忠臣蔵などばかばかしい、大嫌いだと日頃から言ってるにもかかわらず自分はこのブログで何回か取りあげている(笑)。

今回も忠臣蔵についてひとクサリ。

時は18世紀初頭の元禄年間(将軍綱吉の時代)、長年吉良に小姑のようにいじめ、因縁を受けていた赤穂藩主浅野内匠頭が江戸城松の廊下で癇癪を起し、吉良氏を小刀で額に切りつけ刃傷沙汰を起し、浅野は将軍綱吉の裁定により即日切腹、その後、赤穂藩取り潰し(領地没収、家名断絶)、約2年後、筆頭家老、大石内蔵助以下、47人の赤穂義士たちが吉良邸に討ち入り、吉良の首を打ち取る、というのが簡単な忠臣蔵のあらすじである。

何度か書いてることだが、裁定に対して異を唱えるならば幕府に対して抗議を示さなければならない。確かに、幕府といえば指の先をも触れることのできない雲の上の存在だったかもしれない。幕府という絶対権力への忖度もあったかもしれない。しかしながら、裁定した幕府側(将軍綱吉、側用人柳沢吉保など)でさえ、後々になって一方的な裁定に対し揺らいでいるところがあり(江戸城内という神聖な場所を刃傷沙汰で汚され、しかも当日は朝廷関係者が将軍に年賀の答礼を行う儀式の最終日であったことも重なり、綱吉はカーッと頭に血が上り早急な裁定を下したと言われている)、裁定の見直しという抗議はいくらでもできた余地はあったはずである。

まず、江戸城内の刃傷沙汰はタブー中のタブーであるということを忘れてはならない。言い換えれば、江戸城という神聖なる場所で誰かに対し刃を抜いて向けるということが如何に常軌を逸した御法度なことかということである。当時の武士は明確な意図を持って相手に対して刀を抜いていた(逆に言えば、刀を抜くということは明確な意図を示していた)。たとえ主たる刀ならず小刀でもである。

よく言われることだが、浅野は何らかの精神疾患だったようである。十分な殺傷能力のある小刀を持って吉良の額を一撃、吉良が逃げ惑っているところにさらに追い打ちをかけたが、その場にいた者に取り押さえられている。ただの殺人未遂である。

しかるに、前代未聞の刃傷沙汰を起されて幕府が一方的で早急な裁定を下してしまっても無理はないことと言える。ただ、そのことを抜きにしても、浅野の切腹は当然である。問題となっているのは、吉良に対する処遇である。吉良はことによれば殺されていたかもしれない被害者なのである。ここで持ち出されるのが「喧嘩両成敗」である。「浅野(赤穂)側は即日切腹、お家取り潰し、吉良は一切のおとがめなし、とはどういうことか。赤穂側にはあまりにも理不尽なアンフェアな裁きではないのか」というやつである。

そもそも、浅野と吉良では位が違う。吉良は高家筆頭格であり、浅野は、いってみれば一般大名なのである。武家も序列社会の典型、長く官職につき、位の高いほうを優遇するのはあたりまえなのである。今風の言葉で言えば、幕府なりの“忖度”というやつである。また、吉良は朝廷との儀式を取り持つ官職にあり、刃傷事件の当日も浅野の指南役に当たっていた。それ以前にも、吉良と浅野はいわゆる上司と部下の関係で、浅からぬ因縁があったようである。吉良が小姑のように度々浅野をいじめていただとか、浅野が吉良に対して払う指南関係の上納金を正当な額で払わなかった、など様々な評判が飛び交っている。だから、「喧嘩両成敗なのですよ」ということなのだが、上記の序列の優遇、忖度があるのだから額面通り、喧嘩両成敗とはならないのである。浅野内匠頭にも、大石内蔵助にも「現実を見よ!」ということなのである。

加えて私が思うのは、やったらやられる、斬ったら斬られるという武家社会の殺伐とした暗黙の了解が言われるほどまかり通っていたか?ということである。赤穂事件が起こった当時は五代将軍綱吉の時代(18世紀初頭)。三代将軍家光まで続いた武断政治は四代将軍家綱の代の文治政治への過渡期を経てようやく綱吉の時代で文治政治が確立した時代である。幕府自らの文治主義に準じ、仕える大名たちにもその思想は浸透していた。お家同士の因縁で、刀を持って断つというある意味古く乱暴な暗黙の了解は反社会的なこととしてもはやタブー視されつつあったことは想像に難くない。

かくして松の廊下事件から約2年たった寒い日のまだ暗い早朝、大石率いる四十七人の“義士”たちは吉良邸に討ち入るのである。

 

 

 

 

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