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アルファロメオと小倉唯

『分かれ道』レビュー②

ジュディス・バトラー著『別れ道 ユダヤ性とシオニズム批判』

(原題Parting Ways-Jewishiness and the Qritique of Zionism)

 

今回は、第一章と第二章を読んでのレビューになります。

 

このパートでは、故国喪失(エグザイル)、離散(ディアスポラ)、被迫害の運命を担ってきた「ユダヤ」の民が…

 

「シオンの地」に国民国家を建設し、その際に、今度はパレスチナ人を故郷から追放し、離散させ、迫害して来たこと。

 

その正当性について論じています。

 

(ものすごくざっくりと言えば)

 

まず「ユダヤ人」の中のシオニストの立場というものは、基本的に…

 

(少なくともイスラエル国家建設に関わり、それに賛意を表明していた人々については)

 

「我々は歴史的に追放され、虐げられてきた。『本質的に』そういう運命にある民族なのだ」

 

「だから我々自身が歴史の中で追放する側、虐げる側になるということは『あり得ない』ことなのだ」

 

(日本人のように歴史の中で比較的恵まれて来た集団には理解不能の理屈ですが)

 

という理屈に貫かれている、という内容のことをバトラーは語ります。

 

そして、それに異を唱える者はみな「反ユダヤ主義者」だと決めつけられる(たとえその人物がユダヤ人であっても)。

 

ナチスによる「ホロコースト」の悪夢の洗礼を受けたヨーロッパや北米の人間を黙らせる効果としては…

 

「反ユダヤ主義」というのは、絶対的な威力を持っているようです。

 

たとえその人が、古典的リベラリズムに沿った見解を表明し、同時に徹底した平和主義者であるとしても…なおかつ新しい政治体制への移行は絶対的に非暴力的手段を通して…行われるべきだと固く信じているとしても…「暴力」と「破壊」に繋がると非難されるのである。「こうした見解はユダヤ国家の破壊につながる」として。

 

「反ユダヤ主義」のレッテルがそれほど嫌で怖いものであることも、私には理解できないのですが。

 

もし(イスラエル国家の成り立ち、政治行為、軍事行動に関する)正当性の問いを提起することが、宣戦布告と見なされてしまうと、正当性の問いは政治の領域に入って議論されることが許されなくなる。

 

と著者は書いています。まあ、そうですよね。「問い」を提起しただけで「敵」認定されるのでは…

 

議論にさえならない。

 

さらにここでは、ハンナ・アーレントや、マルティン・ブーバー、エマニュエル・レヴィナスら…

 

ユダヤ系の論客たちと、それと、パレスチナ人のエドワード・サイードが引き合いに出されます。

 

たとえばユダヤ系の哲学者エマニュエル・レヴィナスに関して、バトラーはかなり辛辣な意見も述べています。

 

レヴィナスは、イスラエルを一種の歴史の中での「例外的なもの」とみなし…

 

イスラエル国家の役割を「永遠かつ排他的に迫害されるもの」そして定義からして「決して迫害しないもの」としてレヴィナスは主張する…

 

そして、たとえばこういう記述は、私にはかなりショックでした。

 

レヴィナスは…露骨な人種差別をともなって、「アジア諸民族と低開発国の諸民族の無数の大衆の台頭が、ユダヤの普遍主義という新たに見出された真実性を脅かす」と主張している。これがひるがえって、倫理は「異国文化」に基づかせることはできないという、彼の警告と共鳴することになる。

 

そしてレヴィナスは…

 

「希望を持ち生きたいと望む、この無数の群衆たちの飢えた眼差しのもとで、私たちユダヤ教徒とキリスト教徒は歴史の周辺に追いやられ」ると書いている、と。

 

「野蛮主義としか呼びえないものにおける」こうした傾向の台頭と戦うために、彼はキリスト教徒とユダヤ教徒が新たな親族関係をむすぶよう呼びかけるのである。

 

こうした記述をバトラーは…

 

イスラエルと問題のあるかたちで同一化されたユダヤの民の、そして迫害されても迫害することのないものとして形象化されたユダヤの民の、およそあり得ない、常軌を逸した説明である…

 

と評しています。

 

日本にも信奉者が決して少なくはないレヴィナスのような哲学者・著述家が、このようなことを書いていたというのは、衝撃的です。

 

アジア人に対する、明確な蔑視。

 

ハンナ・アーレントの著作の中に、アフリカとアフリカの民への無知と偏見が垣間見える記述を見出したときと同じような失望感でした。

 

そのアーレントを、私は「政治的にもシオニスト」であると認識してしまっていたのですけれど…

 

彼女は1972年になってのインタビューで「1943年以後、シオニストとは縁を切りました」

 

と語っていたようです。

 

さらに彼女は、自身ユダヤ系であるのに「ユダヤの民への愛の痕跡が全く感じられない」との批判に対して、こう回答していると。

 

私は自分の人生の中で、何らかの民とか集団を愛したことなどありません。(…)私が本当に愛しているのは、私の友人たち「だけ」であり、私が知っていて、信じている唯一の種類の愛というのは、個々の人に対しての愛だけです。

 

これに対して私としては、個人的にシンパシーを感じます。

 

ジュディス・バトラー自身は、ユダヤとパレスチナの双方の民が「共存」する形を求めているものの…

 

一国家解決案(ワン・ステイト・ソリューション)や二国民主義(バイ・ナショナリズム)の理想とは非現実的な目標であると一般に語られる。

 

と述べています。

 

そのためには…

 

ナショナリズムを解体し、その主張に反駁し、その範囲を超えて考え感じる実践に、着手する…

 

ことが必要だと。

 

ここでバトラーは、パレスチナ系アメリカ人の文学批評家、作家のエドワード・サイードの思想を引き合いに出して述べます。

 

自らのナショナリズムに距離を置き、境界を分析の中心に据え、ナショナリズムのエートス集団に共有される倫理的な態度)の脱中心化(自己中心的な認識から抜け出すこと)を許容すれば、そのときはじめて倫理的・政治的提携が実現され得る…さらにこう付け加えようか。これが、軍事化された国民国家のナショナリズムか、国家を知らぬ民族のナショナリズムか。その区別は重要である。

 

しかし現実にそれを多くの人に実行させるのは、限りなく不可能に近いぐらい難しいこと。

 

パレスチナ人であるサイードも、ユダヤ人であるバトラーも、それを知り抜いているはずです。

 

それでもなお、もしそれができないのならば、未来はどんな悲惨なものになって行くか、想像もつかない。

 

バトラーは言います。

 

不可能な責務、そしてそれゆえに、いっそう必要なもの。

 

 

 

最後にガザ地区からの今のレポートを。

 

 
 

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