王朝の実在(wikiより)

従来、史書に記された夏の実在性を確実に示す考古学上の発見が無く、伝説上の王朝とされてきた。

しかし、宮殿を持つ都市文化である河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、殷の建国(二里岡文化)に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばした殷はこの二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。したがってこの二里頭文化が、史書のいう夏の時代に相当することになる。

しかし二里頭の都市文化は、文字の出土資料もなく、後世の概念である王朝・国家の性格を持っていたのかも不明である。考古学的に「『夏』と後世に呼ばれた政権が実在した事」が証明された事と、史書のいう「『夏王朝』が実在した事」を混同してはならない。

現代の中国史・考古学学界では夏王朝が実在したものと見なされている。
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この陶寺遺跡で世界最古の天文台遺跡が発見されています。約4000年前に造られたと見られています。
天文台は直径約40mの土で固めた半円形で中心には高さ4mの計13本の石柱が立てられており、直径約60mの外円が取り囲んでいます。
日の出の方角を観察しながら季節の移り変わりを理解するのに使ったと見られます。
この遺跡で、中国社会科学院考古研究所が、1年半にわたって模擬天文観察をおこなったところ、中国で現在も広く使われている旧暦と2日の誤差しかなかったそうです。
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世界最古の山西気象台発掘作業、年末終了
2004年 10月 11日9:05 / 提供:
 山西省襄汾県陶寺遺跡にある気象台の考古発掘作業が進行中、年末まで全面的に終え、展示される。

 中国社会科学院考古研究所の考古専門家4人と一部の天文学者は同気象台が西暦紀元前2100年の原始社会末期に建設されており、定評のある英国巨石陣気象台より500年早く、これまで世界最古の気象台だと評価した。

 03年、考古学者は陶寺城遺跡を発掘した際、陶寺早期城跡、宮殿区および中核建築区北部出入口、早期墓地、祭祀区土台といった重要な遺跡を確認した。陶寺文化中期に使用され、晩期に消えた建築は「ヨウ典」で記載されていた気象観測記録を実証、中国古代気象観測の考古依拠を4100年前に遡及。気象台建築は古代首都建築の必要な建築要素で、同発見は陶寺城跡の性質調査に重大な意義がある。

 考古専門家によると、同気象台は円形、04年5月に東部の半分を発掘、季節などの原因で発掘作業に休止符を打った。同気象台は3階段の土台構造からなり、経緯測定器を円心とし、裏から外へ半径はそれぞれ18メートル、24メートルと50メートル。第1輪内は土台11ヶ所、団扇のかたちで排列、石柱は長さ90センチメートル、幅70センチメートル、石柱間の距離は15~20センチメートル。

 また、土台の上、以前は石柱11本が立ち、石柱高さ約5メートル。古代人は石柱間のすきまから太陽と周囲の山の切線を観測、当時の節気を確定。専門家らは実地摸擬観測を行い、現在の旧暦時間と比較し、古代の節気精確性がきわめて高いという定評を下した

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中原に並立する二里頭時代の諸文化(張立東による説)
二里頭文化が「夏」、?河型文化が「殷」、
そして輝衛文化が「韋」族に属していると結論づけている。

二里頭出土の土器(1?9前期:10から8後期)
 本書には、古代中国をめぐる歴史考古学が、その後さらに時代をさかのぼって堯の都として陶寺遺跡を掘り当てたこと、夏王朝の開始を紀元前2070年に、夏から殷への王朝交替を紀元前1600年と断代したこと、二里頭文化や二里岡文化から発掘された青銅器がどのように解読されていったかということなどを、それなりに詳しく述べている。

 また本書は2003年の刊行だったのだが、2007年に講談社の学術文庫に入ったときは「補論」が加わって、次のような解説が提供された。
 夏王朝をめぐっては日本の学界はなかなか実在を認めなかったのが、宮本一夫の『中国の歴史』第1巻(1450夜)が「二里頭文化=夏王朝」を結論づけて以来、しだいに事情が変わってきた。しかし、実在を決定的にするのは文字による証拠が必要なのだろうが、いまのところは甲骨文字は殷代後期の武丁以降のことで、仮にその前の二里岡文化の文字が見つかったとしても、夏王朝時代の文字はない。それゆえ文字解読型の学者にとっては、夏はいまでも“永遠の幻の王朝”なのである。
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河南省鄭州市の青台遺跡から出土した土器。(資料写真、鄭州=新華社配信/鄭州市文物局提供)

【新華社鄭州6月26日】中国河南省鄭州市の青台遺跡で見つかった「北斗九星」を模した遺構が5千年以上前の仰韶(ぎょうしょう)文化中期の天文遺構だったことが20日、専門家により確認された。中国の天体観測による時間計測の歴史は、これまで考えられていたよりも千年近く遡ることになる。

同市文物考古研究院と北京師範大学が鄭州市で20日に共同主催した「青台遺跡天文遺構専門家鑑定研究会」には、中国科学院の国家天文台と自然科学史研究所、中国社会科学院、故宮博物院などの天文学や天文学史、考古学の専門家30人余りが出席した。

現地調査と討議の結果、専門家は「北斗九星」の形に配置された九つの土器のかめの大きさと、実際の天体の明るさが基本的に一致していることから、これらは天文遺構に違いないとの認識で一致した。
「北斗九星」と周囲の祭祀遺構による全体構成は、北斗星の柄の部分が指す方向「斗建」と冬至に天を祭る儀式「冬至祭天」に関する中国古代の文献上の記載と一致しており、中国の初期天文学や中華文明の起源を研究する上で重要な意義を持つ。

専門家は、中国古代の文献には「北斗」を「七星」とする説と「九星」とする説があり、「北斗七星」を基本に二つの星を加えて「北斗九星」の説が生まれたと指摘。「北斗九星」遺構の発見は、かつて青台に暮らした人々が既に一定の天文知識を持ち、北斗星への崇拝が一つの盛大な儀式へと発展し、季節の変化を観察し、豊作を祈願していたとの見方を示した。

鄭州市文物考古研究院の顧万発(こ・ばんはつ)院長によると、青台遺跡は仰韶文化の時代の大型環濠集落で、これまでに三重の環濠が見つかっている。総面積は31万平方メートル。遺跡からは「北斗九星」の形に配置された九つの土器のかめが出土し、北斗星の柄の部分は北を指していた。九星の東側には黄土の円丘があり、周囲には同時期の甕(かめ)棺や各時代の墓葬、臼などの遺物、祭祀坑などが分布していた。

山西省臨汾市襄汾(じょうふん)県の陶寺遺跡で見つかった約4200年前の天文遺構は、中国の先史時代の天文暦法の研究においてここ数年で最も重要な発見だったが、青台遺跡の天文遺構の発見はこれらの研究のさらなる突破口となった。専門家は、青台遺跡の「北斗九星」祭祀遺構には考古学的な文化と地層との間に明確な関係性があり、中国古代の北斗星の観測と北斗星による時間計測が非常に正確だったことを示していると指摘している。(記者/桂娟、李文哲)


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『黄帝と堯帝は実在した ―その遺跡と伝説』
渡辺義一郎編著 出版されました!!

CAアーカイブ出版 電子ブック226㌻ 1,342円      

【紙本】A5変形版 224㌻ 2,180円

 黄帝(こうてい)も堯帝(ぎょうてい)も古代中国の伝説の皇帝といわれてきた。三皇五帝(さんこうごてい)という言葉があるが、これは中国最古の神話伝説の時代に8人の帝王を現わした言い方である。誰が最初の帝王だったかは諸説がある。黄帝は三皇の中の3番目で、五帝の中の1番目とか3番目といわれている。堯帝は中国で4番目の皇帝という説が多く、2番目とか5番目という説もある。

 黄帝は4600年以上も昔の人といわれる。そして古中華民族連盟の首領である。堯帝は、約4千年前の人で古唐国(今の山西省臨汾市)の人。中国上古時代の集落連盟の首領で後に皇帝となる。

 本書はこの黄帝と堯帝について最新の情報を紹介するものである。黄帝は伝説の人と考えられていたが、陝西省北部で大きな遺跡が発見され、それが黄帝とその一族に関連したものであることが判ってきた。しかもその民族は北方にいた“狄・てき”につながることも見えだした。

 黄帝とその一族の活動していた時代は4千年以上も前であるが、出土文物を見るとその文化はかなり質の高いものであり、石造りの高度な城を築いていた。当然、近隣諸国(大集落)との交流があり、そこにはシルクロードならぬ最早の“北域道”や“西域道”ができていたのである。

 堯帝についても同じことがいえ、その最初に封じられた領地であった陶寺遺跡からは、甲骨文字以前の文字が発見され、また天文観測遺跡が発掘され冬至、夏至を見定め、暦を作っていたであろうことが分かってきた。

 この文化はまたほぼ同時に進行していた黄帝とその一族の文化とともに、中国最古の王朝である夏(か)につながっていったといわれている。

 黄帝も堯帝も伝説だけでなく、古典籍の中に多くの記述と関連資料があり、また伝説も多い。そして黄帝に関わる陝西省の石?(シーマオ)遺跡と、堯帝ゆかりの地といわれる山西省陶寺遺跡が発掘されている。

 本書では、古典籍と伝説と遺跡の三つの情報を紹介しながら、黄帝と堯帝という伝説の二人の皇帝の時代が、実在したことを多くの資料によって解き明かすものである。


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2015年06月26日
 中国社会科学院はこのほど北京国務院プレスセンターで、山西省臨汾市襄汾県・陶寺遺跡の発掘成果に関する記者会見を開き、発掘調査の重大な収穫を発表した。中国社会科学院考古研究所の王巍所長は、「陶寺遺跡は『堯の都』であったと推定される。堯舜時代はもはや伝説ではなく、確実な史実によって証明された」と述べた。央広網が伝えた。

 40年弱に渡る陶寺遺跡の発掘調査と研究により、この遺跡が中国の紀元前で機能が最も整った都であったことが明らかになった。この都は、王宮と外郭、下層の貴族居住区、倉庫、王族の墓地(王陵)、天文観測・祭祀用の壇、手工業に用いられる作業部屋、庶民居住区によって構成されていた。建設・使用の時代は、今から4000?4300年前。王族墓地に副葬されていた鼓、銅の鈴、漆器などの礼楽に用いられるものは、最古の礼楽制度の形成を証明している。天文観測・時報・祭天を一体化していたと見られる壇は、天文学界から世界最古の同類の建築物とされている。偏壺に刻まれている文字はまだ特定されていないが、圧倒的多数の学者は現在までに発見されているうち最古の漢字と判断している。貴族の墓から出土した多くの玉石戉は、王権が同遺跡の社会で主導的な地位を占めていたことを示す。ごく少数の王墓と多数の平民の墓、貴族および平民の住宅の規模、敷地の処理技術と位置の上下の差は、同遺跡の社会にピラミッド型の身分関係があったことを示している。一部の学者は、これを階級制の現れとしている。
 王所長はまた、「一連の考古調査の証拠によると、同遺跡の年代、地理的位置、中身、規模、等級、同遺跡が示す文明の程度は、堯の都と一致する。現在は判断が下せる段階ではないが、堯の都は発掘調査と研究により伝説の時代から抜け出し、確実な史実に変わろうとしている」と話した。


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