Lidice_shall_live


ハイドリヒの暗殺は成功しましたが、この成功により、チェコスロバキアの人々は多大な犠牲を強いられることになります。
その報復は、保護領の様相を一変させることになりました。

事件当日、ヒトラーの命を受け警察署長カール・ヘルマン・フランクは非常事態宣言を出します。
街角には、情報提供者に報奨金を出すと書かれたポスターが貼られるようになり、この第二次戒厳令中に
徹底的な家宅捜索や逮捕、そして処刑が行われました。

1942年10月24日、マウトハウゼンで、チェコスロバキアの愛国者や暗殺の助力者を対象とした最大の処刑が行われます。この日だけで合計262人が死亡しました。

なんと暗殺に賛同しただけでも逮捕され死刑になったようです。

この第二次戒厳令の残虐さはハイドリヒが宣言した非常事態宣言の10倍近くになり、処刑された人の総数は1,400人を超えました。


その残虐さを象徴する事件にリディツェ村とレジャーク村の抹消計画が挙げられます。


リディツェ村近郊の都市、クラドノの保安警察はリディツェ村の住民がハイドリヒの暗殺にかかわった疑いがあるという報告を受け、ゲシュタポへ報告しました

ゲシュタポはリディツェ村の住人、2家族を逮捕します。

しかし後に記しますが、これはとんでもないデマでした。
暗殺に加担したとみられる証拠は何一つ出てこなかったのです。

しかし保護領の警察署長カール・ヘルマン・フランクは、次期帝国保護官の座を狙い、リディツェ村を利用しようとしました。そしてデモンストレーションとして村の完全な抹消をヒトラーに上申します。それを受け、ヒトラーは掃討命令を出してしまいます。


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カール・ヘルマン・フランク



6月10日夜、ドイツ軍とドイツ警察が再びリディツェ村にやってきて村を包囲しました。
そして誰も村から出ることができなくなったのです。
先日の2家族の逮捕で処罰は終わったと考えていた約500人の住民は集められ、14歳以上の男性173人が農場の地下室と馬小屋へ閉じ込められました。
次の日の早朝、彼らは最初は5人、次に10人と集団で隣の庭に連れ出され、銃殺されました。その後すべての家屋にガソリンが巻かれ火が放たれます。
殺された住民を埋葬するために、チェコスロバキアのテレジーン収容所からユダヤ人の奴隷部隊が呼ばれ、死者が埋葬されました。
リディツェ村は徹底的に破壊され、保護領の地図からその名が消えます。


女性と子供は学校に集められた後、近郊のクラドノの体育館に収容されます。
クラドノでは、子供たちが「アーリア化」(外見がドイツ人に似ているなどの場合、ドイツ人家庭の養子にされる同化政策)にどれだけ適しているかを3日間検査されました。
10人が
「アーリア化」の指定を受け、1歳未満の7人はプラハ・クルチのドイツ人孤児院に、残りの88人はポーランドのウッチ強制収容所へ送られました
その後82人の子供たちは、1942年7月2日、チェルムノ絶滅収容所に連れて行かれ、おそらく同日中に、特殊車両で排気ガスによって殺されました。

戦後、生き残った子どもたちは、
懸命な努力の結果、親族のもとに戻されましたが、その数はわずか17人でした。

子供たちと引き離されたリディツェの女性184名は、1942年6月12日にラーベンスブリュック強制収容所に移送され、その四分の一がチフスと過労により死亡しました。


さらに1942年6月16日、逮捕された2家族、焼き討ちの夜にリディツェを離れていた成人男性9人、後に15歳以上と分かった少年2人がプラハ・コビリシの射撃場で処刑されました。 最終的にリディツェ村の住民は340人が命を落としています。


この事件はクラドノ近辺に住むアナ・マルスツザーコヴァーという女性が恋人から不審な手紙を受け取るところから始まります。
そこにはこう書かれていました。

「親愛なるアナ、返事が遅れてすまない。
 僕は僕のやりたいことをやったんだ。その運命の日、僕はチャバールナの地で眠った。
 元気にしてるよ。今週は会えるけど、もう会えなくなる。さようなら。 ミランより」

この手紙を見たアナは、恋人が暗殺にかかわったのではないかとの不安から職場の工場長に手紙を見せてしまいます。
工場長は憲兵隊にこの手紙を差し出し、さらにゲシュタポの手に渡りました。
アナはその後取り調べを受けます。
そこで恋人から、リディツェ村の2家族へ、イギリスの第311爆撃機隊に所属している息子たちが元気にしていることを伝えてくれと頼まれたことを述べました。
この2家族の息子はチェコスロバキア軍の兵士としてイギリスで活動していることが知られていました。すぐにこの2家族は逮捕されます。

しかし、その後の調べで分かったのは、この手紙を出したのがヴァーツラフという既婚者の男性で、アナとの不倫が発覚することを恐れ、同僚に手伝ってもらい彼女との関係を清算するための手紙を渡したという事でした。
彼は、ロマンチックな別れを演出したかったようです。(大迷惑)
すぐにリディツェ村もこの男性も、暗殺に関係ないことがわかりました。
しかしリディツェ村の抹消は敢行されてしまいます…。

リディツェ村は1949年に跡地に隣接する場所に新たに再建されますが、旧リディツェ村は現在、国の文化財に指定されています。
そこにはリディツェ村の悲劇を記念した博物館があり、また、82人のリディツェ村の子どもたちのブロンズ像があり追悼碑となっています。

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追悼碑
Autor: Honza Groh – Vlastní dílo, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3549753




6月24日には住民が「シルバーA」グループのパラシュート部隊を援助していたという理由でレジャーキ村が抹消計画のターゲットになりました。

「シルバーA」グループはこの村で、ほぼ半年間活動していますが、
ここは隠れ家としてだけでなく、イギリスと通信するための秘密のラジオ局としても機能していました。ラインハルト・ハイドリヒ暗殺の指令は、ここを通じて出されたのです。
ゲシュタポは村を包囲し、住民をトラックに乗せました。その後、村全体は燃やされ、住民はパルドゥビツェのゲシュタポ本部に移送されました。

リディツェ村とは異なり、レジャーキ村では成人したすべての住民、合計34人が処刑されます。
遺体は地元の火葬場に運ばれ、そこで焼かれました。
「アーリア化」に適さないと判断された子供たちは、ポーランドの繊維工場に3週間拘束された後、チェルムノ絶滅収容所に運ばれ、ガス室で殺害されました。
13人の子供のうち、
「アーリア化」に適しているとされたのははわずか2人だけでした…。

リディツェ村と違い、レジャーキは再建されることはありませんでした。
現在、その場所には、彼らの家があった場所に記念碑が建っています。

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レジャーキ村の記念碑


リディツェ村の事件が世界に知れ渡ると、ナチスの蛮行に対する抗議や、虐殺された人々の追悼の印として、「リディツェ」の名を冠する町がブラジルやイギリスなどの諸外国で現れたそうです。

チェコは実際の歴史をテーマにした映画が非常に多いので、この事件をテーマにした映画がないかと調べてみたら、やはりありました。
古くは1943年作「The Silent Village」
新しいとこで、2011年作の「リディツェ」です。



パラシュート部隊の顛末についてはまた次回書きます!









参考サイト:


https://cs.wikipedia.org/wiki/Operace_Out_Distance


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%84%E3%82%A7


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%AD

https://english.radio.cz/lezaky-lesser-known-czech-village-annihilated-nazis-8754186

冊子 Anthropoid- the silent witnesses


https://cs.wikipedia.org/wiki/Vyhlazen%C3%AD_Lidic