金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

仰韶文化の雑穀栽培


「黄河中流域」の全域で紀元前5000年~前3000年頃に雑穀栽培の『畑作文明』の「仰韶文化」が発展したといわれています。
雑穀栽培を適切に進めるためには、太陽暦が欠かせない技術だと考える。
当時縄文人は、既に縄文早期 7000年前には、二至二分の暦を開発していたと考えるので、仰韶文化が発展できたとするならば、この二至二分の太陽暦を導入していたものだろう。
可能性としては、縄文人の得意とするのは雑穀栽培で、縄文人の雑穀栽培がチャイナに伝来して、同時に二至二分の太陽暦が同伴して伝来していたのだろうか。

また、土器には縄紋の模様も付いていたようですから、縄紋土器制作の技術も伝来していたのだろう。

写真はお借りしました

引用ーーーーーー

<廟底溝類型>…B.C.3600~B.C.3000
 半坡類型・史家類型の発展したもので、仰韶文化の最も繁栄した時期にあたります。関中・晋南・豫西を中心に、北は河套、南は江漢北部、西は隝河、東は鄭州付近に分布しています。
 廟底溝遺址は、河南省陝県東南の廟底村西で発見され、1956~1957年、黄河水庫考古隊安志敏が、面積約24万㎡を発掘しました。そして、黄河中流域の新石器時代仰韶文化廟底溝類型と早期龍山文化の遺址が発見され、仰韶文化から龍山文化への過度期(中国科学院考古研究所『廟底溝与三里橋』1959 科学出版社)にあたります。
 房子2座、窖穴168个、墓葬1座が発見されました。房屋は方形竪穴式で約40㎡です。入り口は南向きで斜めの門道があります。墻壁・地面に草と泥を混ぜた紅焼土が塗られていました。
 土器の9 割が紅陶で縄紋・綫紋・彩紋が見られます。彩紋は、抽象的な蛙紋・円点・曲綫・渦紋・孤綫・三角渦紋・方格紋です。
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<半坡類型>
 宝鶏市区金陵河西岸で北首嶺遺址が発見されました。面積は6 万㎡。1958~1960と、1977~1978年に、中国社会科学院考古研究所が7 回にわたって発掘し、3つの層の文化が出土しました。
 早期は、北首嶺下層文化(B.C.5150~B.C.5020)で、老官台文化晩期から仰韶文化早期(半坡類型)の過度期の文化です。土器は、紅陶・紅褐陶が主で、肉は比較的薄く、縄文があります。灰坑・陶窰1 座が発見されました。また、同一の長方形浅竪穴の墓葬7座も見つかり、1座は男女5人の合葬墓で、仰身直肢で二次葬を兼ねていました。そして、南海産の紅・黄色顔料、東海の榧螺が出土しました。
引用ーーーーーー

「黄河中流域」の全域で紀元前5000年~前3000年頃に雑穀栽培の『畑作文明』の「仰韶文化」が発展した。
++++そうなのか これは縄文人に近いのか
  可能性としては、縄文人の雑穀栽培がチャイナに伝来して、同時に二至二分の太陽暦  がもたらされていたのだろうか。

この「仰韶文化」の遺跡人骨からY染色体ハプログループ「N」が検出され、「仰韶文化」を担ったY染色体ハプログループ人集団は現在、中国大陸に一部残留しているがユーラシア北部、更にはシベリアを横断して北欧まで展開している「N」系統である。“所謂、「漢民族」”のY染色体ハプログループ「O2a2c1 M134(旧O3a3c)」人集団ではない。
++++そうなのか これは三内丸山遺跡を中心の縄文人に関係している遺伝子
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「仰韶文化」は、紀元前3100年頃に「黄河上流域」の「馬家窯文化」、紀元前2700年頃に「黄河中流域」の「河南龍山文化」や紀元前2300年頃に「陝西龍山文化」や「山西龍山文化」へ継承されて行った。
++++そうなのか
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「黄河文明 - Wikipedia」によれば、
中原龍山文化は「陝西龍山文化・晋南予西龍山文化・河南龍山文化」に分かれる、とある。他にもバリエーションがあるようだ。

さらに陝西龍山文化の中に「客省庄(客省荘)二期(西安、渭河流域)」文化や「陶寺(山西省西部)」文化が、
河南龍山文化には「後崗(後岡)二期(河南省北部安陽市)」文化と「王湾三期(河南省西部洛陽市)」文化がある。

これらの細分化された文化の土器(中国では陶器と呼ぶ)を見るとその種類に大きな差異(類型)があり、生活様式の差異も大きいようだ。これらの文化は仰韶文化から発展した文化で、龍山文化の影響は陶寺文化を除けば表面的なもののようだ。
++++そうなのか  龍山文化から陶寺遺跡文化に繋がるのか

結局のところ、「中原龍山文化」という呼称は、中原(黄河中流域)における(本家の)山東龍山文化に併行する時代(龍山文化期、龍山時代)の文化群の総称だという意味しかない、と思われる。


元々は南の長江下流では大規模な稲作と玉を使った神権政治で栄えた良渚文化と
北では山西省の山岳地帯に世界最古の天文台を持ち暦にそって農業を発展させ、祭事で民を治めていた龍山文化後期の陶寺文化があった。

しかし紀元前3000年から2000年にかけて世界的に大きな気候変動が起こった。
++++そうなのか 縄文後期の初め頃

内陸部では乾燥、低温化が進んで飢餓が起き、民衆の反乱が勃発し、南部、沿岸部では季節風の異常による大雨と洪水によって河川流域の集落は壊滅。

隆盛を極めた二つの文化圏は一気に衰えていった。


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