エゴン・シーレ(1890〜1918)
14歳の時に父親が梅毒で死亡。妊娠していた妻がスペイン風邪に罹り死亡。3日後に本人も同じ病で死亡。28歳で早逝
22歳で父親が、翌年弟も結核で死亡。パリで自殺未遂を経て精神病院に入院、一切の食事を拒み衰弱死。30歳で早逝
東西イケメン対決
シーレは、どこか少年ぽくって、ブラッド・ピット的かな…
初日、若い女性が比較的
多いかな
(佐伯祐三展はすくなかった)
男性は、シーレを気取る
若きナルシスト?!
来場者はそこそこ…
エゴン・シーレ(1890〜1918)
16歳の美少年 エゴン・シーレ
オーストリア・ハンガリー帝国ウィーン近郊の中産階級の家庭に生まれる
父親は帝国鉄道の鉄道員で後に駅長にもなっている
14歳の時、父親が梅毒で死亡
16歳でクリムトと同じウィーン工芸学校に入学
この頃4歳下の妹、ゲルトルーデ(ゲルティ)をモデルに裸体デッサンを行い、肉体関係もあったらしい
ウィーン美術アカデミーに進学したが、19歳で旧弊なアカデミーに失望し退学、グスタフ・クリム(1862〜1918)に師事する
ウィーン分離派には参加しなかったが、クリムトのウィーン工房に職を得る
クリムトとシーレ
20歳頃、少女の裸体画、自画像を多数制作する
21歳、妹ゲルティがシーレを拒否しだした頃、クリムトから紹介された17歳のモデル、ヴァリー・ノイツィルと同棲
22歳の時に14歳の少女を誘拐したと訴えられるが、誘拐は冤罪も家宅捜索で少女ヌードが摘発され1ヶ月の禁錮となる
幼児性愛者と画壇から非難され苦境にたつが、恋人ヴァリーの支えで制作を続ける
25歳の時、アトリエの向かいに住む鉄道関係で中産階級の姉妹がシーレに恋し、シーレはヴァリーと別れ
妹ハルムス・エディットと結婚を決めた、シーレは結婚後もヴァリーとの関係を求めたが呆れたヴァリーは去って行った
同年、第一次世界大戦に召集される
27歳ウィーンに戻る
シーレはエディットの姉アデーレとも関係していた
28歳の時、妊娠していたエディットがスペイン風邪に罹り死亡、3日後にはエゴン・シーレも同じ病で死亡した
イケメンで女性にモテまくったようですが、なんとも酷いゲスぶりです
展覧会の構成は
第1章 エゴン・シーレ ウィーンが生んだ若き天才
第2章 ウィーン1900 グスタフ・クリムトとリングシュトラーセ
第3章 ウィーン分離派の結成
第4章 クリムトとウィーンの風景
第5章 コロマン・モーザー 万能の芸術家
第6章 リヒャルト・ゲルストル 表現主義の先駆者
第7章〜9章 エゴン・シーレ
第10章 オスカー・ココシュカ “野生の王”
第11章 エゴン・シーレと新芸術家集団の仲間たち
第12章 ウィーンの文化サロンとパトロン
第13章 エゴン・シーレ 裸体
第14章 新たな表現、早すぎる死
全115点中エゴン・シーレの作品は50点
19世紀末から20世紀初頭のウィーン美術の様相を網羅している
(第9章 風景画を除き撮影不可のためネット画像を借用)
いわば糟糠の妻であったヴァリー・ノイシィルがモデルで後ろの男性はシーレ
「少女誘拐事件」の年に描かれた
どうしようもないゲス男に愛を捧げる“悲しみの女”・・お前が言うなよ!とツッコミを入れたくなる
こちらも同年の作品
子供の驚いたような表情、拒絶する手が語るものは…
社会的信用がある中産階級で自分と同じ鉄道関係の家に生まれ妻となったエディット
1913年
裸体ではこの絵に惹かれた
脚の線がベルナール・ビュフェ(1928〜1999)の風景画のよう
北斎の影響か…
静謐な肉体、霊廟を飾る絵画だったらしい
エゴン・シーレが「私に才能はありますか?」とクリムトに問うと、
クリムトは、
「いや… ありすぎる」と答えた
私生活がこれ程、
下衆な男はなかなかいない、
神は彼に美貌と才能を授けた、
「死」と引き換えに…
★★★★★
クリムトは主に琳派ですが、
エゴン・シーレは浮世絵、水墨画、工芸など広範な日本美術の影響を
感じました
お勧めします