主人公は作家の才能のある才媛、信子という女性である(文中ではプロの作家なのか、ただ趣味感覚でやっているのか、にわかにはわからないのだが)。心情の折々に、場面展開の折々に「秋」というキーワードが出てくる。季節の移り変わりの描写は純文学の定番である。心情をドラマティックに描く土台として。こう書くのは、天下の芥川龍之介に対しておこがましい。

この小説評は、このブログを閲覧されている方がこの小説をすでに読んでいるという前提で書く。とした上で、主に登場人物の心情を垣間見ることができる部分に対する自分の解釈を書いていく。

また、文を言葉を額面通り受け止めるのは馬鹿なことなのは言うまでもない。

小説は四章から成り立っている。

一章における信子の心情を垣間見ることができる印象的な部分は以下の部分だ。「信子はこの少女らしい手紙を讀む毎に必涙が滲んで来た。殊に中央停車場から汽車に乗ろうとする間際、そっとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思い出すと何とも云はれずにいぢらしかった。が、彼女の結婚は果たして妹の想像通り、全然犠牲的なそれであろうか。さう疑を挟むことは、涙の後の彼女の心へ重苦しい気持ちを拡げ勝ちであった。」次の一節も。「信子はこの重苦しさを避ける為に大抵はじっと快い感傷の中に浸っていた。」

ど真ん中のシスター展開の中、信子は、姉としての犠牲を感じながらも、姉としての絶対的優位性と優越感で愉悦の中にいると解釈する。それは、「大抵はじっと快い感傷の中に浸っていた」の部分で分かる。重苦しさを感じながらもだ。これが美学である。

二章は信子の結婚後三月程の生活の様子を描く。

「信子は汽車電車へ乗る度に何處でも飲食することを憚らない関西人が卑しく見えた。それだけおとなしい夫の態度が格段に上品なのを嬉しく感じた。」「殊に夏の休暇中、舞子まで足を延ばした時には、同じ茶屋に居合わせた夫の同僚たちに比べて見て一層誇りがましいやうな心もちがせずにはいられなかった。」この部分から、信子の結婚生活が、夫がまんざらでもないことを匂わせることができ、一章の部分、「が、彼女の結婚は果たして妹の想像通り、全然犠牲的なそれであろうか。」にも翻って行く。どこの家にもあるように、この2人にもイザコザがある。小説ばかり書いている彼女に不満をこぼす彼。イザコザの原因は大抵信子の小説執筆のことである。小説執筆が妻のつとめをおざなりにしていると彼は言う。「『今夜は僕が帰らなかったから、余っ程小説が捗取ったろう。』さう云ふ言葉が、何度となく女のような口から出た。」

例のタイトルの「秋」というキーワードはこの二章でいくつか出てくる。夫が誇らしく思える当初の新婚生活から、信子が長い間、捨ててあった創作を思い出し、夫の留守の間だけ執筆活動を再開した時から上記のイザコザが起きるのだが、その雲行きが怪しくなる様子へと展開するトリガーとなるのが秋の訪れである。「所が残暑が初秋へ振り変わろうとする時分、夫は或日會社の出がけに、汗じみた襟を取変えようとした。~(中略)~さうしてズボン吊を掛けながら、『小説ばかり書いていちゃ困る。』と何時になく嫌味を云った。」

夫とのイザコザの後、また仲直りを繰り返すという結婚生活の中で、「秋」はまた象徴的な季語となる。「が、それも亦翌日になると、自然と仲直りが出来上っていた。そんな事が何度か繰り返される内に、だんだん秋が深くなって来た。」

その後、信子は執筆のペンを執ることが稀になっていく。その頃から信子は月々の雑誌に従兄の名前を見るようになっていく。彼の小説が雑誌の載っているのを見て懐かしく感じている。ここの場面で印象的であり、小説上、示唆的であるのは次の部分だ。「彼女はその頁をはぐりながら、何度も独り微笑を洩らした。俊吉はやはり小説の中でも、冷淡と諧謔との二つの武器を宮本武蔵のやうに使っていた。彼女にはしかし気のせいか、その軽快な皮肉の後に、何か今までの従兄にはない、寂しさうな捨鉢の調子が潜んでいるように思はれた。と同時にさう思う事が、後ろめたいやうな気もしないではなかった。」上記の一章の印象的な部分として書いた信子の愉悦にも通ずる部分である。在学中の自分と従兄との間柄と照子と従兄との結婚生活を比較して、従兄にとっても自分との間柄の方が勝っていたという確信である。その後の「信子はそれ以来夫に対して、一層優しく振舞うようになった。」は、「後ろめたいやうな気」を紛らわす気持ちの行動の表れである。それから程なくして妹の結納が済んだという知らせが来た後、照子と俊吉は師走の中旬に式を挙げる。
三章は、「信子はその翌年の秋、社命を帯びた夫と一しょに、久しぶりで東京の土を踏んだ。」の一文で始まる。この折、信子は一人、妹夫婦の新居を訪ねる。仮に夫と二人で訪ねたとしても何の不思議もない。
「が、彼女が案内を求めた時、聲に應じ出て来たのは、意外にも従兄の方であった。俊吉は以前と同じやうに、この珍客の顔を見ると『やあ。』と快活な聲を挙げた。」「来ることは手紙で知っていたけれど、今日来ようとは思はなかった。」「文通さへ碌にしなかった、彼是二年越しの気まづい記憶は、思ったより彼女を煩はさなかった。」
「~(略)~それが信子には一層従兄と、話していると云ふ感じを強くさせた。時々はしかし沈黙が、二人の間に来る事もあった。その度に彼女は微笑した儘、眼を火鉢の灰に落とした。其處には待つと云へない程、かすかに何かを待つ心もちがあった。」
「何かを待つ心もち」の「何か」に関して云々するのは愚かなことなのは言うまでもない。
その内に照子が帰ってきて、間もなく信子は妹夫婦と一っしょに、晩飯の食卓を囲む。
「その暇に夜が更けた。信子はとうとう泊まることになった。~(中略)~(俊吉は)それから誰を呼ぶともなく、『ちょいと出て御覧。好い月だから。』と聲をかけた。信子は独り彼の後から、沓脱ぎの庭下駄へ足を下した。~(中略)~暫く沈黙が續いた後、俊吉は静に眼を返して、『鶏小屋へ行ってみようか。』と云った。信子は黙って頷いた。鶏小屋は丁度檜とは反対の庭の隅にあった。二人は肩を並べながら、ゆっくり其處まで歩いて行った。しかし蓆囲ひの内には、唯鶏の匂のする、朧げな光と影ばかりがあった。俊吉はその小屋を覗いて見て。殆独り言かと思ふやうに、『寝ている。』と彼女に囁いた。『玉子を人に取られた鶏が。』信子は草の中に佇んだ儘、さう考へずにはいられなかった。・・・・・・」
寄り添う二人の情事については、誰も介入することができないものであることは言うまでもない。ここの場面で印象的なのは、『玉子を人に取られた鶏が。』と思う信子の心情である。その前の晩飯の食卓を囲む場面で、「照子の説明する所によると、膳に上った玉子は皆、家の鶏が産んだものであった。俊吉は信子に葡萄酒をすすめながら、『人間の生活は掠奪で持っているんだね。小はこの玉子から』なぞと社會主義じみた理窟を並べたりした。その癖此處にいる三人の中で、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違ひなかった。照子はそれが可笑しいと云って、子供のような笑ひ聲を立てた。」という部分が出てくる。
『玉子を人に取られた鶏が。』と当てつけている相手は俊吉なのか照子なのか。また玉子は俊吉、人は照子、鶏は自分と捉えることもできる。その後の「二人が庭から返って来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電灯を眺めていた。」の部分も印象的だ。
翌朝、俊吉は亡友の一周忌の墓参りで出かけていく。
四章は女性同士の情念と情念の応酬だ。ずっとシスターのままいられるわけもない。夫を送り出した後照子が姉にお茶をすすめながら夫と見に行った外国の歌劇団等いろいろな“愉快なるべき”話を信子にするのだが、信子の心は沈んでいていい加減な返事ばかりしている。それを見た照子の「どうして?」という問いかけも(それが意識的なものにせよ無意識的なものにせよだ)姉に対しての猜疑心というかフェイントといえる。昨晩の信子と俊吉の寄り添いの行動について照子は言っている。姉妹の関係は、年上、年下といった簡単な関係ではない。往々にして立場がいとも簡単に逆転する。それは兄弟も同じだ。
「柱時計が十時を打った時、信子は物憂さうな目を挙げて、『俊さんはなかなか歸りそうもないわね。』と云った。照子も姉の言葉につれて、ちょいと時計を仰いだが、これは存外冷淡に、『まだ』とだけしか答へなかった。信子はその言葉の中に、夫の愛に飽き足りている新妻の心があるやうな気がした。さう思ふと彼女の気持ちは、憂鬱に傾かずにはいられなかった。」
「信子はその言葉の中に、夫の愛に飽き足りている新妻の心があるやうな気がした。さう思ふと彼女の気持ちは、憂鬱に傾かずにはいられなかった。」俊吉を譲った甲斐がない。
「『照さんは幸福ね。』信子は顔を半襟に埋めながら、冗談のようにかう云った。~(中略)~照子はしかし無邪気らしく、やはり活き活きと微笑しながら、『覚えていらっしゃい。』と睨む真似をした。それからすぐ又、『御姉様だって幸福の癖に。』と甘えるやうにつけ加えた。その言葉がぴしりと信子を打った。」『照さんは幸福ね。』の台詞は憂鬱さをなんとかごまかそうとするものであり、俊吉を妹に譲った姉の驕りでもある。『覚えていらっしゃい』『御姉様だって幸福の癖に』一章での、「『もう今日かぎり御姉様と御いっしょにいる事ができないと思ふと、これを書いている間でさへ、止めどなく涙が溢れて来ます』」「『御姉様は私の為に、今度の御縁談を御きめになりました。さうではないと仰有っても、わたしにはよくわかって居ります。』」旨のいぢらしい手紙を渡した姉思いの妹の姿はもうない。上記した“俊吉を譲った甲斐がない”の部分にも通ずるところで、姉の謙譲心に痛感した初心を照子はすっかり忘れているのである。「照子はしかし無邪気らしく、~」無邪気は心ないと同意語である。
「彼女は心もち瞼を上げて、『さう思って?』と問ひ返した。問い返して、すぐに後悔した。」信子は妹に結婚生活が不幸せだと思われたことを後悔したのである。
その後の沈黙の後、「(気の毒そうに)『でも御兄様は御優しくはなくって?』やがて照子は小さな聲で恐る恐るかう尋ねた。~(中略)~が、この場合、信子の心は、何よりも憐憫を反撥した。」信子はその問いにわざと何も答えない。
「その内に静かな茶の間の中には、かすかに人の泣くけはひが聞こえ出した。」照子が泣いている。この涙は、どこまで行っても信子と俊吉の愛には勝てないという悔しさと嫉妬の情念から来るものである。トリガーは信子と俊吉の昨夜のことである。「『泣かなくって好いのよ。』信子は姉にさう慰められても、容易に泣き止もうとはしなかった。信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震える肩へ無言の視線を注いでいた。」
「信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震える肩へ無言の視線を注いでいた。」これも一章の解釈で述べた優位性と優越感による信子の愉悦である。更に、かつてのシスター関係など失われてしまったから残酷さが一層際立つのである。「『悪かったら私があやまるわ。私は照さんさへ幸福なら、何より難有いと思っているの。ほんとうよ。俊さんが照さんを愛していてくれれば』」信子は低い聲で言い続ける。言葉を並べるほどしらじらしく偽りであり、『俊さんが照さんを愛していてくれれば』も驕りに似た優越感とひとつの勝利宣言である。優位性と無邪気のシスター感覚も結婚前の若い時ならばお互い子供感覚で他愛もない感覚でいられる。だが大人になっていくにつれ、優位性と無邪気の残酷さが冷酷に際立つ(10代や若い時でも残酷さはあった。しかし他愛ないシスター感覚は存分にそれを補って余りあるものである)ということを示唆している。また後の信子の帰る場面の「彼女は従兄の帰りも待たずこの俥上に身を託した時、既に妹とは永久に他人になったやうな心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせていたのであった。」 でも同様に示唆している。
小説の最後、駅へと急ぐべく俥上に揺られる信子は、ごみごみした町を歩いて来る俊吉の姿を見る。俥を止めようか、行き違うか暫く逡巡を重ねる。彼に声をかけようか迷ったが信子はためらってしまう。「その暇に何も知らない彼は、とうとうこの幌俥とすれ違った。」そう、何も知り得ないのである。
「『秋』信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみかうおもはずにはいられなかった。」この一文で小説は終わる。この一文でも象徴的なタイトルの「秋」が出てくる。この文でも信子の心情に沿った季語として。ポイントは、「しみじみかうおもはずにはいられなかった」の「しみじみ」である。小説中には信子の心情に沿った季語として季節を表す文がいくつか出てくるが、それらも鑑みて、場面では一様に信子が感傷に浸っていたり(しかも快い感傷である)、物思いに更けていることから、しみじみはこれもまた愉悦に他ならない。
 
 
 
 
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