このブログを書く関係で道のことが気になり過去記事「姫街道を自転車で歩く」を振り返った。振り返ったのだが、また別の気になったことが出てきた。あの時、自転車で走ったのは257号線だったのである。

過去記事「姫街道を自転車で歩く」ではいくつかの街道沿いの写真を掲載しているのだが、記事を振り返っていたらそのどれもが257号線沿いだったことに気づいたのだ。その記事を読んでもらえればおわかりいただけるのだが、和合町の交差点も、パリミキも、静岡大浜松キャンパスも257号線なのである。しかし、2枚の写真には【姫街道】の道路標識が写っている。「あれ?どういうこっちゃ?」

筆者は自転車で知らない場所に行く時、道順がおぼろげな時にはいつも冊子の地図を使っている。以前、車に乗っていた時もそうだった。カーナビやら、スマホの道案内のようなハイテクなものは使わない。以前はミニマップを使っていたのだが(ミニマップは携帯に便利で、道順を見ながら目的地に行く時には有効)、雨に打たれてパリッパリになってしまったので(といってもまだ使えるのだが)今年に入って新しいA4サイズの地図を購入した。姫街道を自転車で走った時も、その新しい地図で事前にチェックしたのだが、今回改めて地図を見ても、和合町の交差点に沿った道も、パリミキと静岡大浜松キャンパスに沿った道も257号線と表示されており姫街道の記載はない。「???」

 

以前使っていたミニマップ。ポケットサイズで持ち歩きに便利。

今年に入って新しく購入した地図。A4サイズ。

 

 

改めて姫街道の道程を見るべくネットの画像をチェックする。ウィキペディアの画像を見て???が解決した。257号線も姫街道の一部なのである。ただし、元追分の交差点までである。文章で説明しても分かりにくいので画像とキャプションで説明します。

 

Wikipediaより抜粋の姫街道地図(江戸時代当時)。本坂通と呼ばれる姫街道は青で示した部分である。今の257号線は、浜松宿から追分に至る部分で、こちらもまた姫街道なのである。浜松宿は、江戸時代当時、数々の宿場があった現在の浜松市街地付近。ここの部分は、西方の吉田宿から和田に至る道と並んでバイパスの形となっているが、当時の人たちがバイパス(逃げ道や避難等のための道として)として利用したのかはわからない。現代ではこれらをバイパスとして利用している人は浜松にほとんどいないと思う。東京のように常に道が混んでないので、バイパスとして利用する習慣がないと思うからだ。

地図上の元追分交差点付近。黄線の261号線が見附宿から御油宿へと至る姫街道。

 

257号線が2つ?!左の257号線が本文で話している姫街道。まぎらわしいのは、こちらには姫街道の記載がないことだ。右の257号線には261号線の方の姫街道が交わる。分かりづらいかな?右になぜまたもうひとつの257号線があるのかは不明。ホントまぎらわしいが、日本全国に同じような事例がいくつもあると思われる。

 

 

で、今回の記事の主題の三方原の戦い古戦場までの道も257号線なのである。姫街道の終点である元追分を越えて更にひたすら北へ向かう。古戦場まで何kmなのかは、方向音痴と並んで距離音痴なので計り知れないが、元追分を越えて東名高速を眼下に見下ろし、三方原町に入り百里園の交差点あたりに来たあたりから通り沿いの店は少なくなり、よりのどかな里の風景となる。ただし平地であり山里ではない。257号線は、遠州鉄道の線路より西にあり、上島駅からだと結構な上り坂を上った台地に位置するのだが、少なくとも古戦場までは平坦な道が続く(南は浜松市街まで続くのだが(南の終点の高町に至る途中には浜松城がある)そこまでずっと平坦である)。目的地の三方原の戦い古戦場を過ぎてさらに北へ向かい、都田川を過ぎ、西は引佐町、東は森林公園、フルーツパーク、いなさ湖といったスポットに近づくにつれ山里になる(257号線は、都田川を過ぎて天竜浜名湖鉄道の線路を過ぎて程なくして362号線につき当たる。つき当たったところが257号線の終点となる。先に“南の終点の高町”と書いたが、どちらが終点なのか始点なのかわからない。普通に考えれば高町が始点だが)。

 

左上の三方原霊園を含む黄緑の右側部分が三方原の戦い古戦場。

 

 

当の三方原の戦い古戦場は、257号線沿い、三方原町と根洗町の境にある。敷地内は三方原霊園が併設している。敷地内に入ると入ってすぐの所に石碑や合戦の案内図があるのだが、目立った看板もなくにわかにはここが古戦場と分かりにくい。というか歴史や史跡に興味がある人でないと来ないのではないだろうか?

敷地内に入ると手前には駐車スペースがあり、左には墓が並ぶ。奥へ行くと更に墓が。そこから右に行くと結構な広さのグラウンドのような空き地がある(空き地というか野っ原)。「ここで戦いが行われたのだろう」とその時に思いをはせるが、どうしたことかいつもの自分の日本史DNAが働かない。近代化された姫街道を自転車で走っただけでも日本史DNAが働くのにどういうことなのか?壮絶だったであろう家康軍と信玄軍の戦いが脳裏に降りてこない。自分の日本史DNAが、感性が後退してしまったか?それとも古戦場とはこんなものなのか?確かに古戦場は野原や野山が広がるだけで、歴史のヒントを与えてくれるような建造物(城、寺、神社、生家等)がない。いやいやそんなことはないだろう。もっと言えばそのような“演出物”は必要なく、一見何の変哲もない野原であっても何かしらの歴史の息吹を感じるはずだ。

もしかすると合戦はここで行われたのではないのかもしれない。日本史の好きな人には御周知の通り、三方原の戦いがどこで行われたかについてはよくわかっていない。ただし三方原の周辺で行われたのは間違いなく、それがこの古戦場の半径1km以内なのか、5km以内なのかはわからない。おそらく、家康が浜松城から257号線を使って北進したと(更に戦いに敗れた徳川軍が武田勢に一矢報いようとその日の夜に夜襲をかけた犀ヶ崖の戦いの場所も257号線沿いにあることから)推定し、257号線沿いの三方原付近の野原を戦場跡と一応指定したのではないかと思う。

 

敷地に入ってすぐの所に駐車スペースがある。

敷地内の左側と奥には墓が並ぶ。一応断っておくが、三方原の戦いの戦死者の墓なわけがなく現代の墓園である。

敷地内右側に広がる空き地。敷地内の一角ということで、特にここが戦場跡として謳っているわけではない。ただただ茫漠で歴史ロマンが漂わない空き地が広がる。「戦いが行われてから500年以上がたってるんだから歴史を感じなくて当たり前だ」と言われるかもしれない。しかし、取り立てて歴史に所縁のある場所でなくても、近くの町でも、その街並みから漂う風情とか古い建物から感じる由緒、言ってしまえば魂というものから歴史の趣を感じてきたわたしである。歴史を感じさせる街並みというのは、そこに住んでいる人の「古き良き歴史を守っていこう」という思いがその要因になっていることが多い(その場合、学校や歴史的観光場所などがその町のランドマークになっていたりする)。この付近の町の人たちのこの古戦場への関心があまりないのかなと思う。あくまで古戦場の地としての。この地に佇んでも日本史のDNAが働かず、さすがにがっかり感は否めない。

 

敷地内入り口付近jにある石碑

徳川恒孝氏の文字がある。徳川宗家第18代当主。

もうひとつの石碑。“われわれは、この三方原一角にこの碑を建、その歴史の場(?)を永く後世に伝えようとするものである”の一節で終わる文が刻まれ、日付は昭和59年7月吉日となっている。何て刻まれてるのか全然見えないのは悪しからず。筆者所有の低性能デジカメのせいである。

 

看板に書かれた戦いの経緯。両陣営の陣形についてだが、徳川軍の取った鶴翼とは、横に広く翼を広げたようなV字型陣形であり、両側から相手を包囲することができる。対して武田軍が取った陣形の魚鱗とは、中央の後方に大将を置く▲形の陣形であり正面突破に勝る。魚鱗は、敵より少数兵力の場合に用いられることが多く、対して鶴翼は、敵より兵力が多い場合に用いられることが多い。三方原の戦いでは通常取られる陣形とは逆になっている。

両陣営の進行図。本戦の前に武田勢は、犬居城への入城、二俣城開城をはじめとして徳川方・織田方の城を次々に攻略している。武田軍の圧勝は、信玄の智略の高さもあるが、破竹の勢いによるところも大きいだろう。

鶴翼と魚鱗の陣形がよくわかる。

 

 

自分の日本史DNAがそう簡単に失われるものではないと思っているので、三方原の戦いの主戦場はここではないと勝手に決めさせてもらおうと思う。それにしても、併設された駐車場と墓園以外は茫漠とした空き地が何の変哲もなく広がり、歴史の息吹を何ら感じさせない今回の古戦場は些かがっかり感だけが残ってしまったのは否めない。

 

ところで、命からがら浜松城に逃げ帰った家康だが、城へ逃げ帰った後、いわゆる空城計を行う。追撃してきた山県昌景隊は警戒し城攻めを躊躇し引き上げてしまう。この城攻めに至らなった理由は空城計による心理的警戒もあるが、やはり攻城戦は攻める側が不利ということを山県昌景は重々知っていたのではないか(攻める側が数に優っていてもである)。何しろ、浜松城は家康の本城である。浜松城の建てられた立地が攻めに不利なのは過去の記事「我が故郷浜松が誇る?(多分誇れない、自慢もできない)名城?浜松城」で説明している。三方原の戦い本戦の前に、各戦で次々に徳川勢を押しやった武田勢であるが、何度か浜松城に攻め込むチャンスがあったにもかかわらずことごとく方向転換して攻め入っていない(勿論、計算上の方向転換である)。山県昌景もまた、城攻めのリスクを知り尽くす総大将の信玄からその教訓を繰り返し聞かされていたのではないだろうか。

仮に山県が浜松城を攻めたとしても、天守閣に至る急な山坂を上りながら攻めあぐねているうちに徳川軍・織田軍の援軍がやって来て挟撃されてしまう可能性は高い。武田氏はまた、先の駿河侵攻で北条氏に挟撃されるという危機から教訓を得ていたのである。三方原の戦い後、当の信玄は、またしても浜松城を攻め込まず西進しているのである。もっとも、これは信玄が端から浜松城を重要視せず、当初の目的である入洛へと遂行しただけという説が有力なのだが。

家康は、三方原の戦いで人生最大とも言える戦訓を得たが、信玄もまた過去の戦いからいくつかの重要な戦訓を得ていたのである。

 

 

 

 

 

 

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