舗道に女が1人と男が1人。女が男に鞄を渡し、塀を跨いで向こう側へ。男は上に乗ってから飛び降りる。このアクションに合わせてカメラは塀の向こうの2人を映す。画面やや右側の路地の両脇には建物が建っている。その路地を女は歩く。数歩進み、ゆっくり2回側転をする。手前の男は歩みを止めてそれを目撃する。「壁」を「超えて」「壁の向こう」へ行くというアクション。「壁」という境界線を越え、束縛多き息苦しい「社会」の「外」へ抜け出るという、束縛から解放されるというアクション。夢のある、イオセリアー二のような感覚を覚えるアクション。女は、2回、側転をする。その瞬間の真空、無重力。
しかし、その向こうはただの舗装された道路だった。そして時は夜だった。路地にはネオンの明かりが。
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モーリーとチチは花壇の置かれた塀の前に座っている。チチがタバコを取り出すと、モーリーは顔を近づける。一瞬おいて、右手の吸いかけのタバコを取り上げ咥える。2人はタバコの先を咥えたままくっつけて火を移す。昔の学生時代を思い出すかのようなこの所作。口づけのような格好の所作。少しの頑是なさを感じさせる所作。2人の親密さをふと映す所作。
これらのショットが私には愛おしい。
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みっともない映画ではあった。ダラダラと長く、ラストもダラダラと延びてしまっている。だけれども、このみっともなさが私には泣けた。
変化しハネケの「71フラグメンツ」のそれへ近づきつつある人間関係。それに目を向けつつも人間性への信頼を捨てきれないヤンの迷いを感じる。
作家が飛び降り自殺を図るショットの前、隙間なく走る車の列がその騒音と共にスクリーンに映される。「71フラグメンツ」では同じように走る車列を移すショットがある。但し、ヤンのそれよりもライトが青白い。この映画ではストレスを感じる出来事が人物に降りかかり続ける。ハネケの「71フラグメンツ」では更に苛烈にそれが描かれている。
恋人を捨て友を捨て、自らの価値観も捨ててひたすら組織にしがみつく。この振る舞いのできぬ、「フリ」のできないモーリーやチチ、アキン、ミン。みな高校時代からの同級生だ。
最後、彼らは、恋人、友、価値観ではなく職と地位と体裁を捨て、自らの価値観に従う。恋人チチと別れ、エレベーターに乗ったミンは階のボタンを押すのをためらう。結局押さず、扉を開ける。そこにはチチの姿が。彼女も戻ってきて開閉ボタンを押したのだ。「夢」は戻ってきた。本心を問われ自問自答に陥った「古き良き夢」は、自らの気持ちに、価値観に確信を持ち、帰ってきた。
ハネケやフランコであればこんなラストはあり得ない。辟易する出来事の間に入り込んでしまう、入れずにはいられなかったショット、そしてハッピー・エンド。この映画に滲む、ヤンの踏ん切りのつかなさを、戸惑いと困惑を、迷いとみっともなさを、人間性への信頼の揺らぎを私は想う。ラストの「それでもやっぱり…」に涙が浮かぶ。