地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング

森美術館

2022年8月6日(土) 


 

初めにこの展覧会のタイトル

地球がまわる音を聴く

 

この言葉をよく見つけてきたと思う。

 

まず、最初の展示作品に触れておきたい。これがこの展覧会の縦糸となっている。

 

オノ・ヨーコ Grapefruit 

 

1964年に最初に刊行されたこの本には、いくつもの短い命令文が書かれていて、一つ一つがアート作品である。

 

読み手はこの命令文の通り行動することで何らかの鑑賞体験をし、アート作品が完成する形式だ。

 

そのうちの命令文の1つが

 

 

 

 

EARTH PIECE 
Listen to the sound of the earth turning.

1963  spring


地球の曲
地球がまわる音を聴く。

1963年春

 

COVID-19 の世界的な感染拡大によって、地球が人類社会に及ぼす影響力の大きさをすべての人が同時に体感しました。そしてこの共通の体験は私たちに地球がこの先どのような力を人類に行使するのか考えさせるきっかけになりました。


つまり、

地球がまわる音を聴くようになった。


この状況下で、世界に対してことさらに感度の高いアーティストは何を感じ、何を表現するのか?


これがこの展覧会のテーマです。

 

 

ヴォルフガング・ライプ ヘーゼルナッツの花粉

 

四角い展示台の上の鮮やかな黄色はヘーゼルナッツの花粉です。ヴォルフガング・ライプはヘーゼルナッツの花が咲き乱れる畑でひたすら花粉を採取し、作品にしています。この鮮やかな黄色は生命そのものです。人類の脅威となったウイルスが目に見えない小ささであるように、花粉も目に見えない小ささです。目に見えないものの働きの大きさを強い色彩に見てとることができます。


ヴォルフガング・ライプ ミルクストーン

 

一見すると白い大理石の板です。しかし、近づいてよく見るとその上にミルクが注がれています。表面張力で盛り上がった液面が溢れるところでギリギリの均衡を保っています。限りなく静かな中にある極限の緊張感に秘めたエネルギーを感じます。地球上のどこかで再び何かの均衡が崩れるかもしれないという漠然とした不安。そのような観る側の感情が投影される作品です。

 

 

ギド・ファン・デア・ウェルヴェ 

第9番 世界と一緒に回らなかった日

制作に強靱な体力の要る映像作品です。作者はこの制作のために北極に訪れ、北極点に立ち続け、24時間かけて地球の自転と反対に回り、宇宙空間的視点からは同じ方向を向き続けるというパフォーマンス(?)を行いました。子どもがふざけて降りエスカレーターに乗り上に向かって階段を登り続ける遊びのアート版みたいなものです。タイムラプスで撮影しています。人間は普通、地球の自転に逆らって動くことなできませんが、ここではそれが可能です。地球に対抗する術は思わぬところに存在しています。

  

 

小泉明朗

一種の洗脳装置のようなインスタレーションです。真っ暗な部屋の中央のステージにはロボットアームのオブジェ。周りに配置された映像には催眠術士と被験者が映っています。催眠術士が言葉を発し被験者が反応し、やがて術がかかり感情を操られていく。催眠は被験者の望んでいないことはかからないもので、操られていてもそれは本人の望みの形を変えた表れです。大いなる力によって理不尽な状態に追い込まれていたとしても、実は自分で望んでいたことではないのか?結局すべては自分の気持ちひとつというと、浅はかな解釈でしょうか。


 

青野文昭


仙台出身の青野文昭は東日本大震災で発生した大量の廃材を集めて作品を作り続けています。私はこの制作スタイルは自らが被災者となったことで考え出されたと思っていたのですが、震災前から空き地に捨てられた廃材を再生してアートを作っていました。奇しくも震災がもたらした環境が彼の制作スタイルにフィットしたといえます。我々日本人の廃材に見るイメージは変わりました。かつては平穏な生活の中にあった家具が凄まじい記憶を蓄積しアーティストの手で生まれ変わっています。懐かしさ、生々しさ、今ここにいない人たち。創作の向こうに様々な感情と記憶が紐付く森のような作品です。


金崎将司 山びこ


岩とも木とも見えるこの作品の素材は雑誌やチラシです。紙を木工用ボンドで一枚一枚糊づけすることで立体を作り上げています。地層か年輪のようにも見える模様は何百枚、何千枚という紙の層なのです。このような途方もなく手間のかかる方法で制作する金崎将司はアール・ブリュットのアーティストです。高い集中力と密度で形成された造形には想いが漲っています。


 

堀尾貞治「色塗り」シリーズ

 

堀尾貞治「一分打法」シリーズ

 

壁に掛けられた膨大な数のガラクタ、壁に貼られた膨大な数の落書き、とも見える作品群、インスタレーション。多作であることを己れに課して「方法論を持たないことが方法論である。」と手段を選ばず制作し続ける。

 正直に言ってこうなると作品がアートではなく、行為がアートと言った方がいいでしょう。熱量を発散するのか、集中するのか、そこに違いがあります。集中し突き詰めるがアートの王道だと思います。とするならこれは邪道のアートでしようか。健常者のアール・ブリュットと見えなくもありません。「何を作るか」ではなく「作ることを追求する」。どうしていいか分からなくとも進み続ける。結局我々にはそれしかないのかもしれません。


 

金沢寿美 新聞紙のドローイング

 

この巨大なカーテンのような作品は新聞紙でできています。新聞紙を10Bの鉛筆で黒く塗りつぶして絵を描く。離れて見ると星々の煌めく広大な宇宙空間です。




近づいて見ると、新聞記事の中からコロナに関する記事を白抜きにしていることがわかります。長い閉塞された生活の中では、創作というより、何かと向き合い手を動かし続けることが、生きる術そのものとなっていたのではないか?

この作品の大きさはこの数年間、世界の人々がひたすら溜め込むしかなかった行き場のない感情を見える化しています。

 

 

ツァイ・チャウエイ 5人のダンサー

ツァイ・チャウエイ 子宮とダイヤモンド


2つの作品が写っています。


 壁の平面作品は5点一組の作品です。1点ごとに色が違い5つの色は、チベット仏教において行者を悟りに導く女神の5人の智恵のダーキニーを表しています。

 

手前の作品は曼荼羅を鏡とガラスで作っています。二つあるので両界曼荼羅でしょうか。一つが金剛界曼荼羅、もう一つが胎蔵界曼荼羅のようです。


宗教のモチーフを現代の素材や技法で表現した作品です。先行き不透明な時代に、幾多の災厄を経て警鐘されてきた宗教の教えを今に活かす。その重要性を訴えているように見えてきます。


アートは一般的には文章ではないので、何を表現しているわかりにくいと言われます。解釈も自由で個々人に委ねられています。それでもキュレーターの企画によって、共通のテーマから作品を見ることができることもあります。

 この3年間、アートにとって厳しい時期ではありましたが、それでもタダでは起きない。そんな、意気込みをこの展覧会に見ました。


 

 

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