祈りの結果は二の次【イザヤ55:8-9】

2025年

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

イザヤ55:8-9

次男の学校の件…

学校がしようとする事があり、保護者・生徒は反対。

この関係が長く続いています。

そして投票で決める事になり、結果、反対意見が多数。

しかし今日、最終結論として、推し進めるという事が公表されました。

この一年、この件に凄く時間を費やしました。

勿論、祈りながら。

何度となく、自分たちが優勢になったり、

学校が優勢になったりを繰り返す中、

祈る中で気が付きました。

祈った結果、どうなったかが重要ではない。

自分の願い通りになったら

「祈りが叶えられた」と言って喜ぶのでもない。

自分の願い通りにならなかったから

「祈りがきかれなかった」と悲しむものでもない。

自分の人生で起こる色々な出来事を通して、

祈りながら歩むのですが、

私たちが一番重要視するのは、

祈りの結果ではない…と気が付いたのです。

結果は二の次で、

集中すべき点、重要視する点は、

主と自分との関係。

「主よ。どうか私に力を与えて下さい!」と祈るのではなく

「主よ。あなたは私の力です」

「主よ。私に希望を与えて下さい‼」ではなく

「主よ、あなたは私の希望です!」

…私は今まで、祈りの結果にフォーカスし過ぎていたんだと気付いたのです。

重要なのは、私と主との関係。

祈りをきかれたから、感謝し、信じるのではなく、

思い通りの結果にならなくても「私は主を信じます」と告白する。

「この結果に私が失望し、信仰を無くさないようにして下さい」と祈る。

大切なのは、主との関係だから。

人間的には、私たちは権力に負けたのです。

しかしそれが重要ではないし、思い通りの答えにならなかっても

それが終わりではない。

人の目には「最終結論」で完敗だとしても、

本当にそれが最終結論なのかは、分からないのです。

何故なら、私たちの時間の流れと主の時間の流れは違うから。

以前、ブログにも書きましたが、

次男は学校で楽器を演奏するという試験がありました。

エレキギターを選択し、YouTubeで学び、1年かけて準備をして臨んだのです。

そして、試験1カ月前からエフェクターが欲しい!と祈っていました。

音に歪みを付ける為にです。

エフェクターは与えられず、試験の日が来て試験を受けました。

次男は凄く残念がっていました。

「エフェクターがあればもっとカッコよく演奏出来たはず…」

「エフェクターが欲しかった」

「でも自分がカッコよく弾きたいというエゴかもしれない…」と

自分なりに納得し、エフェクターなしで望んだのです。

試験が終わり、すっかりエフェクターが欲しい欲から解放された時、

知人から次男宛ての宅配物が届きました。

品名を見ると「エフェクター」と書いてあったのです。

私は「え…今??1週間早かったら…」と思ったのです。

そして、夕方、次男が学校から帰って来てこういったのです。

「僕だけ、もう一度エレキを演奏する事になった。

先生が、もう一度聞きたい楽器はありますか?と聞いて、

みんなが僕のエレキと言ったので、来週僕だけもう一度演奏する事になった」

と言うのです。

私たちの時計では、エフェクターを受け取りたい時間は過ぎていました。

試験の日は決まっており、それには間に合わなかったのです。

だから、もう「祈りはきかれなかった」と感じました。

しかし、試験から2週間後、もう一度友達の前で

エフェクターありで次男は演奏する機会が与えられたのです。

主の時は、試験の日ではなく、

2週間後が「主の時」だったのです。

主は凄く、カッコイイ…。

なんて素晴らしいんだろう。

私は、主を信じます。

今回も、私の時計の時間は過ぎましたが、

主の時はまだかもしれません。

どうなるかなんて、私たちには分からないのですから。

一番大切なのは「それでも主を信じる」という信仰。

私は、主に感謝し、今日も主を信じます!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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