金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

国立天文台など へのメール

杉本博司 氏へのメール

Eテレ日曜美術館での「江之浦測候所」の日の出を見ました。
5000年後に廃虚となったときにこの作品は完成するというようなことを言われていた。
縄文時代から残ってきた金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設は既に4500年ほど過ぎていて、現代の太陽暦と変わらない二十四節気の暦を正確に観測し続けている。
この遺跡はこれからも「江之浦測候所」と同じ時を過ごして、縄文時代の文明の開始からの時を刻んで、9500年の歴史を示すかも知れないものと思う。もしそれ以前に人類が滅びなければということなのであるが。

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杉本博司 様
突然のメールで失礼します。
 当方は一昨年以来、山梨県北杜市の縄文遺跡 金生遺跡に於いて、太陽暦の存在を確認したと考えています。
それは金生遺跡の大配石で太陽暦が観測されていたことが、現代にも正確に現代の太陽暦を観測できることが分りました。
人間の文明の開始は太陽観測により始まったとお話されていました。この遺跡は4500年ほど前のものであり、まさにそれを示すものです。
江浦測候所は5000年後に残るものと話されていましたが、この遺跡は既にそれに対応するものとして4500年後の現在存在しています。
  観測点は石棒で示されていて、立春、立秋を観測して、配石は冬至の日の出がデザインの基軸とされています。冬至の日の入りもまた石棒で示されています。
北杜市全域が太陽観測天文台であること、金生遺跡は太陽暦観測施設であることが分ってきました。この風景は縄文人の見た風景とほぼ変わらないものと思います。
その事は既に天文考古学会 2022.10.08日の研究会にて発表いたしました。縄文時代の二十四節気の暦の存在です。
また縄文土器には縄文時代早期より波状突起口縁の土器に暦開発の歴史が記載されてきたと考えています。
農耕の開始は縄文時代からで、暦の開発も同時だったと考えます。
ご興味ございましたらブログを参照ください。johmonkinseistar として検索すればご覧いただけます。「金生遺跡を世界遺産にしよう会」そして金生遺跡を世界標準時天文台としよう会 としています。
よろしくお願いします。
配石資料添付します。       

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図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

杉本博司(すぎもと・ひろし)
1948年、東京都生まれ。’74年にニューヨークに移り、翌年から写真家として活動を開始。代表作に『海景』、『劇場』など。2008年建築設計事務所「新素材研究所」を設立。2009年小田原文化財団設立。2009年世界文化賞、2010年秋の紫綬褒章を受章。’13年フランス芸術文化勲章オフィシエを受勲している

構想10年、壮大なアートプロジェクト
小田原と熱海のちょうど中間に位置する神奈川県・江之浦。箱根一帯をぐるりと取り囲む外輪山のひとつ、白銀山に連なる急峻な土地ながら、相模湾から太平洋へと続く壮大な景色が目の前に広がる風光明媚な地域だ。

この江之浦の大自然の中に2017年10月9日「小田原文化財団 江之浦測候所」が完成した。その名から気象観測の研究施設のように想像する人も多いだろう。しかしながら、この江之浦測候所を手掛けたのは、現代美術家として国内のみならず、欧米でも高い評価を得ている杉本博司さん。およそ10年の構想を経て完成に導いた壮大なアートプロジェクトなのだ。


夏至の朝、先端から光が差し込む100メートルギャラリー。大谷石とガラス板で無柱空間をつくり上げた
1万坪を超える広大な敷地に、室町時代の建造物や石づくりの鳥居など、日本各地に点在していた文化遺産を移築するとともに、茶室や庭園などを建設。

さらに、能舞台の寸法を基本とした石舞台や、半円形の古代ローマ劇場を実寸しながら、巨大な光学ガラスを舞台の床板に用いた「光学硝子舞台」、そして趣のある表情をたたえる大谷石を構造壁に用いた長さが100mあるギャラリーなど、創造性あふれる建造物もある。江之浦測候所には、古典と現代の建築様式と文化、思想が交錯するランドスケープが広がっている。


古来の鳥居のかたちを再現した石造鳥居と、千利休の「待庵」を模した茶室「雨聴天(うちょうてん)」
注目すべきは建造物だけではない。杉本さんは、土地全体をひとつの光学装置のようにとらえ、設計を考えている。主要な建物の配置や方角は、刻々と仰角や方位角を変える太陽の動きに合わせ、緻密に計算して決められている。

日の出とともに、光のアートが空間全体を包み込むように考え、冬至は光学硝子舞台の中央から、夏至は「100メートルギャラリー」の先端部から、そして春分と秋分には、茶室から見た石造鳥居の中心に、それぞれ朝陽が現れ、幻想的な情景をつくり出す。


文化財の礎石から地元で採取された石まで、場石の展示もさまざま。写真は硝子舞台の脇にある「亀石」
江之浦測候所は、古来より変わることなく我々を育んできた太陽や海の悠久の営みを改めて見つめ直し、体感するための装置だともいえるだろう。この地に立つことは、自分の意識と対話を促す。原点に立ち返ることで、未来のビジョンがクリアに見えてくるかもしれない。

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「社会が進化し、世の中がどんどん便利になっていく一方で、人間はむしろ退化していっているんじゃないかと思うことがあるんです。忙しい日々の中で、自分と向き合う余裕もないまま時間だけがどんどん過ぎ去っていく。しかしながら、どうやったとしても人間の生命には限りがあるもの。古代の人々のほうが、現代人よりももっと生きる価値を敏感にとらえていたのではないでしょうか」


根底にあるのは、写真の世界。
1970年代に発表した『ジオラマ』シリーズ以来、『海景』、『劇場』、『陰翳礼讃』など、コンスタントに写真作品を発表。多大な功績を残した写真家に贈られるハッセルブラッド国際写真賞を2001年に受賞している 杉本博司『海景』Sea of Japan, Oki 1987 ゼラチン・シルバー・プリント cHiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi
古代人は、自然の脅威と対峙しながら生命をつなぎつつ、自分を律することで宇宙との一体化を目指し、巨大な神殿を築いて死後の世界を神聖化した。古代人が思い描いた生命のビジョンを自身の思想をからめながら再現し、現代人が改めて感性を育み、人生の意味を考える場所をつくりたい。そんな思いがこの場所には込められている。


幾何学的に石を組み合わせた「円形石舞台」。その先の暗闇は、冬至の朝日を眺める隧道(すいどう)
杉本さんの古代人に対する意識、そして小田原という場所には、幼少期の記憶が深く関係している。

「子ども時代に見た、旧東海道を走る湘南電車から見た海の景色が鮮烈に私の脳裏に焼き付いています。熱海から小田原へと向かう列車が、眼鏡トンネルを抜けた瞬間、眼下に広がる大海原。その風景を前に、昔の人は自分と同じ情景を見ながら何を考えていたんだろうとぼんやり思ったのです」


2002年ベネッセアートサイト直島 「家プロジェクト」 のために、「護王神社」 を再建 『護王神社-アプロプリエイト・プロポーション』 cHiroshi Sugimoto / Courtesy of Benesse Art Site Naoshima and Gallery Koyanagi
1948年、東京に生まれた杉本さんは、戦後の復興とともに目まぐるしく変わる都市の姿を心に留めてきた。

「20世紀から21世紀にかけて、特に戦後の産業振興は、人類の歴史を振り返っても特異な現象だと言ってよいでしょう。経済成長の中で、より安定した豊かな生活を求める一方で、自然から多くを収奪してきたことに気づかなくなってしまった。こうした人間の行動&思考パターンが、現代の闇をつくり出している」


「IZU PHOTO MUSEUM」 の内装設計を依頼されたことが端緒となり、’08年に建築家の榊田倫之さんとともに設計事務所、新素材研究所を設立 『IZU PHOTO MUSEUM』 cHiroshi Sugimoto / Courtesy of IZU PHOTO MUSEUM
温暖化をはじめ、地球上で起こるすべての環境問題は、こうした人間の欲望によって生まれたもの。さらに深刻化し、近代以降に築いてきた文化がに帰すような状況に陥ったとき、何が残るのだろうと語る。

「紀元前に創建されたギリシャのアクロポリスやエジプトのピラミッドを見て、現代に生きる私たちがさまざまに思いを馳せるように、いま私たちがつくるものが、この先の時代に生きる人々の思いへとつながる。ならば廃墟になっても美しく、人の心を打つものを創造するミッションが私たちには託されている」


冬至日の到来とともに、オレンジ色の光を放ちながら、ゆっくりと太陽は顔をのぞかせる。遠い日からまったく姿を変えないその光の中に、人は何を見出してきたのだろう。
光学硝子舞台c小田原文化財団/Odawara Art Foundation
何千年もの時を超える石づくりの建物を新たに建設したのは、未来に託した杉本さんなりのメッセージといえる。

自分だけの時間が過ごせるように完全予約&定員制にした江之浦測候所。この地を訪れる人々に対し、杉本さんはどんなことを期待するのだろう。


日本の古美術や伝統芸能にも造詣の深い杉本さんは、浄瑠璃や能の構成や演出、舞台美術なども近年積極的に手掛けている。独自の感性で日本古来の芸術を、現代そして、世界に通じるものへと昇華させていく。
『利休―江之浦』c小田原文化財団/Odawara Art Foundation
「人も建物も密集した都会に住んでいると、広々とした場所で目的をもたず過ごす機会はほとんどないでしょう。ここは、あえて何もやることがない場所です。それでも、自分が好きな場所に腰を下ろし、空にトンビが舞うのを眺め、虫の声や波の音に耳を傾けていると、普段はなにも気に留めていなかった自然のディテールにすっと入り込むことができる。鈍っていた感覚を研ぎ澄まし、大きな生命体の中で自分もともに生きているんだという実感を味わう。環境の微細な変化を全身で感じ取ることで、人が人であり、この世に存在している理由がおのずと見えてくるはずです」

小田原文化財団 江之浦測候所
構想|杉本博司
基本設計・デザイン監修|新素材研究所/杉本博司・榊田倫之・磯崎洋才
住所|神奈川県小田原市江之浦362-1
Tel|0465-42-9170
開館日|木~火曜
休館日|水曜
入館方法|完全予約・入替制
見学時間|4~10月、1日3回/10時・13時・16時(約2時間・定員制)11~3月、1日2回/10時・13時(約2時間・定員制)
入館料|3000円(税別)
※中学生未満来館不可

 

 

以下 初稿 2022.04.30 ーーーーーーーーーーーーーー

国立天文台 へのメール

 

2022.06.01  この度は、 山梨県立科学館へお問い合わせいただき、誠にありがとうございました。

[お問い合わせ項目] 天文・宇宙
[お問い合わせ内容]
昨年金生遺跡での立春の日の出が茅が岳であることが分かり、縄文時代とどれだけ違うか問い合わせています。
金生遺跡の大配石で立春と立秋が石棒で確認でき、現代の太陽暦と一致しました。縄文時代には現代の太陽暦と同じものがあったと判断しています。その確認をお願いしたいのですが。

金生遺跡を世界遺産にしよう会で立秋の日の出観測により、縄文時代の太陽暦を確認しようと計画しています。また世界標準時の原点に金生遺跡を採用したらどうかと考えています。よろしくお願いします。

後ほど担当者よりご連絡をを差上げます。

ご意見・ご不明な点などございましたら、
下記までお気軽にご連絡下さい。
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金生遺跡大配石での立夏の日の出

 

題名 : 農業、文明の原点は太陽暦では無いでしょうか
渡部潤一 様

東京天文台への依頼

以前からご紹介していました金生遺跡に関して、お願いしたいのです。
金生遺跡は現代の太陽暦に一致する立春と立秋を観測できるランドスケープ - 茅が
岳、飯盛山- と大配石による観測点 石棒 を持つことが判明した。
4500年以前になるので、今の所地球文明の太陽暦発祥として良いのでは
農業、一次産業が文明の原点にあり、それを根底から支えているのは太陽暦でしょう。

グリニッジ天文台 1675年にイングランド国王チャールズ2世が設立した王立天文台
世界制覇のために設立されたもので、今や時代にそぐわない。
GMT 世界標準時の基準は金生遺跡の大配石に、
太陽暦は縄文金生暦と変えよう。
日付変更線も金生遺跡としよう。
子午線原点として適切では無いか
以下の観測会を計画しています。
よろしくお願いします。
2022.05.31 

金生遺跡を世界遺産にしよう会

★ 金生遺跡で立秋の日の出を観察しよう 
    縄文時代の太陽暦の存在をみんなで確認しよう会 ★

縄文時代の金生遺跡の大配石での日の出観測では、現代の暦の立春、立夏、立秋、立冬
の日時と一致することが分りました、縄文時代には現代と同じ太陽暦が存在したことが
推定出来るので、立秋の日の出観測して確認しよう会に変更します。

金生遺跡は41年前に発掘されたが、冬至の日の出が山のピークを外した麓にあるとして
注目されなかった。
2020.12.21冬至から金生遺跡の配石遺構で日の出、日の入りの観測を始めました。その
結果 金生遺跡は縄文時代に太陽暦と太陰暦を作るための天文台だろうと考えることに
なりました。
自然景観の山 -東の茅が岳 通称 と西の甲斐駒ヶ岳- をそのまま日の出の観測施設
とするランドスケープを持つ天文台として、縄文時代 4500年前と変らず、現代の太陽
暦と一致する立春、立夏、立秋、立冬の太陽観測の遺跡であると分りました。
これはエジプトの暦やストーンヘンジを越える正確な太陽暦作成の天文観測遺跡である
と思います。
その後、観測点も分かり、縄文時代の観測方法も推測できたことから、大勢の人々が集
まる観測会でも、太陽を直接見ること無く、縄文人と同じように安全に、立秋の日の出
観測を行えることが分かりましたので、日の出観測会を開催できることになりました。

縄文遺跡
 金生遺跡で立秋の日の出を見て、縄文時代の太陽暦の存在を体感しよう会に、興味が
ある方はお集まりください。
日時 2022. 8月07日(日) 午前 4時半頃に遺跡現場に集合してください
   説明は午前 4時45分頃から5時45分 日の出は5時過ぎになります

日の出前の暗い時間での行動となりますので、事前に遺跡周囲の危険箇所の視察をお願
いします。
駐車場は上行寺と龍沢寺、逸見神社などがあります。
この時期 立夏と立秋 は曇りの天候が多いので、観測できないこともございます。そ
の場合日の出位置は変わりますが、翌日にも同様に観察会を行います。
次回は立冬 2022.11.07 です 午前6時15分頃からの予定。

「縄文時代」と「金生遺跡を世界遺産にしよう会」に興味がある方はブログをご覧くだ
さい。
 johmonkinseistar で検索すれば出てきます。
よろしくお願いします。

注釈 ストーンヘンジなど冬至夏至の場合は前後10間同じ位置からの日の出です、立秋
の場合はその一日のみで日の出の位置が変わります。

 

 

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渡部 潤一 様
 大学共同利用機関法人 自然科学研究機構 国立天文台 副台長(総務担当)
 教授、総合研究大学院大学数物科学研究科天文科学専攻教授

昨年は突然のメールで失礼いたしました。
 当方1昨年以来、その後も縄文遺跡 金生遺跡の配石遺構と日の出との関係を観測し
てきました。
その結果、この遺跡では立春日の日の出を観測確定できることが配石遺構で確認できま
した。
今年の立春には、配石の先端に柱を立てると、配石中央付近にある立石 石棒 に日の
出の時の柱の影が正確に当たることが確認できました。
しかも、冬至には同じノーモンの影が扇型の配石の右、北側の端 にあたるものと考え
ることができることも判明しました。
縄文人が意図して配石を扇型にデザイン構成しており、冬至と立春観測をしていたもの
と考えることができるという観測結果です。
このように暦起点となる立春と冬至を観測するための天文台と推定する証拠となる観測
結果を得ることができました。

これまではこの遺跡の位置は茅が岳のピークで立春の日の出を観測するランドスケープ
の位置に立地していて、しかも冬至の日の入りも甲斐駒ヶ岳の峰になるということまで
でした。
しかしその後の調査で、奈良県にありますヤマト発祥とされる、弥生末から古墳初期に
当たる巻向遺跡にある巻向石塚古墳 立春の日の出方位を向いている から見た三輪山
からの立春の日の出を見るというランドスケープに大変良く似ている事が分かりました

金生遺跡では、ランドスケープに加え、扇型の配石のデザインからも縄文人の太陽暦天
文台を作る意思は間違いないと信じます。
それは二至二分、四立、八節の暦の45日の区切りを 45日/3  15日の区分にして

---これは二十四節気の暦になる---、

太陰暦 半年6回の月の満ち欠け 12弦 30日/2 15日1弦 の暦と、朔旦立春の観測によ
り太陽暦と太陰暦とを整合させているものと分りましたので、これは19年ごとのメトン
周期を知っていたものと考えます。

 この事を皮切りにして、縄文人は3、4、6、8、12を聖なる数として太陽暦と太陰暦を
つくって居たものと判断できると思います。
こうした数に関して、縄文人は世界の何処の古代文明でも作っていないような、土器の
縁にその証拠となる突起を作ることでこれらの数を縄文時代早期からの歴史経過と伴に
2,6、4、8、12、3 のような順番で記録して残していたことが分ります。
これらの観測結果はブログに記載して現在公開しております。
 johmonkinsestar として検索していただければ、「金生遺跡を世界遺産にしよう会」
というブログでご覧いただけます。
こうしたことが事実とすれば、これまでの縄文文化の知見も、世界の暦の歴史も塗り替
えられるものと思います。
当方先日先生の著書
「古代文明と星空の謎 」(ちくまプリマー新書) 新書
を拝見いたしましたものですから、ストーンヘンジなどと比べて、縄文時代早期から太
陽観測を中心に据えて、暦を作ることを5000年程の期間、金生遺跡の時期まで継続して
いたことは、縄文時代は古代文明の中でも特別高度な暦の知識を持っていたと考えてよ
いと思います。
専門家でない素人の調査結果なので、専門家の判定をいただきたいものと思い再度ご迷
惑かとは思いますがメールいたしました。
よろしくお願いします。
2022.04.24

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

渡部 潤一(わたなべ じゅんいち) 様
 大学共同利用機関法人 自然科学研究機構 国立天文台 副台長(総務担当)
 教授、総合研究大学院大学数物科学研究科天文科学専攻教授

突然のメールで失礼します。
 当方昨年来、縄文遺跡 金生遺跡の配石遺構の上で太陽観測を行い、この遺跡は縄文
後期の太陽観測天文台と推定するに至りました。
その理由はこの遺跡の位置は茅が岳のピークで立春の日の出を観測する事になっていま
すので、二至二分、四立、八節の暦を作るためと、朔旦立春の観測により太陽暦と太陰
暦とを整合させているものと分りました。
 この事を皮切りにして、縄文人は3、4、6、8、12を聖なる数として太陽暦と太陰暦を
つくって居たものとの判断に至りました。
こうした数に関して、縄文人は世界の何処の古代文明でも作っていないような、土器の
縁にその証拠となる突起を作るということで残していたことが分りました。
これらのことはブログに記載して現在公開しております。
 johmonkinsestar として検索していただければ、「金生遺跡を世界遺産にしよう会」
というブログがご覧いただけます。
これらのことが事実とすればこれまでの縄文文化の知見も世界の暦の歴史も塗り替えら
れるものと思います。
当方先日先生の著書
「古代文明と星空の謎 」(ちくまプリマー新書) 新書
を拝見いたしましたものですから、素人の浅学での調査結果について専門家の判定をい
ただきたいものと思いメールいたしました。
よろしくお願いします。
2021.10.25

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参考文献として拝見しました
暦の科学/片山真人(ベレ出版)

片山真人 様
国立天文台暦計算室長 片山真人 様に、連絡していただけば幸です。

縄文時代の暦の存在を推定できることが分かりました。
山梨県北杜市にある縄文時代の遺跡 金生遺跡はノーモンと配石により、暦存在を推定出来る配石遺構で有ることが分りましたので、お知恵をお借りしたい。配石は冬至と立春、雨水をノーモンにより観測できるように配置されているだろうということが分りました。
また太陽暦と太陰暦の暦の存在を記録して残していると推定しています。縄文中期から後期の土器から、太陽暦と太陰暦が共存していたことも分ることに成ると思います。縄紋土器の記録から現代の暦と同じ状態に有ったものと考えています。
ブログに掲載しています。johmonkinseistar で検索していただけば 金生遺跡を世界遺産にしよう会 としてあります。
2022.03.01


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