久保田学園 代表(ボス)のライフヒストリー後編

インタビュー

30歳まで二足のわらじ

大学卒業後、自宅や間借りのアパートで、20人ほどの生徒に勉強を教える傍ら、資格試験の勉強も続けていた。この頃は、まだ塾一本でやって行く自信はなく、会計の勉強との二足のわらじを履いていた。
勉強を教えることが好きだというだけでなく、この頃は兄も国家試験の浪人中で、弟は医学部の学生。父を含む男4人が、一時的とはいえ無職だったことも、塾を始めたきっかけの1つだった。
なので当時は、今でいう「ビジネスモデル」があってやるような立派なものではなかった。

3年ほど間借りしていた所で教え、その後、生徒数の増加とともに、第一号の自社物件である菊水教室ができた。
今では、ゴキブリと古い机等が置かれた倉庫になっている(笑)。

久保田学園 菊水教室

当初はボスも若かったので、授業だけで終わりではなく、時間を無視して、子供ができるまで残してやっていた。
「中学生は地震の前までは、夜12時頃までやっていた記憶があります。」
まだ生徒数が少なかった頃は、高校生の授業が終わった後に、生徒と一緒に屋台のラーメンを食べに行っていた。
その後、ラーメン屋台が勝手に塾の前まで来るようになったという。

当時の塾の社会的地位

25歳まで夢中でやってきたら、町内ではそれなりの存在感が出てきた。
でも当時は塾の社会的地位は非常に低く「塾があるから受験戦争が激しくなる」という論調があり、裏家業として捉えられていた辛い面もあった。
とにかくネガティブな評価がつきまとっていた。
近所の知り合いのおばさんが、ボスの母に「息子さん、塾の仕事してて大丈夫?」と、心配して尋ねてくれるほどだった。

「50年前、当時の塾は確かに今と違ってレベルはそんなに高くなかったことも事実です。また当時は教室を探すときにも銀行は塾にお金を貸してくれないし、神戸市の物件など公共的な建物には入れませんでした。それが今では本部を始め、5.6ヶ所は神戸市の物件に入ることができていますが。」

決め手は教えることの楽しさと喜び

教えることと並行して会計の勉強もしていたが、やっぱりボスにとっては「教えることの方が楽しいし喜びを感じる。」と、塾の仕事を本業にする可能性が高いと感じ、「その為には教育を仕事にするならば本格的に指導法について学ぼう。」と、塾で教える傍ら、関西の国立大学で教育学を30歳まで学んだ。
「自分にとって何が本当に向いているのか30歳までは勉強して、その時点で決断しようと思っていました。」
当時、教育心理学としては認知心理学という新しい分野が注目されていて、これらの学びが、その後の指導のベースになったという。
ボスのマルチタスクの鬼っぷりには、本当に頭が下がる。

この頃から塾もさらに順調になり、熊野教室を開設。そして30歳の時に、塾を本業にすることを決意。

久保田学園 熊野教室

大手競合の出現

でも、近所に大きな塾ができると、心穏やかではいられなかった。
久保田学園の生徒数が100人程度の時に、近くに1500人の生徒がいる塾が登場。
「このとき生徒に『先生、ここ潰れるんとちゃう?』と言われたときはドキッとしました。」
おかげで指導にさらに熱が入り、10年ぐらい経つと、トップ校・兵庫高校への合格者が増え、近隣の大きな塾と、生徒数もイーブンに。
それと同時に北区からの生徒も増えてきたことで、北区の生徒も通いやすいようにと、パークタウンの東側の湊川に教室を移転。
その頃には、兵庫高校生の兵庫区からの進学者の半数以上を、久保田学園の生徒が占めるようになってきた。

高校部も上手くいくようになったら、今度は大手の3大予備校が神戸に進出してきた。
元々神戸にも予備校はあったが、従来の予備校に対しては、それなりに優位性があった。
しかし、この3大予備校進出の際には久保田学園の高校部講師からも「うち、潰れるんと違いますか?」と声が出るほどの衝撃が走った。
「それでも大手だからできないこともあるし、うちのように小さいからこそできることもある。」と考えていたし、無くなってしまうような事にはならないだろうと思っていた。

1番大変だったのは阪神淡路大震災の時

むしろ今までで1番大変だったのは、阪神淡路大震災の時だった。
久保田学園も、熊野教室が全壊するという被害に見舞われる。
取材準備をしていた時に、HPでこの事を知り、驚くと共に「あれ?でも地震のあとも熊野教室って使われてたよな?」と疑問に思っていたので、ボスに直接聞いてみると「うん、地震で潰れた後、もっかい建て直したんです。」とのこと。
しかも「熊野教室はね、実は地震の直前に改装工事してて、それがやっと12月に終わってね、さぁリニューアルオープンや!って時にあの地震でぺしゃんこやん!あれはもう、たまらんかったよ!」

さらに地震で会下山の一部が崩れ、神鉄の湊川駅ー長田駅間が不通になった。そのため、高校部の生徒が多く通っていた兵庫高校が、地震後しばらくは鈴蘭台に移転。北区の久保田学園の生徒が、湊川まで来ることが不可能になってしまった。なんとか神鉄長田駅近くの幼稚園を、夜だけ借りることで授業を続けた。毎日お昼に幼稚園に行って、園児用の机と高校生用の机の入れ替え作業が大変だったそうだ。

当時小5だった私は何も知らなかっただけで、あの時はボスもそうだし神戸の大人の人達が、あの大変な局面を乗り越えてくれたから今の神戸がある。

それまで経営面には無頓着だったボスだが、この時に、塾はできなくても、複数ある教室の毎月の家賃と、講師への給料という固定費は発生することに直面し、教育だけでなく、経営面もしっかり考えていかなければと思うようになった。
それでも豪放磊落なボスなので、昔は手渡しだった月謝を、バイクの前カゴに無造作に入れていて盗まれたり、教室の大掃除をしていたら、月謝の束が出てきたりしたこともあった。
ボスを知る人なら「なんてボスらしい!」と笑うと思うが、ボスは本当にそんな人だから、みんなから愛され慕われている。
この件以降、月謝は引き落とし制になった。

現在もとどまることのない教育への情熱

ボスの教育に対する基本的な考え方は『子供に魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ。』
『分かる』や『できる』も大切だが、教育のゴールは子供が1人で生きていく力を身につけさせることだと思っている。つまり自立させることだ。子育て中の者としても、これには本当に感銘を受けた。

生徒だけに留まらず、ボスは講師育成にも大変意欲的。
塾講師が向いている人材としては「まず何よりも子供に興味がある人、自分で自発的に考えて取り組める人、あとは仕事に対する思い入れね。こういう人は必ず伸びていきます。でもそれは結局、他の仕事でも一緒やろけどね。」と仰っていた。
現在も、年間80回以上講師研修を行っている。
「元気なうちは毎日でも研修したい!」と、イキイキされていた。
「うちの歴史は人が作ってるから。」という言葉が印象的だった。
久保田学園は、講師の滞留率が非常に高く、私が小、中の頃に教えてもらっていた先生が、他にも何人も残っている。
もちろんどんどん新しい人も入ってくるし、アルバイト講師を含めると、現在、久保田の講師数は250人を超えている。
逆にいうと、ボスがそれだけ魅力的だから人が付いてくる、とも言える。

2015年に実施された兵庫県の学区再編でも、状況は大きく様変わり。
神戸、芦屋と淡路島が統合され1つの学区になったことで、これまで地元第二学区のトップ2だった兵庫高校と夢野台高校のポジションが大きく変化。
統合後の学区では、長田高校と神戸高校がトップ2。
そして神戸の人口の割合と同じで、今は兵庫高校の生徒の半数以上が、垂水や西神から通ってきている。

そして『三宮の壁』なるものが存在していて、三宮より西からは東側の高校にすんなり行くが、逆に三宮より東からは西側の学校に来るのを躊躇する傾向にあるのではないかと、C先生は冗談半分で言っていらした。
東の人から見たら「西側は下町やから怖いし不安」というイメージがあるのかも知れない。
来てみたら拍子抜けするぐらい普通の町なので、安心して通って来てもらえたらと思う。

現在久保田学園は、そんな情勢と、地元の兵庫区に子供の数が少なくなっていることもあり、垂水や西神を中心に、従来のライブ授業に加えて個別指導のスリーアップと、映像授業の河合塾マナビスを含め22拠点を持つ、神戸で最大手の塾のひとつになっている。

ボスの愛されキャラによる風通しの良さ

久保田学園では、他の企業で役員をやっていた人にも中に入ってもらっている。
「ずっと中にいた人ばかりだと分からない事も多いからね。」
と、ボスは72歳になった今も講師研修を中心に、精力的に活動している。
C先生は「でもボス、多分、今が1番元気ですよね。」と笑っていらっしゃった。

取材の際、ボスが何かの拍子に「僕も今流行りの過激発言で注目をあつめてみよかな。」と冗談で仰ったのだが、それに対してG先生は「ボスが過激発言しても、みんな半笑いで聞いてるでしょうね。」とツッコんでいた。
ボスは本当に偉ぶらない愛されキャラなので、周りも言いたい事が言える風通しの良さが、本当に素晴らしいなと思った。
G先生も「僕も仕事でたくさん大企業の社長さんにお会いしてきましたけど、ボスみたいな人ってなかなかいませんよ。」と仰っていた。

久保田学園OBの村上たつま議員のコメント

また、2019年に神戸市会議員選挙兵庫区選挙区で、当時最年少26歳で初当選された久保田学園OBの村上たつま議員は「僕は中1の冬から高3まで久保田学園に生徒としてお世話になりました。姉が先に久保田で講師のバイトをしていたこともあり、大学受験直前にボスに『大学生になったら久保田でバイトしたいです』と直訴したところ、間髪入れずに『いい!』と言って頂き、大学入学後から選挙に出る直前まで、生徒時代を含めて足掛け12〜3年ほどお世話になりました。」
ボスは現在、村上議員の後援会の役員も務められている。
「久保田学園は、卒業後の人生もずっと応援してくれますよね。こんな塾はなかなか無いと思います。」と村上議員。

生徒時代のボスとの思い出を伺うと「中3の受験前にボスから激励の言葉をいただいたのですが『不安になったら手のひらに平仮名の【ご】を5回書け!【ご】を書く!合格や!』と言われ『いや、ほな書くのは1回だけでいいじゃないですか!』と思わずツッコミました。なんで5回書かせるのか、意味が分かりませんでした(笑)」と笑う一方で、講師として見た久保田学園は「生徒時代には分からなかった、良い意味での効率の悪さに驚きました。授業料以上の+αのサービスの部分がものすごいんです。先生方は、これを昔から何十年も続けてこられてきた事を目の当たりにして、本当にすごい塾だなと感じました。」

最後にボスへの一言をお願いすると「ボスは本当に人柄が素晴らしいので、死ぬまで現役で頑張ってください!」とのこと。

生涯現役です

ボスは「これからも社会的にやるべきことを『きっちり』とやっていく。生涯現役です。」と仰っていた。
聞きながら、C先生の「良い意味でのいい加減である『良い加減』が久保田の特長やから。」という言葉が頭をよぎった。
久保田学園は『きっちり』と『いい加減』という相反するものが両立する、類稀なる塾なのだ。
ボスはとても勉強熱心で真面目な人だ。
でも、ちょっと抜けているその人柄が愛嬌になって、これだけ周りから愛されての50年なんだということが、今回インタビューをさせて頂いてよくわかった。

こうして、たまたま久保田学園50周年の節目の年にお話を伺わせて頂けたことにも、また勝手に深いご縁を感じている。
久保田は私にとって実家のような感覚だと、この日久しぶりにおじゃまして実感した。久保田のOBの方々にとっても、やはりどこかで心の故郷になっているのではないだろうか。
これからも地域に愛されるボスで、そして久保田学園であってほしい。

大変僭越ながら、今後の久保田学園の益々のご発展を祈念して、この記事を締めくくりたい。
「いや、お前こそもっとがんばれよ!」というツッコミがあちこちから聞こえる気がするのは気のせいだろうか。

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久保田学園 代表(ボス)のライフヒストリー前編

編集長

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神戸を愛し神戸に愛され続けて38年😆👍(つまり38歳)人と喋ることと文章書くことが好き過ぎて、うっかり編集長になってしまったタイプです。神戸及び兵庫県の『人』をクローズアップしたインタビュー記事をメインに、神戸っ子たちのコラムも充実♫ 地元の人にも神戸以外の人にも、軽〜く友達感覚で読んでもらえたらうれしいです😊💓

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