国内最大の埴輪が発見されたそうです。

峯ケ塚古墳での出土だそうで、大阪は大型の遺跡がたくさん出土しますね。

 

 

 

世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産の一つ、峯ケ塚古墳(大阪府羽曳野市、5世紀末)の発掘調査で、長さ約3・5メートルの木製埴輪(はにわ)が出土した。つえや旗をかたどったとの説がある石見型と呼ばれる種類の木製品で、8日発表した羽曳野市教委によると、他の種類を含めて木製埴輪としては国内最大になるという。

 

峯ケ塚古墳は全長96メートルの前方後円墳。くびれ部の北側に祭祀(さいし)の場と考えられる造り出しがあり、木製埴輪は付近の周濠(しゅうごう)から見つかった。石見型木製品は、これまで全国15の古墳で出土例があるが、今回のものは現存部分の長さが約352センチ、幅約75センチ、厚さ約8センチ。素材は当時の権力者が好んで使ったコウヤマキだった。

船の本体が引き上げられるといいですね。

どうも、元は民間船を軍船に流用してまで日本を侵略したかったようです。

北条時宗はよくやった!

 

 

鎌倉時代の元寇(げんこう)の舞台である長崎県松浦市・鷹島(たかしま)沖の海底から1日、元船の木製いかりが引き揚げられた。この海域でいかりが引き揚げられるのは28年ぶり。本来の大きさは全長6~7メートルと推定され、全長20~30メートルに達する大型船のいかりだったとみられる。

 

鷹島では1994年にも9本の木製いかりが引き揚げられている。いずれも短い碇石を二石一対で用いたもので、今回の「一石型」とは異なる。引き揚げ作業を監督した池田栄史(よしふみ)国学院大教授(考古学)は、「一石型は当時の一般的な商船に見られるもので、大型の商船を軍船に転用していたとも考えられる」と話す。

 弘安の役では鷹島沖で元軍が暴風雨で壊滅したとされる。一帯では元船とみられる沈没船2隻も確認されており、同市教育委員会は将来の船体の引き揚げにつなげたいとしている。

 

古墳そのものの築造時期がわかればいいんですけど、分からないのが実態でしょう。

考古学と年代測定の科学的手法を駆使しても、1世紀位のズレは起こり得るので、なかなか特定できないのが実情でしょう。

かなり時代が新しい、年記が特定できる仲哀天皇や雄略天皇の時代でも古墳が特定できないというのは、すこしなんだかなあ、という感じがしますけど。

 

まあ、古墳だけしらべてもよくわからないというのが事実でしょうね。

だけど、そんなに古い時代ではないのです。

紀元前ならまだしも、紀元後300年以上経っているのですから、もう少し真面目に

やればわかるはずなんだけど、なんせ史料が少なすぎます。

焚書坑儒されたのが今に及んで古代の歴史学を低迷させています。

 

日本古代史は、とかく謎めいている。それは、『日本書紀』や『古事記』が、何らかの都合によって、適宜、史実を捻じ曲げて書き記したからだろう。その虚偽を浮き上がらせるのに大きな役割を果たすと思われるのが、天皇陵の存在である。真の天皇陵が特定され、その築造年が判るだけでも、およその実像が把握できるからだ。

 ところが、考古学者の森浩一氏によれば、宮内庁が治定する天皇陵の多くが、名をあげられた天皇の真の陵墓ではないとか。治定された古墳の築造時期とその天皇の崩年との整合性がとれないからだ。

 

 

手のひらサイズの銅鐸はかなり珍しいですね。

その珍しい銅鐸が東京都内で発掘されているとか。

ぜひ、見に行きたくなりました。

場所は、高田馬場三丁目遺跡や下戸塚遺跡など新宿区。

新宿歴史博物館(東京都新宿区四谷三栄町)で特別展示されているそうなので

是非足を運んでみたいです。

 

特別展「新宿の弥生時代~教科書の弥生時代と比べてみると~」

 

手のひらサイズの銅鐸、出土したのは東京・新宿…弥生時代の謎に焦点

 

新宿区内には、高田馬場三丁目遺跡や、下戸塚遺跡など弥生時代の遺跡があり、中でも、高田馬場三丁目遺跡からは、高さ約6センチの小さな銅鐸が発見されている。大きな銅鐸は全国で約500点発見されているが、小銅鐸は約60点しか発見されておらず珍しいという。装飾品として使われた可能性もあるが、定説はない。

 

 

えっ、あの人もこの人も松尾芭蕉も!? 歴史上の人物が実は忍者だった説

興味深い記事ですね。

確かに全国を旅する人物に、工作員の要素があるのはうなずけます。

全国を旅しながら情報を入手し、それを権力者に伝えることはありえます。

富嶽三十六景の葛飾北斎なんかも雅号を何十回と変えたり、その要素があったんでは。

歌川広重とか。

僧侶なんかもっと怪しい(笑)

忍者から脱線しましたが、昔は当たり前のように工作員を兼務してたのかも。

だから問題にならない。

伊賀の血を引く松尾芭蕉
いわずとしれた俳諧の超・超・有名人ですよね。
芭蕉は実は伊賀国生まれで、父親は忍者と関係が深い無足人という名字帯刀を許された準士分の上層農民でした。
また、母親は伊賀の三大上忍の一人である「百地氏」の家系です。

その二人から生まれた芭蕉。
出自が伊賀だったこと、『奥の細道』で毎日40キロ近く歩く体力があったことや、全国をめぐる旅費が相当必要だったであることから、忍者説が生まれました。