武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

男と女の夢想(作品紹介773)と 散歩あれこれ

2024-04-19 10:17:06 | Weblog

アクリル絵具使用。

この絵は、夏に描いたのだろうか?

スイカが描き込まれているので、そんなことを思いました。

「giRL」という文字の上に、跳ねている女の子がいる。

目を閉じている表情のためか、静かに滑るような雰囲気だ。

「MAM」という文字の右には、四角い顔をした男が呆れ顔でいる。

口は、一直線で表現され、思いを噛み締めているという感じ。

遠目に見ると、女の子の顔のまわりの暗い青の部分は、

海原と夜の空に思え、そこだけが空間が抜けている。

(色が深く暗いから、奥行きがあるように感じる)

画面の構成は、キュビズムのように捻じ曲げられ、

太陽や赤い惑星、建物がランダムに配置されてはいるが、

夜の静かな海に気が付くとロマンティックな絵にも思え、

恋する頃の不思議な感情を思い出します。

恋をすると感情が平常ではなく、異変を起す。

この絵にある、建物、太陽、惑星、木、すいか、夜の海という組み合わせ。

奇妙なイメージが湧く。

唐突に“すいか“があるというのは、可愛くもあり、

少女の頃の不可解な感覚と言ってもいいだろうか。

そして、絵の強引な構成も特異な感じだ。

絵の中に無理やりギュッとモチーフが詰め込まれ、

空間が斜めなったり、天井から下の向きになっていたりして、輪を描いています。

その隙間から、海が見える。

女の子が、目を閉じているせいか、夢での出来事にも思え現実感がない。

恋をする不思議な時間にも似ている。

恋をした時のエネルギーは、日常とは異なる世界を導き、

破滅の道か?ハッピーエンドか?

行く末が気になるところだ。

過去に、思いつきで特異な行動をしたことがあるわたしは、

この異日常の行動をしたことがあります・・・・・。

そして、不愉快な奴と思われた。

その悲しさよ。

そう、この絵には、恋した人のハチャメチャな思考、

そんな片鱗を感じています。

タイトルは、「男と女」でいいでしょうね。

 

暖かな日が続くようになり、寒さに弱いヒロク二さんも動くようになり、

運動も兼ねて、散歩をしています。

街へ出ると、歩いてしまうのではないかと思い、

地下鉄で三ノ宮に出て、画材を買い、その後は散歩という流れになりました。

やはり、街に出ると自然に歩き、人にも会いたくなるようで、あちらこちらへと。

神戸のトアロード筋にある「木馬」というJAZZ喫茶へ行こうとなり、歩いた。

ところが、毎日の散歩の歩数では身体は思ったより動きが伸びなくて、

途中で休みながら、行く羽目に・・・。

店の扉を開けた時は、どんなにホッとしたか。

↓JAZZ喫茶「木馬」でのヒロク二さん。

顔が疲れています。

眉もハの字になってしまって・・・。

その後、旧知の顔を見て、談話していました。

この日は、7657歩。

普段は、3000歩止まりなので、いつもの倍歩いたということだ。

 

普段よく行く場所は、殺風景な公園なのですが、意外と親子連れの多い公園。

↑シロツメクサが生い茂り、緑が広がっている。

座るところもなくて、うさぎの形の石が1つあるだけ。

鉄棒が3個。

後は、大きな木がランダムにそびえている。

だけど、見晴らしがいい。

↑シロツメクサをこうやってじっくりと見るのは久しぶりだ。

子供の頃、四葉のクローバーをよく探したことを思いだす。

ちょっと踏みつけられている場所の方が、

見つかり易いという統計を子供ながら導きだしたことなども思い出される。

延々とクローバーに関わっていた時期がありました。

子供の頃は、時間の観念が違うのかもしれない。

今は、そんな事していたらすぐ日が暮れてしまうし、そんな悠長な時間を取る気がしない。

そんな気持ちがないのです。

つまらない大人になったような気もします。

 

公園はもう1つ行く所があって、図書館の近くになります。

↑公園の高台から見下ろした所。

このあたりは、楠木町といいます。

そのせいか、本当に楠木が多くて、それも大きな幹のものが多い。

松やつつじも多く植えてありますが、

圧倒的に楠木が目立っています。

↑同じ高台から。向きが変わりました。

変わった桜の名前が付いていましたが、失念しました。

これは、山の方を向いています。

神戸は、海と山がありますので、海側、山側という言い方で方向を示します。

今日は、この公園にヒロク二さんを連れていきました。

神戸はヒロク二さんが幼少暮らした所なので、いろいろ案内してもらえると思っていたのですが、

何故か、わたしが連れまわすことに・・・・。

ヒロク二さんが言うには、

「私が知っている神戸はもうないんだよ。随分様変わりしていて、よく勘違いをしている。

 マンションなんてなかった頃だから。

 頭の中の風景は、しもた屋なんよ。」

ということらしい。

連れていく前に、1人でふらっと歩いて、下見をしています。

今日は、2人で公園の坂道を上っていると、

「おい、本当は1人じゃなくって、男と会っているんじゃないか!」って、

嬉しそうに言うのです。

近頃、劣化が激しくて、母に凄く似てきているわたしに、

そんな心配するなんて・・・。

目の下のたるみも二段になっているというのに・・・・。

もう、「あなただけが、そんな事言ってくれるのよ。」と思うと、

感謝するわ!

「ありがとう。あなた!」

いつまでも、色恋の気分を無くさないところは、夫の凄さだ。

 

 

では、最後に散歩中に見つけた「あざみ」の写真を。

↑道の間の隙間から出ているアザミを見つけました。

花が小さいので、ノアザミなのかもしれません。

葉はひどく尖っていて、触るとチクチクします。

以前の住まいの場所では、アザミが自生することはなかったので、

見つけた時、新鮮な感覚でした。

アザミの下にカラスノエンドウの花が見え、蔓を伸ばしています。

カラスノエンドウが群生して伸びていくさまも好きだ。

それを見ると、新緑の季節の到来を感じます。

カラスノエンドウで笛を作って、よく鳴らしましたが、もう作り方を忘れてしまいました。

その頃より、随分時間が流れたということだ。

わたしがこのように感じるという事は、ヒロク二さんにとっての時間の流れもあるということで、

どんな感じなんだろう?と思うのでした。

 

植物を見ていると、子供の頃の記憶やら感傷やら、いろんなものを思い出していました。

代わり映えのしない野草や雑草に近い植物は、

子供の頃の時間を思い出させてくれるようです。

懐かしい気持ちにというのでしょうか。

懐かしい風が吹きぬけたような感じでもありました。

 

今日は、散歩あれこれになりました。

まだまだ、ヒロク二さんを鍛えないといけない!(笑)と思っております。

都会に近い所に住んでいますが、意外と公園があって驚いています。

細道は入り組んでいて、迷路のようだし。

考えられないぐらい細い通路のような道もあって、変なスリルを感じます。

まだまだ、行ったことがない道が気になる毎日。

神戸散策に励みたい。

では、このへんで終わりたいと思います。

ブログを最後までお読み下さった方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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エネルギー(作品紹介772)と 桜と好々爺

2024-04-11 14:03:51 | Weblog

この絵は、アトリエ(仕事部屋)に貼られてるもの。

水が激しく飛び散っているさまにも思えます。

画材は、クレヨンと鉛筆。

階下に行くと、まず目にこの絵が飛び込んできます。

ガラッと引き戸を開けると、なにやらガツンと頭をやられたような衝撃が、脳に走る。

これは、最新作。

どうも武内は、歳をとっても“枯葉”のようにならず、

エネルギーで押し切りそうだ。

86歳になるのですが・・・・。

この「グミ」(お菓子のこと)みたいな形は、よく描いていたのを覚えています。

この形が人のようになったものもありました。

空中に浮いているものもありました。

今回は、対になっていて、よく見ると性別があって男女の違いを感じます。

武内の絵には、女の子(渦巻きヘヤー)や、自画像らしき男性がよく登場しますが、

男と女、恋人または夫婦のような2人の人物もよく登場します。

この絵はそのパターンにあてはまると思う。

この絵を見て、何?というのは分からないけれど、

エネルギーを出している瞬間とか、エネルギーを可視化したものであるのは確か。

見た瞬間に受けるものがある。

弱々しいものじゃない。

当人は、決して力の強い人でもなければ、精神がいつも強いという人でもない。

どちらかと言うと、ロマンティストで軟弱なタイプでもあるけれど、野蛮なところがある。

この野蛮な部分が発揮されたのではないかな?と思います。

“枯葉”にはなれない武内。

しかし、“濡れ落ち葉”にはよくなります。(妻からの弁)

 

 

気温も高くなり、散歩日和。

部屋に篭もりがちのヒロク二さんを連れ出して、

近所の入り組んだ細道を歩いています。

公園のほうを歩くと、お母さんに連れられて、楽しそうに歩いている親子がいました。

歩くのが楽しいと言う年齢なのか、

トットトト、と前のめりになりながらある一定の距離まで歩くと、

振り返りお母さんの所まで手を上げて抱き付きにいっている男の子がいました。

可愛いな、と思って見ていると、

ヒロク二さんは、「やあ!」と言って、その子に挨拶するのですが、

得体のしれない(普通の人には見えない)お爺さんは怖かったらしく、

お母さんのほうへ駆け込んでいきました。

わたしは、「今はおかしな人が多いから、知らない人に声をかけられたら注意しなさいって教えられていると思うよ。」と言った。

まじまじとヒロク二さんを見て、

不審者のような印象を受けてしまうだろうな・・・と、その風貌を見た。

この日は、子供が通る度に、「やあ!」と声をかけるので、

横にいながら、目で「大丈夫よ。」と言い、

頭を下げつつ子供達とすれ違った。

主人も随分変わったな、と思った瞬間でした。

実は、わたし達の家は、幼稚園と隣接していて毎日、子供の声が聞こえて来る。

よく子供の声がうるさいという住人がいるらしいが、

子供の元気な声は、そんなに気にならなくて、保父さんの声の方がやたら耳につく。

保父さんは、子供用の言葉のせいか、なにか変なトーンがあって、

聞いているとおかしい。

しかし、大変そうだ。

だから、子供の声がうるさいという人の気がしれない。

子供に声をかけるヒロク二さん。

なんか平和な感じで、好々爺になったという感じがした。

その公園を降りると、川沿いに桜並木があり、とても桜が美しかった。

天気が薄くもりだったのが残念でしたが・・。

↑この川は、神戸市にある宇治川になります。

↑桜は満開といったところ。

川の横は住宅街。

↑下の方へ垂れ下がる枝。

川底をバックに桜が雲のように。

↑房のように付いている花

 

↑これは、川を上っていったところ。

 

↑いつも思うのですが、桜の花の薄ピンクの色に黒い幹が見えるのは美しい。

くもりは陽射しの心配をしなくていいという利点がありますが、

空が青かったら、もっといい写真が撮れただろうに・・、と思うと残念。

桜を見ると、「西行」が桜が好きだったのを思い出す。

世を捨てたのにこんなに桜狂いで大丈夫だろうか?と思うぐらい好きだったという(笑)

こうやって、イメージを膨らまして、桜を見ていました。

ところが、「桜は、そんなに好きじゃない。」とヒロク二さんに言われてしまって、

途中から1人で花見をしていました。

桜の花は、幽玄的で花びらが散る姿も、はかない美しさがあって好きなわたし。

ヒロク二さんは、今日紹介したような絵を描く人なので、桜とは相性が悪いのかもしれない。

ちょっと・・・・・・。

今、階段をおりて、「どんな花が好き?教えて。」と聞いてきました。

百合と薔薇だそう。

百合は、谷間に生えている百合で匂いのするものがいいと。

確かに、桜とは随分イメージが違う花が好きなようです。

つかの間、好々爺になったヒロク二さん、平和的でした。

しかし、いつ豹変するか分からないから、あまり期待してはいけないと自分に言い聞かせています。

今日は、穏やかな日常の一コマでした。

こういう日もあるのですね。

今日も最後まで、お読み頂いた方ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

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春の風(作品紹介771)と ジャネーの法則

2024-04-04 18:41:45 | Weblog

薄いピンクと霞がかかったような雰囲気が、いいと思って選びました。

桜が咲いているような雰囲気で。

仮面を持った少女が飛び跳ねています。

その他に3人の人物らしき形があります。

上の方にある形は、走る勢いのせいで、建物の柱に頭をぶつけている人物がいる。

下の左には、星のアンテナを立てている人物が佇み、

右には、バンザイをして走っているような人物、

その周りを囲む水色の形は、肩をいからせたロボットみたいだ。

そして、風が吹く。

今、桜がやっと咲き始めました。

入学式にも桜が咲いているでしょう。

わたしの記憶の中では、小学校1年の入学式の帰り、

桜の木の下で写真を撮ったことが思い出されます。

一張羅のワンピースを着ていました。

臙脂色のビロードの生地に、胸元にビーズとレースが付いているワンピース。

緊張しつつも嬉しいような、恥ずかしいような気持ちで子供心に複雑な思い。

そんな時に風が吹いて、頭上に桜の花びらが舞う。

思い出しながら、「桜の咲く入学式」というのは、

なかなかいいと思いました。

今年は、そんな入学式になる子で一杯でしょう。

桜の頃の入学式、これはとても風情があるよね、とそんなことを考えました。

 

さて、わたしの思いはこうなんですが、

描いた当人は、こんなことを思っていないと思う。

この絵はボールペンで描かれているので、消すという行為は出来ません。

最初は、大きい画面で、街の絵を描こうとしていたと思います。

それが途中からうまくいかなくなった。

どこか失敗した部分が出来てしまったのだと思うのです。

そして、その絵を分割した。

そして、自分がいいと思う部分を残す。

その断片に色鉛筆とアクリル絵具で彩色する。

さらに、気に入らないところを削ぎ落とす。

こういう過程で、作られた作品だと思います。

長年、武内の絵を見てきているので、

ボールペンで描かれたモチーフの大きさで、なんとなく分かるのです。

もともと大きい紙に描いたものだろうと。

最初から、この大きさの小さな画面に描く場合だと、絵が細かくなるはず。

その上、画面の端の残し方がいつもと違う。

そういうことから、読み取れるのです。

どうしても気になる部分は、破り捨てたくなかったのでしょう。

その気になる部分は、少女と仮面の部分と推察する。

少女と仮面のフォルム(形)が一体になっていて、

カーブが流れるようになりながら、足のように思える形は意表をついていて、

残しておきたかったんだと思います。

だから、この絵を描きながら、桜のことを思ったりは全くしていないという訳です。

食下がるように試行錯誤を繰り返して、頭は画面上のことで一杯だったと。

そう考えると、上記の絵に寄せた桜の文章は、わたしの妄想ということだ。

わたしは、最近立派な「妄想家」になっていっているのかもしれない。

時々、自分でも「よーやるな」と思うことが、増えていっているのです。

じかし、イメージを膨らませていく過程は、面白く、

絵を見ていろいろ想像するのは、自由でいいと思うのです。

それぞれの人が、それぞれの思いがあって、

絵を見る自分と対話するのがいいと思うのです。

絵を見ながら、季節と相まって、わたしの中で桜が浮上したという事。

そこから湧き起こった「桜の花と入学式」の思いが、

わたしの中では大切なのよね。

それと、この絵にある風。

ふんわりしていて、どうしても春を感じてしまいます。

 

 

そんな春の日常は?と言うと、

未だ、頭が働かなくて、いつまでも調子がでない。

さあ、「これを片付けてしまおう!」と本の整理をし始めると、

急に眠気が襲ってきて、

「ここまで眠いのだったら、ちょっと寝た方がいいかも。」と思って、

横になると意外なほど寝てしまっている。

すると、夕食の準備の時間だ。

また、別の日は、ヒロク二さんが朝から、「今日は、歩くんでしょう。」と、

着替えて玄関に立っていた。

その顔を見たら、すごく変なのです。

怒っているようにも見えるし、何か不都合に耐えているような表情。

わたしは昼からと思っていたので、

「ちょっと待って。化粧してくる。日焼け止めを塗っておかないといけないから。」と言って、

準備をして1階に下りると、

今度は、ヒロク二さんが寝てしまっている。

昼過ぎになると、制作をはじめていて、服装も股引姿になっていました。

昨年の今頃は、引っ越し先を考えていて、

家探しにあっちこっちの不動産屋に駆け込んでいました。

それを思い出し、今年はちょっとホッとしているのかもしれないと思ったり。

しかし、常に眠気があり、やろうと思うことがはかどらない。

もう、年々1年があっという間で時間が過ぎるのが早い。

この前、引っ越したばかりのような気分だ。

6月が来ると、引っ越して1年が経つことになる。

この時間の感覚が怖い。

子供の頃と違い年を取ってくると、時間が経つのが早く感じられる。

この時間が早く過ぎる感覚のことを「ジャネーの法則」と呼んでいるのを知った。

19世紀の心理学者が発案したそうです。

こういう事らしい。

1歳の時に感じた1年を1/1とすると、2歳の時の1年は1/2となり1歳の時の2倍速く感じるようになるということ。

時間の早さは、年齢に比例すると。

また、これに抗うには、子供のように新しいことを始めるのがいいと、書いてあった。

その他には、年を取ってくると、身体の代謝低下に加えて、新しい体験の不足や、

さらに、未来への期待感が低下していることが、時間が早く感じる要因なんだとも。

同じことの繰り返しも、時間を短く感じさせているということらしい。

また、新鮮な体験や感情の高まりが少ないと、時間は早く過ぎるように感じると。

そう思うと、決まった時間に決めたことをするように、心がけているのはいけない?

わたしは、基本、規則正しい生活を心がけているつもり。

そうしないと、シャキッとしないと思って。

以前、ヒロク二さんから、

「規則正しい生活は嫌だ。」と言われたことがあります。

この発言、驚きでした。

「自由でいたい。」とのたまった。

また、「子供みたいだ。」と、ヒロク二さんのことを言う人がいます。

ということは、わたしと違ってヒロク二さんは時間の流れが遅いのかもしれないと思ったのです。

歳の差婚なので、25年という歳の差があります。

一緒にいて、30年以上経ちますが、精神的にはわたしの方がどんどん歳をとり、

ヒロク二さんはあまり変わらないとしたら、

うまくつりあっているのかもしれない。

そう考えると、ヒロク二さんを見習ったら、時間の経過が遅くなるのかもしれないと思うのでした。

しかし、そういう生活は疲れそうだ。

また、ヒロク二さんのような女にはなりたくないという事もある。

ヒロク二さんは、絵も新しいスタイルをいつも模索しているらしく、

同じような絵は描かない。

ある程度したら、次のスタイルが出てくる。

自分で、新しい刺激を見つけているということか?

夫は、86歳のわりには時間が遅く過ぎていっているのだと思いました。

そう思うと、恐るべし夫だ。

変人だし・・・・。

自分のことを考えている内に、

わたしの場合は、やろうと思っていることがはかどっていないという、

心理的背景があって、時間が特に早く感じるのだと思い当たりました。

なんとか、これを越えなくっちゃと思いますが、なかなか。

もう、壁になってるのかも。

春の空気に揺られるように、ゆらゆらしていると気持ちが安らぎますが、

ものごとが進まないのが難点。

ヒロク二さんから、用事をいいつけられると、「えっ!なんていった?」と答え、

うやむやにします。

 

 

今日は、ピンク尽くしということで、

あじさいのような色のビオラで終わりたいと思います。

↑ビオラなのですが、あじさいのような花色。

時間が経つと、ピンクの色が薄くなっていって、

花びらが、白に近い薄い水色に変化していきます。

不安定なビオラなんでしょうが、「あじさい」の風情。

種を継いで植えるビオラは、驚きがあって育てていて面白い。

ヒロク二さんに「あじさいみたいでしょ。」と言って、

2人で笑っていました。

 

今日は、薄いピンクのイメージが文章を書きながらしていました。

ほんわりと、春の思いにひたっていただけたら、嬉しく思います。

書いている内容が変だから、思えない?

そういうことは、ありえると思っています。

このようなブログを最後までお読み頂いた方、ありがとうございます。

 

 

 

 

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幾何学的な街(色鉛筆作品紹介770)と春のビオラ

2024-03-28 14:50:59 | Weblog

記号と幾何学模様が組み合わさった絵。

手前にある斜線が入った水色の部分がL字になっている。

手前にあるのは船なんだと思います。

そして、奥の目玉のある水色の部分と赤と黒の部分は、

対岸にある建物でしょう。

直線的な線で構成しています。

黒で描かれた線も太く、細く、その中間の線幅と、

はっきり区別するように描いていることから、

遠くから見ると空間を感じます。

モダンな街の絵ということか?

但し、目玉のある建物は蛙の顔のように見え、

モンスターのようでもあり、キャラのようにも思え、

何故か愛嬌を感じます。

当人は、普段、大真面目な顔をして描いているのが常なので、

この部分をキャラとは、まったく思っていなさそう。

ある意味くそ真面目だからこそ、出切るのかもしれません。

絵に対しては、異様に真面目で息苦しいところがあります。

言動は、人をからかったり、ふざけたりしますが・・・。

黒い部分も色鉛筆の黒色を使用。

鉛筆は使用せず、色鉛筆のみで描いています。

色鉛筆の黒というのは、

鉛筆と違い光らないので、重厚な感じの仕上がりになります。

この性質もうまく利用している作品だと思う。

 

 

 

やっと風が春めき、桜が咲くのを楽しみな季節になった。

ところが、どういうわけか頭がまったく働かない。

それは、昨日の27日がひどく、ブログを書こうと思っても、

ひたすら脳の中は白紙状態。

夕食のメニューすら決めかねるありさま。

こういう日って、とても珍しい。

1階のアトリエにいるヒロク二さんはというと、

↑いそいそと玄関の扉が開き、足音がしていたと思ったら、

ビールを買いに行っていたようだ。

鉛筆を握り締めていない時は、くつろぎモードのようで、

絵を点検していました。

近くに、おやつや飲み物、たばこ、酒、軽食、日用品を売っているショップがあるので、

病院の売店に行くノリで、よく行っている。

(入院したら、やたら売店に行くのがヒロク二さん)

ビールを買ってきたようです。

写真を見て気がついたというわたしもまぬけ!

このようにくつろぎムードでした。

わたしは、やっと花が咲いたビオラの点検へ。

↑毎年、「咲かせたい!」「種を継いで温存したい!」という黄色のビオラ。

黄色にグレーの部分があるのが、気に入っているのですが、

手前のは茶色と黄色の2色に分かれたものが混じっています。

↑こちらは、茶色のビオラと思って植えつけた鉢。

茶色のものにブッチ(花の中央の黒い部分のこと)が入ったのが咲きました。

真黄色の花と紫と黄色の2色に分かれた花が混じっています。

茶色の花は、継いだ種によっては、紫と茶色に分かれるのです。

↑ビオラをアップで。

同じタイプの種をまいてもいろいろな花が咲きます。

↑濃い赤茶と黄色のビオラ。

猿顔タイプのビオラ。

間が抜けたビオラなのですが、それなりに気に入っています。

↑アラカルトと称して、いろいろなタイプを植えつけた鉢。

黄色とブルー、白で爽やかな色合い。

↑こちらもアップで。

少しづつ違う花達。

今年は、どのタイプの花の種を採取しようかな、と考え中。

 

春の初めは、わたしは頭が真っ白。

ヒロク二さんはビールを飲んでくつろぎモード。

夕食のメニューの取り合わせが、おかしなことになりそうな予感。

来週は、桜が咲きそう。

近くの川沿いに桜並木があります。

それを楽しみに過ごすことにしようと思います。

花の美しい姿は、人の心をなごませてくれます。

だから、春は嬉しい。

 

嬉しい季節なのに、頭が働かないというのは悲しいような・・・。

はやく頭がまともになって欲しいと思い」ます。

昨日は冗談で、唐辛子のビンに、話かけました。

「あなたは唐辛子ですよね。

 こんにちは。

 今日は出番がなくって、悪かったですねぇ。

 わたしは、あなたのことが好きですよ。

 わざわざ、あなたを買いに成城石井にまでいったのよ。

 分かった?」

と、唐辛子の瓶に語りかけていると、ヒロク二さんが見ていました。

ヒロク二さんの顔を見ながら

「あっ、今ね。唐辛子に話しかけてたの。

 頭がおかしいのよ。

 もう、この家の住人は、すべておかしいのよ。

 そう思わない?」

と、言うとヒロクニさんは、ニヤニヤ笑ってました。

春なのでしょうか?

今日もブログにお付き合い下さりありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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放電(スクラップブックより紹介769)と ロアルド・ダール(マチルダはちいさな大天才)

2024-03-19 18:25:23 | Weblog

コミックのような作品。

絵の下の貼られた部分を見て、いろいろ集めているのね、と思う。

うまい具合に絵の大きさに合っています。

マジックと色鉛筆を使用。

この絵を見た時、描かれた部分も印刷されたような表面で、

自分の絵をコーピーしたものを貼っているのか?と思ったぐらい。

「放電してるじゃない!」と思い、

ビリビリする感じをこの絵から感じ取っていました。

このふざけた感じのする絵、なんか憎めません。

わたしは、武内に振り回されている妻で、怒り心頭することもありますが、

最終的に「憎めない人・・。」と思ってしまい、

トホホ・・、と思いながら笑って仲直りしてしまいます。

そういう武内の性格というか、性向を物語っているような気がするのです。

わたしにとっては、当人そのもの。

武内の立場からいうと自画像だと。

やはり、絵は作者の分身なのかもしれない。

黒に浮かびあがる線は、赤色だけでなく、青色が添えられていて、

それが電気がビリビリしているような感じを出している。

プラスとマイナスの2極の原理なのか?

そう思って描いていないことだけは確かだ。

選択は瞬時で、勝手に手が動いているから。

この絵にもスピード感があり、そうでなかったらこの絵は出来ていない。

遊びというか、実験といってような作品のせいか、スクラップブックに貼られていました。

先回の「スクラップブックより紹介768」に続き、今日もスクラップブックからの紹介です。

 

 

近頃、要領が悪いせいか、やろうと思ったことが進んでいない。

早起きしたらいいか?と思っても、

春眠暁を覚えずといった具合で寝るのが気持ちが良い。

春のような暖かい日が訪れてからは、

寒さに対抗して気合を入れていたのが緩んだようで、ぼんやりしている時がある。

図書館へ行くのに新しい散歩道を教えてもらったので、

明日は図書館へ本を返しに行こうと思っている。

そんな中、ちょっと印象に残った本があります。

「マチルダは小さな大天才」ロアルド・ダール著。

この作者は、映画にもなった「チョコレート工場の秘密」の作者でもあります。

読んでいると、ヒロク二さんからは、「その挿絵いいじゃない。シャレているじゃない。」と言われたり、

「チョコレート工場の秘密」の訳が、田村隆一だと言うと、

「へぇー。」と言い、「そうなの。」と感心していました。

ヒロク二さんは、ミステリー好きで詩人の田村隆一が翻訳しているのをよく知っているので、

「あの人が訳している!」

だから、いいに違いない、というふうに考えが流れていっていると想像する。

話は、超がつくくらい賢い5才の女の子が主人公。

マチルダという名前だ。

本が大好きで、図書館の本を次々読む。

その本たるや、

チャールズ・ディケンズ著『ニコラス・ニクルビー』

チャールズ・ディケンズ著『オリバー・ツイスト』●

シャーロット・ブロンテ著『ジェーン・エア』●

ジェーン・オースティン著『自負と偏見』●

トマス・ハーディ著『ダーバビル家のテス』

メアリー・ウェッブ著『大地に帰りて』

ラディヤード・キップリング著『キム』

H・G・ウェルズ著『透明人間』

アーネスト・ヘミングウェイ著『老人と海』

ウィリアム・フォークナー著『響きと怒り』

ジョン・スタインベック著『怒りの葡萄』

J・B・プリーストーリー著『友だち座』

グレアム・グリーン著『ブライトン・ロック』

ジョージ・オーウェル著『動物農場』●

というリスト。

(後ろの●印は、わたしが読んだ本)

この中から、これから読もうと思う本を見つけたりしながら、

この本の選択に笑いが・・・。

なんといっても、5才の女の子が読む本だからという事と、

作者が何故これらを上げたのかという思いも加わって面白い。

とにかく、知能指数が違う5才の天才女の子が登場する。

ところが、その子の親は俗物で本のことを“クズ”と言い、「もっと役に立つことをしろ!」と怒鳴る。

本を読むと怒られるやら、罵られるマチルダの押し込められた怒りは、ちいさな身体にもたまる。

そして、こう言い決意する。

「かつてナポレオンがいったように、攻撃されたときには、反撃することだ。

 それがただひとつの思慮深いやりかただ」と呟き、

冷静に仕返しのいたずらを計画するのであった。

学校へ入学すると、今度は、とんでもない怪物のような校長が待ち受けている。

ミス・トランチブルという図体が大きく、ハンマー投げの選手のような校長だ。

この校長は、小さい子供が大嫌いなのだ。

マチルダは、この校長のことを

「彼女、すごく危険な人ね。どんなにひどいことでもやりそうだわ。

 この学校にいるのは、コブラといっしょに檻のなかにいるようなものよ。

 足がすごく早くなくちゃならないわね」と言ってのける。

生徒たちは、この校長に髪の毛をつかまれ、ハンマー投げのように投げられ、飛んでいくのだ。

むりやり特大のチョコレートケーキを食べさせられたり、

耳をねじまげられたり、数々の悲惨な暴力をうけることになる。

こういう事態に助け舟を出す、優しい先生がいるのだが、

その先生さえ、簡単に牛耳ってしまうのが校長だ。

その校長への怒りが頂点に達した時、マチルダは特殊な能力を持った。

頭脳とその能力を駆使して、校長への反撃を計画する。

最後は、やっぱり賢いマチルダ!!

となって、爽快感すら感じる展開です。

このお話を「児童虐待」のように感じて、子供に読ませることは・・・。

というような感想を持つ人もいるようですが、

イギリス人らしくブラックユーモアを効かせているのだと思います。

あの怪物のような校長のセリフとか行動は、滑稽なぐらい凄い。

人間じゃなくて“熊”のような凶暴さすら感じる表現に、笑いが起るぐらい。

だから、生徒に対してもグルグル振り回して、教室の窓から飛ばす。

すべてが大げさに表現されている面白さがなんともいえない。

■セリフを抜粋すると、

「お前を見ていると吐き気がするよ!」とザ・トランチブルはさけんだ。

「お前は歩く黴菌だ製造工場だ!わたしはきょう、これ以上お前の顔を見たくない!

 顔を壁に向けて、片足で立ってなさい!」

「ごちゃごちゃいうんじゃない。さもないと、足じゃなくて頭で立たせるぞ!

 さあ、いわれたとおりにやるんだ!」

と、こんな感じ。

こう書いているうちに、中学時代の体育の女教師を思いだした。

わたしの苦難の時間。

わたしは、運動能力がなかった人だ。

その教師が、わたしを指差し、「悪い見本をやれ!」って、走り幅跳びを皆の前で1人やらされたことがあったのを。

嘘みたいな話だが、その教師の顔がゴリラだった。

悪い見本をさせられた後、「何考えて飛んでいるんだ?」と聞かれ、

「いや、特になにも考えてません。」と言うと、

「頭を冷やせ!運動場一周走ってこい!」と、木の植わっている運動場のはずれを指された。

みじめな感じで、1人走りました。

しかし、その風貌と女教師の陰険さの方が際立っていたので、それほど気にしませんでした。

それに、悪い見本をさせられるより、走る方がましだ。

時間稼ぎと思い、ゆっくりと走ったのでした。

しかし、よく指差されたものだ。思い出してきた・・。

バスケットの授業でも、ストップと言われ止ると、

「何を考えてこのポジションにいるだ!行ってみろ!」と言われ、

ボールがこないところにいるんですとは言えず、「分かりません。」というと、

また、「走って来い。」と。

なんの役割も果たさない場所にいる人間を見たら、イライラするのだろうね。

しかし、わたしは人に迷惑にならないように考えて、その位置にいるという・・。

そう、ボールが自分に来ないところにワザワザいる。

ボールがわたしの手に渡ったら、すぐ相手にボールが渡ってしまうからだ。

だから、私的には正解なんです。

それが、ゴリラの教師には気に食わないのだと思います。

急に思い出しだけれど、よく似た教師がいたものだと書きながら驚いた次第。

事実は、小説より奇なりなのでしょうか?

たぶん、モデルはいるんでしょうね。

わたしの他にも、走らされている子がいました。

体育の出来ない子が大嫌いな先生でした。

 

本の名前と著者がこれほど引用されている児童書ってないと思います。

この物語を通して、ロアルド・ダールは、「読書は素晴らしい。」

と、いうことも伝えたかったような気がします。

文中には、

C・S・ルイス著の『ライオンと魔女』

トールキン『指輪物語』

ディラン・トマス(詩)

と、イギリスの名だたる作家の名前が登場します。

イギリスの支柱となる書物が上げられているのだろうか?

作者のお薦めの著書なのか、興味深い。

 

先週の768の記事でとりあげた、花が満開でした。

木蓮と書きましたが、「こぶしの花」だったようです。

お休み前のスーパーの遅い時間は、安くなっているのではないかと思い、7時頃に行ってみました。

すると、もう花が満開に。

下弦の月とこぶしの花を見ているうちに、気持ちが高揚してくるのが分かりました。

なんとか月も写したいと思って撮ってみた。

こぶしの花は、なんと清楚で清々しいこと!

 

手にとって読む本で感銘を受けるのは、イギリスのものが多くなっていっている今日この頃。

地味な味わいが好きだ。

マチルダのように、反撃するのは、夫にだとすると・・・、

救われないわねぇ~と思いました。

 

今日は、児童書の紹介になりましたが、大人が読んでも楽しい本だと思います。

こういう大げさな人物の描写に驚いたし、それが非常にうまくいっている。

その驚きを伝えたかったのだ。

それは、伝わっただろうか?

子供でこの本が好きな子は、何回も読むそうです。

その気持ち分かるなぁ~と、思いました。

なんの足しにもならない、内容でごめんなさいね。

今日もブログを最後までお読みくださった方、ありがとうございます。

 

 

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骸骨と人(スクラップブックより紹介768)と ビート・ゼェネレーション

2024-03-13 20:01:40 | Weblog

1階は、アトリエ&居間&キッチンになっています。

机の上の横に、スクラップブックが乗っていました。

それを開けて、チラッと見たとたん、ズーと眺めることに。

以前見た時よりも、加筆されていて完成度が高くなっているページがあって、

進化していました。

雑誌や写真の切り抜きに、自身の絵の切り抜きが貼られていました。

それに彩色が加えられ、「こんな絵あったけ?」と思ったり。

上の骸骨の絵がそれになります。

目が漫画の描く瞳のようにウルウルと輝いていて、

「何だ!この骸骨は!」と心の中で叫んだ。

左の目は、月夜。

右の目は、太陽が照る。

そして、内股で憤慨する骸骨。

頭には、何か刺さっているし・・・。

見ている内に、ちょっと笑ってしまった。

骸骨のところは部分で、全体はこんな感じ。

↑この人物の写真と呼応している。

一番上の靴は、ニューバランスのスニーカーの写真。

靴底が虹色だ。

「こういう靴、履きたかったのか?」とも思ってみる。

裸足の人物の写真の上に靴。

文明との対比?

写真の人物は、米国の詩人アレンギンズバーグだ。

写真の出所は、アレンギンズバーグが撮った写真集。

これは、今で言う自家撮りでしょう。

武内は、この本を所蔵していました。

(今買うと、8800円するらしい)

この本の写真は、破り取られ部屋のあちこちに貼ってあった時期がありました。

この写真集で印象に残った写真は、

台所でぼそぼそとした食事を取りながら、憂いのある表情で写っていた老人で、

その後ろには、ジュリアン・シュナーベルの割った皿を塗りこんだ絵が無造作に飾られていました。

不思議でならなかった。

その人物とシュナーベルの絵が結びつかなくて。

シュナーベルは、1980年代に活躍した画家で、新表現主義の画家。

まだまだ、シュナーベルが有名でない頃、絵を購入するような人だったのかな、と想像したり。

 

アレンギンズバーグは、第二次世界大戦後の文学に影響を与えたビート・ジェネレーションの中心人物。

乱暴な言い方をすれば、ヒッピー文化やベトナム反戦運動とも結びついた。

時代との相性が良かったのだと思う。

裸の写真は、自然回帰の思想からと思われる。

以前、もう1人のビート・ゼェネレーションの作家、

部屋の中で、ジャック・ケルアックの「地下街の人びと」という本がやたら目についた時があった。

「これはいいから、君も読みなさい。」と言われたことありました。

「もう、地下とか薄暗いところの話?暗い話と違うの?」と言うと、

なんてことを言うのだ!という顔で、わたしを見ていたっけ?

文体、文章に特徴があるのだろうな、という事は分かる。

武内が好きな文体は、

支離滅裂な表現やセンテンスの継ぎ目にくる単語の羅列に美意識を感じるもの。

わたしにとっては、苦痛になりそうな予感があって、未だ未読。

このタイプの作家に、ウイリアム・バロウズもいて、それも好きなようだ。

彼の小説に、「ジャンキー」というのがあり、

わたしは、遠巻きに背表紙を見るだけである。

というわけで、ビート・ゼェネレーション、御三家の本が我家にはあるのです。

 

そんなことを考えていた日の夜、1階に行くと、めずらしくヒロク二さんがテレビを付けていました。

画面を見ると、若いボブ・ディランが写っていました。

(3月12日のNHKの放送で)

それを見て、ボブ・ディランの番組は見るのか・・・、と思っていると

いきなり、ボブ・ディランとアレンギンズバーグが一緒に墓の前で写っている写真が映し出された。

わたしは、スクラップブックを見てから、ギンズバーグのことを考えていたので

このシンクロニシティに驚き、ブログの内容はこれにしようと決めた。

ギンズバーグが映し出されると、ヒロク二さんは「アメリカ人てのも面白いねぇ。」と言い、

キング牧師が映し出されると、「マーティン・ルーさー・キングも素晴らしい人なんよ。」と。

その後、黒人の公民権運動の様子が写った。

それを見ながら、このビート・ゼェネレーションの思考は、

今までの価値観を否定するような動きのムーブであり、アメリカらしいと思いました。

ヨーロッパでは、キリスト教からの重圧に対抗するために、

悪徳を行う、サド侯爵が現れ、フランスの哲学者サルトルが「神は死んだ。」と宣言する。

アメリカは、イギリスのプロテスタントの人々が移り住んだという経緯があり、

こちらもキリスト教の教義がきつく、なんらかの縛りから解放されたいという欲求があったかもしれない。

アメリカでは、ビート・ゼェネレーションがその役割を担なったのかもと。

ヨーロッパと違うのは、個人の反抗ではなく、大衆性があったことだと思う。

それは、一種の文化のように伝播力があったことにも驚く。

日本にもヒッピー達がいたと思いますが、この人達はどういうことを思って感化されたのか?

わたしはこういう時代を通過していないので、単なる流行のようにとらえていて、

ヒロク二さんに「ヒッピーだったの?」と聞くと、

「俺は、ヒッピーじゃない。画家だ。」というのですが、格好がそれぽい写真がチラチラある。

頭だって赤くて爆発していた写真を見つけたら、

「愚かしいことをしていたもんだ。」と言いながら、その写真は取り上げられた。

恥ずかしい過去の写真ということなのか?

ヒッピーと言われたくない感ありあり。

また、ヒロク二さんは、ジャズやロックにも傾倒して、ロック喫茶も経営した時期もある。

その頃は、8mmフィルムを取っていたという事です。

このビート・ゼェネレーションと言われた、文学、音楽、絵画に、接近し肉迫していたよう。

芸術の分野に限り、影響を受けまくっていた感じだ。

影響を受けた作品は、もしかしたらキッチュに見える作品かもしれないし、

センテンスとして、意表をつく形や線かもしれない。

ボブ・ディランは、ギンズバーグに影響を受けたと語っています。

最後は、ギンズバーグの『吠える』の文章を一部抜粋して、終わりたいと思います。

吠える

ぼくは見た ぼくの世代の最良の精神たちが 狂気に破壊されたのを 飢えてヒステリーで裸で、

我が身を引きずり ニグロの街並を夜明けに抜けて 怒りの麻薬を探し、

天使の顔をしたヒップスターたちが 夜の機械のなか 星のダイナモへの いにしえの天なる繋がりに焦がれ、

貧乏で襤褸ぼろでうつろな目でハイで 水しか出ないアパートの超自然の闇で 煙を喫って夜をすごし 

都市のてっぺんをふわふわ超えながらジャズを想い、

高架の下で脳味噌を天にさらし モハメッドの天使たちがよろよろ 光を浴びた長屋の屋上を歩くのを見て、

輝くクールな目で 方々の大学を通り抜け 戦争学者たちのただなか アーカンソーと ブレイクの光の悲劇を幻視し、~略~

柴田元幸訳、抜粋

こういう詩は、読んで体験しないと分からないと思います。

この感じ、ヒロク二さん好きそうです。

わたしは、物語派なのでこういうのは、苦手なんです。(汗)

 

↑もうすぐ咲きそうな木蓮のつぼみ。

買い物帰りなのですが、ビルの間の青空によく映えていました。

都会にも、春が来る。

これから、木蓮の花を見るのが楽しみです。

今日は、読まないビート二クの本を外から観察しているような感じで、

説得性が薄い気もしますが、武内の感性が少し分かる内容でもあったと思うのです。

内容が分かり難いというか、分からないものが好きな人です。

感覚派なんでしょう。

今日も、最後まで読まれた方、ありがとうございます。

 

 

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発芽(メモ紹介767)と 香月泰男の絵画“苦と喜び“

2024-03-05 16:56:08 | Weblog

大きいサイズのメモ。

52×39cm。

クレヨンと鉛筆、色鉛筆を使用。

わたしは武内の絵を最初に見る人である。

そして、意表を衝かれ気持ちが落ち着かなくなる人でもある。

この絵もそうでした。

「武内の頭の中は、いったいどういう風になっているのだろう。」とか、

「いったいこれは何だ!」とか、

「これは理解されるのだろうか?」とか、

「こうやって、摩訶不思議絵画によって、食えなくなるのか?」という不安が出てくる。

そう、初めて見た瞬間、驚くのが常。

しかし、時間が経過し見慣れてくると、目が慣れるのか、いろんな思いが出てきます。

今や気持ちは春待ち状態。

そんなこともあって、発芽しはじめた種のようなイメージを持ちました。

ピートバンの上で、ちょこんと根を出し始めた種のようだと。

昨年撒いたビオラの種は、まさしくこんな感じで、その後、双葉が出てきました。

そんなふうに見ていると、このメモの絵はたいへん可愛らしく思え、

明るい気持ちになる。

この絵を見ながら、夕食を食べていると、春を考えずにはいられない。

そう思って、横にいた武内を見た。

目が合うなり、「ウクライナのことを考えると憂鬱でねぇ。」という言葉が・・。

武内は、幼少の頃は戦中で、空中から狙い撃ちされたという経験があるので、

(飛行機の荷の重さを軽くする為に、アメリカ兵が捨石のように弾を消費することがよくあったという事です。

 決して殺そうと思って打ったものじゃないらしい。

 冗談半分に打ったんでしょうと、戦時の事に詳しい編集者の方が教えてくれました。

 冗談だとしても、エグイな、とわたしは思うのですが)

その恐怖や平和がない時代を思いだして、ウクライナのことを考えているようでした。

「そういう中で、わたしが絵を描くということは、どういうことだ。」

と、切実な顔をして言い、わたしを見る。

こういう問いかけは、答えがなく難しい。

武内の苦悩している姿を見て、かなり重苦しくなって憂鬱になっているようだ。

時々、こうやって重苦しくなることも悪いことではない。

親身になって思いやっているのが良くわかる。

武内のヒューマンな面が出ている。

そこで、わたしは、

「もし、ウクライナの人が絵を見て、心が明るくなって希望を持つ絵があったらいいじゃない?」と言った。

「そういう絵があったらいいじゃない?」と繰り返した。

その時、本当にそう思ったのです。

武内は、ちょっと気を取り直したようで、仕事台の前に座りに行った。

そういう絵があるなら、見てみたいものだ。

未知の分野ということです。

 

 

こういう話題になったことで、取り上げたい画家がいます。

「香月泰男」という画家です。

よくNHK等でも取り上げられる画家で、太平洋戦争にて、ソ連に抑留されシベリアの強制労働をさせられ、

この原体験を描いた画家として、よく紹介されます。

わたしは、この<シベリアシリーズ>を見て、

「なんとも暗く辛い絵だ。」という気持ちで一杯になり、黒い絵柄が脳裏に焼きついた。

それから、香月泰男という名前を見ただけで、その絵柄が浮かび見ないようになった。

このシリーズの絵を見ると、全部同じ気持ちで埋め尽くされるからだ。

↑香月泰男《復員〈タラップ〉》1967年 油彩・方解末・木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

これが、シベリアシリーズの一枚。

↑こちらも

《ダモイ》 1959年 油彩・方解末・木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

こういう絵が、わたしの脳には、この方の絵とすり込まれました。

ところが、美術雑誌、芸術新朝で紹介されたページの香月泰男氏を広げると、

↑こんなページが出てきたのです。

こちらは、山口県にあった香月泰男宅の台所の壁画。

思わず、「台所が、なんと素敵なこと!」と、うっとりしたのです。

ここで、香月泰男氏の絵のイメージが一転したのです。

他には、パリの街角を描いたものや、ブリキのおもちゃがありました。

↑この絵は、パリの街角を描いていますが、なかなか洒脱です。

シベリアシリーズとうって変わって、軽いタッチ。

↑このブリキの人形達も洒脱で、今にも動き出しそうだ。

もう、動いているのかも。

これは、<おもちゃ箱>シリーズだそう。

その雑誌の香月泰男の特集を眺め終わってから、

あの<シベリアシリーズ>ばかり紹介するのは、やめた方がいいのではないだろうかという思いが・・・。

評価が高いのが<シベリアシリーズ>らしいが、それもどうだろうか?

わたしには、どちらも等価に思われます。

人生の中には、辛いときもあれば楽しい時もあり、その両方があるということは貴重だ。

香月泰男氏の紹介では、その両面を取り上げてこそ作家を知ることになると思いました。

そのことによって、シベリアシリーズも違った観点から鑑賞することが出来そうです。

 

最後に、種を継いで育てているビオラに新しい色合いの花をつけました。

↑電球の色で暖色がかって写ってしまったのを、

なるべく花びらの色を再現と思いカラー調整で出してみました。

グレーがかった藤色に黄色の花びら。

食卓の机に置いていると、ヒロク二さんが、「新しい顔だねぇ。」と言う。

「もう、ビオラの花が顔に見えるのなら、あなたもわたしの仲間だね。

 長年見ていると、顔にしか見えないのォ。」

と言い、笑った。

このビオラの種は採取して、今年も育てるつもり。

 

今日は、大きなメモを紹介しました。

武内の絵を見て、脳がくるくると回転していつもと違う部分に刺激が行く時があります。

その感じが伝わっただろうか?

ウクライナでの紛争のことから、わき道にそれ、

シベリアでの過酷な試練を受けた「画家・香月泰男」の絵についてを書きました。

わたしが思い込んでいたように、暗く辛い絵の画家という認識を変えて、

美と生きる喜びの絵も素晴らしいと思って頂ければ幸いです。

最後まで読まれた方、いつもありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

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花(作品紹介766)と ヒロク二さんへ水垢離の進めを

2024-02-27 14:48:09 | Weblog

和紙に顔彩の作品。

以前、わたしが顔彩の作品の束を見つけ、取り上げたことがありますが、

現在、その紙の束を、武内が点検しています。

わたしが見逃していた絵がありまして、

今回は、その一枚を選びました。

もしかしたら、以前見ているにも関わらず、気にとめなかった絵かもしれない。

少々、わたしも年を取り、絵の見方や好みが変わったりしているのだろうか?

いい意味で言えば、絵画の深みを感知する能力が進化したというふうに、自身のことを思ったり。

きっと、以前は「な~んだ。」と、この絵の前でいったかもしれない。

子供が描いたような絵なのですが、

花の形が立体的に見えて、ユニークなこと。

花びらと茎、葉がほとんど同じ太さで描かれていること。

バックのバラバラとした線が、花が立て向きなのに対して、横の動きをしていること。

黄土色の花に対して、紫~緑がかった茶色の色合い。

この4つの特徴が、調和しています。

花姿は静かなので、日本の花なのでしょう。

また、顔彩の頃は仏教にも傾倒していたので、

どことなく、彼岸を感じるようなところもある。

この頃、武内は孤独で破れかぶれになったり、気を持ち直したり、

侘びしさを抱えて、散策する日々だったようです。

(よく喋る人なので、その頃の心情をもういいと思うぐらい話してくれるのです。

 話が行ったり来たりするのを並べ替え、あの時、この時の心情を頭の中でマッチさせて聞く。

 今でも、理解不能なセリフがあって、

 「私は、きょくほくなんよ。」と言われ、字は「極北」として、どういう意味なんだろう?

 と、思いながら本人を見て、究極に寒い所にいる武内の心情??等と思っていた。

 たぶん、違うでしょう・・・。

 未だに分かりません。

 話が脱線しそうなので、(  )の部分終わります。)

この絵は、紙の白い部分が多く、余計なものが描かれていないだけに、

精神が剥きだしているように思われ、

「侘び然び」に通じるものを感じます。

実際、寂しく、侘しかったようです。

当時、話を聞きながら、「侘しかったのね。」と言ったら、

「侘しいんじゃない、おそろしく孤独だったんだ!」って、怒られた。

わたしは、心外でした。

 

 

暖かい日があり、その暖かさを味わってしまうと春が待ち遠しい。

育苗しているビオラもやっと花をつけ始めている。

緑の葉の間から、紫や黄色、白、茶色が見え初めている。

「やっぱり、花はいいなぁ。」と思う瞬間です。

ヒロク二さんは、寒さが戻ると花が萎れるが如く、弱る人だ。

パワーをアップする為に、ガスストーブとクーラーで暖房を入れる。

その異様な暖かさの中で、わたしは汗をかき、

次々と上着やセーターを脱ぎ、夕食の準備をすることも。

「寒いちゅうのは、いかん。すべてが嫌になる。」とまで言われると、

「それだけで、すべて嫌になるって短絡的すぎない?」とわたしは言う。

「それに、これだけ暖かくして部屋にいるのに。

 こうやって雨風しのげる場にいることに感謝はないの?そう思わない?」

と、説教気味な発言を付け加えた。

すると、怒りのトーンが落ち、少しまともになった。

意地悪なわたしは、トーンが落ちたところを狙うかのように、

「わたしは、入浴前に冷たい水を浴びているからね。

 最近、寒さに強くなったみたいで。

 あなたもやってみたら。いいわよ~。」

と、笑いながら言った。

すると、上目ずかいに私を見て、

「そういう人意外といるよね。修行で滝行とかあって修行僧がよくやっているのは知っている。」と。

わたしは説明した。

「わたしレベルの話なんだけど、何がいいかと言うと、

 水を浴びる前に洗面器に水を溜めるじゃない、やっぱり嫌だなって思うのよ。

 そして躊躇する気持ちがあるじゃない。

 それを思いながら、エイ!ヤ!と水を浴びると、

 思ったほど苦痛じゃなくって苦難を越えたような気がするわけ。

 普段の生活でもやってしまわないと嫌なことってあるじゃない。

 そういう時、やってしまえばいいんだって、思う時があるのよ。

 いいと思わない?」

と、締めくくり、ヒロク二さんの顔を見た。

なるほどという顔はしているのだが、好きな話題じゃないという雰囲気が漂う。

そこで、「水垢離をしているからって、それで素晴らしい人になるとか、そういうことはないと思うけど。」と言うと、

とても嬉しそうな顔に変わり、

「それはそうだよね。」と落ち着いた知的な感じで頷いている。

たぶん、水垢離で素晴らしい人になるわけないという部分に安心を感じているのだろうと察する。

だから、それはしなくていい、自分には関係がないと。

そこで、また震え上がらそうと思ったわたしは、

「それで、水垢離は夏にすると水浴びになってしまうから、冬にしなくちゃいけないのよ。

 だから、今やっている。

 瞑想の指導の先生は、真冬のつららが垂れ下がっている滝に打たれている写真があってね、

 半身水に浸かっているのよ。もう、滝の冷水にあたると、気が遠くなるって言われていて、

 身体が丈夫でないとしてはいけないと言われている。」

ヒロク二さんの顔を見ると、寒さ全開の表情だ。

暖かい部屋で寒そうな顔をしている。

「あなたも、やってみたら?」と言うと、

「やりたい人がすればいい。」という答えが返ってきました。

だけど、寒さで嫌になる発言は、この後、控えたようです。

夏に強いヒロク二さんは、夏になったらクーラーを切れと言い、

立場が逆転します。

けれども「暑いからすべてが嫌になる。」」とは、わたしは言いません。

 

 

 

最後に、育苗中のビオラ。

↑手振れしてしまいました。

今年は、紫色の花が多い。

茶色の花と思って植えた種からも紫の花。

そして、黒に近い紫色の種からも、上記のタイプの花。中央にブッチが入っているという新種(わたしのビオラでは)に。

下の3枚の花びらに白い縁があるのも、今までにないタイプです。

昨年は、蜂がよくビオラの周りを飛んでいましたので、

虫によって新しい交配が進んだのかもしれない。

去年、無かった花姿のビオラが多くなっています。

↑今、花をつけ始めているビオラ。

もう、種を継いだビオラを育て始めて何年経つのか。

上の写真のビオラとは違う紫のビオラが育っています。

花がうさぎビオラの形で紫色。

春になって、わんさかと花をつけて欲しいと思います。

 

今日は、夫の描いた絵を「侘び然び」等と、独自解釈しました。

漢字では、「侘び寂び」と書くのが一般的だと思います。

「然び」としたのは、時間の経過によって出てくる内面の本質を表すという意味になるそうで、

こちらの方がしっくりくるからです。

またもや、褒めすぎかもしれません。

パッと見たら、子供が描いた絵のように見えるという感想も

素直でいいと思っていますが。

日常は、お互い屁理屈の言い合い。

屁理屈の水垢離論でした。(笑)

今日もこのような文章を最後までお読み下さった方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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部屋(作品紹介765)と 坂道を行くと

2024-02-20 09:54:40 | Weblog

この絵は、アトリエに貼られていました。

それを見つけた時は、「この絵は素晴らしいですね。」と言われず、

「武内さんらしい絵ですね。」と言われる部類かな?と思いました。

この絵はインパクトはあるので、

つい目がいってしまう絵で、その度に眺めていました。

電球みたいに見える顔の部分はピンクのクレヨンで描かれていて、

それが目立つのです。

ブログを書く前に、この絵のことを聞いてみようと思い立ち、

「この絵について、何か言って下さい。作者として、何か一言ないですか?」と聞いた。

少し笑いながら、「見る方が、好きにみたらいい。」と言う。

はぐらかされているような感じでもあるので、

「それはそれなんだけど、作者としてこの絵について一言でもいいから言って欲しいのよ。」と、食い下がる。

そうしたら、「この絵は1分ぐらいで出来たからねぇ。」と言い、

「こういう絵は、描いている内に派生する絵で、この絵以外にもたくさん出来てくるんだ。

 例えば、今描いている絵があるだろ、(目の前の絵を描く振りをしながら)

 ちょっと行き詰った場合、この小さな紙をこっちへ持ってきて、(横に重ねられている別のメモを取り出す)

 これの続き・・・・、続きというわけでもないか・・、

 このメモに色を擦り付けて見ると、勝手に手が動いて出来てくることがあるんだ。

 失敗というか、全然ダメなものもあるけどねぇ。

 この絵は、そういうふうにして出来上がった絵で、

 顔の表情がキュートに仕上がっているから、壁に貼っている。

 この絵はそれ以外なにものでもないよ。」と。

思うような答えは返ってこなくて、過程の話が詳しく語られたのでした。

「好きに見たらいい。」と言われましたので、

わたしの主観的見方を言いますと、

“窓辺にある卓上照明“のように思いながら見ていました。

コンセントが伸びていて、スイッチらしきものまであるという具合に。

窓の外は、嵐で、怪しげな屋敷の一角。

錬金術でもやっていそうな人物の住まう部屋。

怪しさが全開の絵と思っていました。

鉛筆とクレヨンで描かれています。

先ほどの話からクレヨンで描かれた絵は、

わりと短時間で仕上げているのかもしれないと思いました。

1分というのは、本当?

大げさに言っている感があります。

 

 

2月というのに、暖かい日がありました。

その日は、ヒロクニさんが散歩すると言うので、

このチャンスを逃してはいけないと思い、家の用事は後回しにして散歩に付き合うことにしたのです。

家の近くにある坂を登るというのでついていきました。

すると、小さな公園があり、滑り台やブランコがあり、その近くに保育園があったのでした。

さらに上に行く階段があり、上ると高台のようになっていて、

葉の落ちきった木と鉄棒だけがポツンとあり、

座る所もなく、私達は突っ立っていた。

あまり手入れをされていないようで、地面にはあちこち石が転がっていて、

頂上の公園は、子供は危ないからいくなという注意をされているに違いない。

周りを見渡すと、近くに山が迫り、下には民家と畑があり、所々に葉ものを植えている様子が見て取れる。

頂上は殺風景で、寂しさを感じる公園だ。

山の方を見ると、山の中腹に寺が立っているのが見えたり、

禿山になっている箇所が、目の前にせまって見える。

このせまり方が神戸だな、と思う。

この日は、いい天気で春の陽気すら感じる日だった。

そのせいかヒロクニさんは、薄紫色のセーターに黒のジャケットといういでたちで、すっと立っていた。

背筋がまっすぐ伸びて、立っている姿は一本の棒のようだ。

家で見る姿は、よれたトレーナに股引姿で、ぶつくさ言う口というのが固定されているので、

「この人、外にいる姿の方がいいんだ。意外と見栄えするな。」と思い、

いつもとは違うヒロクニさんを見たという感じ。

御歳86才、今年で87歳だ。

個人差はあれ、86歳でこの感じはいいのかもしれないと思い、

やっぱり普通の人とは、エネルギーが違うのかもしれない等と思う。

家にいても絵を描いている時も、椅子に背もたれはなく丸椅子で前かがみになって制作。

そして、足を踏ん張っているらしい。

今でも長時間制作だ。

以前より、仮眠を取るとぐっすり寝るけれど・・・。

歩くことを生活に組み込んでくれたら、きっとパワーアップするに違いない。

やはり、もっと歩かせないといけない・・・と決意した。

わたしの周りで、1日に1万5千歩~2万歩を歩くという目標が掲げられている。

わたしもよく歩いたと思っても1日8千歩止まりなのだ。

大体、6千歩がいいところ。

そう、ヒロクニさんが現役でいる為には“歩くこと”だ。

まず、意志を持ってもらわなくてはいけない。

そこで、自ら買い物へ行くとあちこちと回り、歩数を増やす。

帰って来てからは、「歩くと、やっぱりいいわね。」と言い、

「わたしも年齢より動けるようにしておかないと思ってね、

 身体は動かしておかないと錆びると思うわ。」と言う。

こうやって、お前も歩くのだという啓蒙をしているのです。

時々、そうかもしれないと思うのか、

「春になったら、街に出るから一緒に行こう。」と言うことが増え、

「春になったら、小旅行しよう。」と。

そして、時々玄関がガラッと開く音がする。

股引姿で、家の近くを歩いていたようです。

歩くことを気にしているようで、効いてる~と思いクスッと笑ってしまいました。

お年寄りは気遣ってあげないといけないとは思いますが、

我家の場合は、老体に鞭打つ、負荷をかけ、元気を維持するという論理に落ち着きそうです。

後は、実行するのみ!

ここをヒロク二さんがクリアするのが難しそうだ。

口ばかり動く人だからね。

 

 

突然の暖かい日が訪れ春が待ち遠しくなりました。

以前の住まいで植えていた花、2013年の庭の写真から。

↑ヒヤシンスの球根が大きかった頃の庭。

手前は、プリムラとカルーナをあわせて石で囲ったりして、

うっとりとしていたのを思い出します。

↑こちらは、亡きジルと桜草。

外が好きな猫でした。

友人の猫ちゃんの訃報を受けて、飼い主の心配をしていたので、

思い出したのでした。

かつての猫達を。

キタハマも可愛かった。

 

今日は、散歩から目標2万歩(どんな周りかは秘密)という出来そうにない話。

目指せ、2万歩ということで終わりたいと思います。

老人は、鞭打て!わたしにも言い聞かせることにします。

たいしたことない話題を長々と書きました。

最後までお読み下さった方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

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少年の雲(色鉛筆作品紹介764)と小澤征爾氏のサン=サンースを聴いて(追悼)

2024-02-12 22:48:25 | Weblog

色鉛筆で描かれた作品です。

右下の空間にタイトルと描かれた日のことが書き込まれています。

「少年の雲」2011.4月と。

古代に描かれた地上絵のような雰囲気もしなくもない。

赤茶で描かれた野太い線がそう思わせるのでしょう。

しかし、タイトルは「少年の雲」となっています。

最初は、緑の線で囲まれた形が、小さな雲のように思い、

これが少年の雲なのか?と思って見ていました。

ちょっと離して見ていると、

この茶色い線で描かれてのが、少年を表し、

水色の部分が空の青で、残りの部分は全部雲なんだと思い至りました。

この絵を眺めていると左方向へ雲は流れ、

雲は流れにまかせて形を変えていっているようです。

そう思うと、緑の線で囲まれた形は、千切れ雲のように思え、

手前の雲なのか、奥の方にあるのか?と思ったりして、

雲が揺らいでいる様子を感じたり。

平面的な絵なんですが、ゆったりした動きがあって、

ちょっとふわふわした浮遊感覚が味わえます。

遠目で見ると、楽しくなる絵かもしれません。

 

 

小澤征爾の訃報を知り、驚いていました。

ヒロクニさんも「惜しい人が亡くなるのは、寂しい。」と。

以前、小澤征爾指揮のサン=サーンス の交響曲のCDアルバムをひきりなしに

拝聴していた時期がありましたので、寂しい感情に襲われました。

失う感覚といいましょうか。

ヒロクニさんは、このサン=サーンスの交響曲を聴きながら、

空間のことを考えるヒントになっていたそうで、

指揮する小澤征爾氏になったつもりで、空間を指差し、混ぜ、かき回すような仕草をしていました。

そして、なんらかの説明を力説します。

それは、「こっちの空間から、ここを取り出して、また送り返す。」という具合で、

自分の絵画造りと重ね合わせていたと思います。

そのこともあり、長い期間聴いていました。

わたしの方は、ヒロクニさんが言う空間の発言もあり、

空気が大きく広がっていき、また寄せてくる空気の動きが大きく循環していくような感じがいい、

と思いながら聴いたものです。

また、ひとつの時代が終わりを告げているようでもある。

昭和の世代の人が亡くなると、

どんどん新しい時代に突入していっているというのを身近に感じるのです。

それでも時間は過ぎて行く。

次の時代のことを思うと、「わたしも昭和よね~。」とつくづく思います。

 

 

 

最後に、小澤征爾氏の指揮の演奏を。

サン=サンースの聴いていたアルバムを失念していて、見つけられませんでした。

そこで、ヨーヨーマのチェロ演奏も好きなので、

上記のものを選びました。

武内からは、ヨーヨーマが好きだと言うと、「何で、そんな奴がいいのか?」と言われるのです。

「だって、育ちも良さそうで、この柔和な笑顔。そして、このチェロの音色。

 それに東洋人らしく、時々一歩引くという技も持っていて、いいの!」

と言い返します。

一歩引いた後で、前に出てきたりとして、ベートーベンのピアノソナタでは

遊び心もあり、名演でした。

そんなことも付け足して言うと、

ふ~ん、という顔で、

アファナシェフのCDを置いて行きました。

その趣味を見て、ヒロクニさんらしいと思ったものです。

↑こちら

「ピアノ界の隠者」とか、「ピアノ界の鬼才」と言われているようで、

ヒロクニさんらしい選択。

激しい印象でしたが、独特なものを感じました。

しかし、わたしは穏やかだけど遊び心もあるヨーヨーマが好きなのでした。

ヒロクニさんは、「色鉛筆画の鬼才」と言ってもいい存在。

淡くてさっと塗るという色鉛筆画から、逸脱し、

筆圧強く塗りこめる執念の塗りと、独自の絵柄。

アフェナシェフの鬼才ぶりと通じる部分があるのかもしれない。

 

「世界の小澤征爾」と言われた指揮者。

惜しい人が亡くなったと思います。

ベートーベンのような風貌になっていました。

大きな存在を亡くしたと感じます。

ご冥福をお祈り申し上げます。

 

今日は、訃報を受けてから思っていたことを書きました。

音楽を聴くと、その聞いていた当時の心情や時代背景がすぐ思い出されます。

普段忘れていたっことも、音楽を通してよみがえってくることもよくあります。

音楽というのは、時間や空間と心に密着する不思議なものだと思いました。

サン=サンースを聴いていた時のアトリエの雰囲気や、時代が持つスピード感などもよみがえってきます。

人の記憶と音楽も密接な関係にあると思うと、不思議です。

そして、豊かな気持ちになれるなら、とても素晴らしいことだと思いました。

 

今日は、短めの文章になりました。

だけど、あれこれ思いをまとめるのに2日も要しました。

我家では、音楽担当は武内の役目になっています。

音楽なしでは生きていけないヒロクニさん。

それぐらい音楽好き。

その横で、あれこれ聴いているわけでございます。

今日は、夫を「色鉛筆画の鬼才」とか書いてしまい、褒めすぎかもと内心思っております。

今日もお読みになられた方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

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