金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

6、8 波状突起口縁の土器

突起数
2 は二至 冬至と夏至
4 は二至二分 四立 までは半年一年暦でも解釈できる
8 になると、45日/2 22.5日 となるので半年では意味不明の区分となるので、一年 8 区分の
暦が作られたものと解釈する。その後、1/3のアイデアに達するまで2000年以上掛かったようだ。

6 は月の暦で半年に 6回の満月と新月の周期と考える。
12 となると、半年12弦としても解釈可能
太陽暦の知識からは、一年12月としても良いのかも知れない。
縄文時代の計算力からは半年12弦の暦としていたのだろうと思う。

8と12まででは、まだ太陽暦と太陰暦はシンクロできない

縄文時代中期になり1/3 の計算が可能のレベルとなり
太陽暦に月の暦 太陰暦をシンクロさせることができた。
内陸と海辺の暦の統一ができあがった

これを維持する為には、太陽と月の運動が安定しているという理屈は分っていないはずだと思うので、金生遺跡天文台での毎年の立春観測と、朔旦立春観測が必須となるはず。
毎年立春で月の相を確認して、太陽暦と合わせたのだろう。年号の数え方も月の相からでは無いかと考える。

太陽を回る地球の公転周期と月の相の変化との一致については、縄文文化以外の古代文化では、
メトン周期などとして計算されていたが、端数があり何れ狂いが生じていた。
縄文時代にはそのような計算はせず、金生遺跡の大配石での実観測により10000年でも狂うことの無い暦が作られていたものと考える。


引用ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

他方で、エジプト暦の伝統を持つアレクサンドリアの教会では、ディオクレティアヌス紀元、コプト暦およびメトン周期を用いて季節(太陽年)と月齢(太陰月日)を独自に計算し、春分後最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日とする方法を採用した。季節と月齢を合わせる基準日を設け、そこからメトン周期を用いて太陰年と太陽年の差を修正しながら各年の「ほぼ同じ季節に該当する太陰月日(同じ月齢の日)」を計算していけば、擬似的な太陰太陽暦を編纂するのと実質的に同じことができるからである。この方法をコンプトゥスという。
この方法を実行するためには、メトン周期の知識を理解し、季節と月齢を揃えるための太陽暦上の基準日を定めればよい。幸いなことにユリウス暦は太陽暦である。そしてユダヤ暦ニサン月は春分頃に訪れる太陰月である。当然、基準日は春分ということになる。太陽暦であるユリウス暦では、春分日は毎年ほぼ同じ日になるはずである。この点、ローマ帝国ではカエサルによるユリウス暦施行間もない頃から、春分日をユリウス暦3月25日とする考え方が広まっており[注釈 5]、聖書のユダヤ暦の記述を無視してユリウス暦の同日に復活祭を祝ってしまう教会もあった。しかしすでに4世紀の段階で天文学的な春分日は3月21日頃となっており、アレキサンドリア教会はこの事実を正確に把握していた。そこで、第一次ニケーア公会議では、ユリウス暦の期日を太陽暦上の準拠日としつつ、アレキサンドリア教会によって用いられてきた擬似的な太陰太陽暦の作成手法を用いて、春分日であるユリウス暦3月21日直後の太陰月14日の直後の日曜日[注釈 6]を以て、復活祭期日とすることとした。

このような経緯で決められた復活祭日であったが、このように「キリスト教上の春分日」をユリウス暦上に固定してしまった以上、実際の天文学的春分日とユリウス暦上に定められた春分日すなわち3月21日との差は、年を追うごとに蓄積されていき、これが直ちに復活祭の期日の不正確さに直結することとなった。ユリウス暦のほうが太陽年より長いため、ユリウス暦3月21日は天文学的春分日より1日単位で徐々に遅れていく。ところが復活祭の期日は太陰月日(月齢)に準拠する方法で定められたため、差異が1太陰月(朔望月)分に増幅されてしまい、復活祭がまるまる1か月遅れるケースが徐々に増えていく。イングランドの教会博士であったベーダ・ヴェネラビリスは、725年にはユリウス暦にはずれがあり、それはすでに3日間以上になっていること、またさらにこのずれは今後拡大するだろう、と指摘している[2]。さらに問題だったのは、メトン周期の側も、わずかに朔望月(太陰月)とずれていることで、このため310年ごとに1日の誤差が蓄積されていた。13世紀のロジャー・ベーコンは、ずれは7日間から8日間に及んでいると推定し、ダンテ・アリギエーリもユリウス暦の改定の必要性を説いている。

16世紀後半には、上述のようにユリウス暦上で定めた3月21日の春分日は、実際の春分日から10日間弱ものものずれが生じていた。このため、ローマ・カトリック教会は、改暦委員会に暦法改正を委託した。この改暦は対抗宗教改革の一環としてなされたものであって、改暦に関しては賛成・反対の立場から大きな論争となった。
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暦法
[202]支那の上古の暦法は不明ですが、 堯のとき季節の循環期を366日とし、 閏月を置いて暦日と季節を一致させたことが尚書堯典からわかります。 >>201

[44]夏は建寅、 殷は建丑、 周は建子、 秦は建亥の各月を歳首としました。 >>201三正

[214]三統暦の前までは閏年の最後の月を閏月とし、 後9月としていました。 >>201(秦正では9月が年末でした。)

[212]三統暦は、 235太陰月 = 19年 = 1章とし (章法 = メトン法)、 1月 = 29
4381日としました。 >>201

[213]月の大小と閏月は 1539年 = 1統で循環しました。 日干支は3統 = 1元で循環しました。 >>201

[215]三統暦ではじめて中気のない月を閏月とする置閏法が採用されました。 >>201

[216]四分暦は、 基本的に史記にある司馬僊らの太初暦と同じでした。 >>201太初暦, 四分暦

[208]章法を使うのは三統?と同じでしたが、 1年 = 365
14日とし、 月の大小と閏月は 4章 = 76年 = 1蔀で循環しました。 日干支は80章で循環しました (1520年紀法)。 >>201
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7 太陰太陽暦と農業  (pp. 112-114)
 月の満ち欠けにも、季節の変化にも、等しく配慮をはらったこよみが太陰太陽暦である。顕著な周期である月の朔望を尊重し、かつまた、農業などを行ううえから季節を無視することのできなかった地方に、必然的に発達したこよみである。
 したがって、太陰太陽暦は、世界の各地で独立に発生している。すなわち、バビロニアで、インドで、中国で。そして、それぞれ似たような発達をとげている。太陽暦のもとを作ったエジプト暦にしても、一ヵ月を三〇日にしていたから、初期には何らかの形の太陰太陽暦であったと思われるし、また、ローマも古くは太陰太陽暦を用いた時代があったことは前にのべた。
 
置閏法  チグリス、ユーフラテスの両河のほとりに栄えたメソポタミア文明の中でも代表的なバビロニアは、西暦紀元前三〇〇〇年ごろに、現在も用いられている星座の原形を作った民族の建てた国であるが、古くから太陰太陽暦を発達させていた。そして、
西暦紀元前八世紀には、一九年に七回のうるう月を置く「置閏法[ちじゅんほう]」を発見していた。
++++そうなのか 太陽の運行を基礎にしないもの

メトン周期と一九年七閏の法  ギリシアでは、はじめ、八年に三回のうるう月を置く方法が行われていたが、西暦紀元前五世紀の天文学者メトンのときに、一九年に七回のうるう月を置く方法が採用された。一九年は、太陽年のはじまりと、朔望月のはじまりが、かなり正確に一致する周期で、メトンの名をとって「メトン周期」とよばれる。
 中国でもこのことは知られていて、一九年のことを「章」とよび、「一九年七閏」の法と称して、西洋と同じく一九年に七回のうるう月を置くことが、西暦紀元前五世紀ごろから行われた。
 一朔望月は二九・五三〇五八九日であるから、二九日と三〇日の一ヵ月を適当に置き、一日が朔とあまりズレないようにしていくことは、太陰太陽暦でも第一の問題点である。しかし、太陰太陽暦の、同様に重要な問題点は、季節と調和させることである。
 一年を一二ヵ月とすると、三五四日ないし三五五日となり、一太陽年に一一日ほど足りない。ほうっておくと、月[マンス]と季節がどんどんズレてイスラム暦のようになる。そこで、ときどき「うるう月」なるものを入れて、一三ヵ月の年を作り、季節と合わせる。これが、一般的な太陰太陽暦の暦法である。
 問題はこれをどのように入れるかだが、八年に三回置く方法では、この間の月数が九九ヵ月、平均日数が二九二三・五日であり、一方、八太陽年は二九二一・九日であるから、一・六日多すぎる。つまり、八年につき、一・六日ずつ季節が早くなる。

 中国で行われた一九年七閏の法では、一九年間の月数が二三五ヵ月で、平均日数は六九三九・六九日、一方、一九太陽年は六九三九・六〇日であるから、一九年間で、わずかに〇・〇九日多すぎるだけである。約二二〇年で一日季節が早くなるだけだから、非常に正確ではあるが、これで決して満足してはいなかった。
 朔のズレない、季節のズレない、そして天文現象をよく予報できる、さらに精密な暦法が、中国数千年の歴史を通じて求め続けられた。そして、その努力は、太陰太陽暦を中国から輸入したわが国でも、同様に行われた。他の国では、それほど精密な太陰太陽暦を、もとうとはしなかったようである。おそらく、月と季節とがズレてくれば、その都度、適当にうるう月を入れて調節したのであろう。あるいは、そんな季節とのズレが目立つ前に、国が亡びてしまったという場合もあろう。

 8 旧暦のしくみ
 (pp. 114-116)
 太陽にも太陰にも忠実であろうとする太陰太陽暦が、複雑な構造になるのは当然である。これを解決しようとして古来、太陰太陽暦には無数の暦法が考案された。
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甲骨文・金文や詩経などによると殷・周の時代は日・月や星、植物の生長などを観察して日付を決めていた。これを観象授時暦という。月の初めの日は新月の日(朔日)ではなく、月が見え始める二日月・三日月などの日を当てた。この日を朏(ひ)日という。年始はノーモンの観察などにより、冬至頃に設定された。

このような素朴な暦法は春秋戦国時代になって、大きく発展した。二十四節気が導入され、また閏月の設定にメトン周期が用いられ月初めも朔日の計算によって決定された。

戦国時代の各国で独自の四分暦が造られ、これらを戦国四分暦という。この頃、年始について三正(夏正・殷正・周正)という考え方が生まれた。夏暦・殷暦・周暦というものがあったとされ夏暦では年始が冬至の2月後、殷暦では冬至の1月後(つまり夏暦の12月)、周暦では冬至の月(夏暦の11月)とし正月が王朝交替ごとに変更され、夏正→殷正→周正→夏正→…と循環されてきたとした。

これを受けて周に次ぐ王朝をめざす戦国各国はほとんどが夏正を採用していたが、秦の??暦のように10月を年始とする暦もあった(ただし、正月・2月・3月といった月の配列は夏暦に従っていた)。秦の中国統一により??暦の10月歳首が採用されたが、漢の太初暦改暦以降、夏正が採用され、現在の旧正月もこれを踏襲している。

前漢では秦の??暦を踏襲して使っていたが武帝の時に改暦を行い、太初暦が作られた。その後、太初暦は成帝の時に劉?によって天体暦としての性格の強い三統暦として補修された。三統暦は、その後の中国暦の枠組みをつくった。


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