岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

泡沫

今はまだ「明るい声」を言葉では説明できない。作り笑いなどの接遇技術とは無縁のものだ。天真爛漫とも少し違う。希望に満ちた声、それだけではまだ何か足りない。何だろう。

明るい声とは、吉凶いずれに転ぶかは分からないけれど、自分のすべてを投げ出してひたずら至上者の審判を全面的に受け入れる決心をした際の声である。全てを受け入れるために全てを投げ出せ。自分はいつでも無だ

年がら年中明るい声で語ることはできない。心にも雨の日はある。死の影は、時が到れば、我々を覆う。生の輝きは、たとえ時が熟しても、否応なしに我々を包み込まない。能動的にならねばならない。

他者から自分への、「濁った拒絶」がある。どちらかと言えば直感的にそう把握したら、その他者へは無原則に接近しないほうが賢明だ。自分の中にも、探求すれば、何ものにもとらわれていないことを証する、一瞬一瞬で完結する「明るい声」がある。人は「明るい声」で語る「明るい存在」になりうる。

名付け得ぬもので満ちた混沌たる世界に生きているからこそ、人は他者からのささやかなイエスに心を動かされる。他者からの何気ない微笑や接近、そして思いがけない優しい眼差し、こういうものが人生に彩りを添える。人は他者という鏡の中に自分を発見する。そこには醜い自分も美しい自分も映る。

「架空の地」では、人は誰かが名付けたものの中で生きる。「現地」では、人は、誰も名付けえないものの中で生きる。「架空の地」では、多くの場合、愛憎、真偽などすべてが色分けされている。「現地」では、その逆が多い。

小説なんか何冊読んだって架空の地にしか辿り着けない。自分で書けば、少なくとも自分が生きている「現地」には辿り着ける。たとえそこが迷路になっていようとも。

世間と関わりなく、超脱の世界で生きることは、意外に簡単かもしれない。関係、調整、説得、共同、理解、こういうものの間で生きることに比べれば。

優しい女が四六時中優しいのならば、問題ない。一皮剥けば、おぞましい層が表出する。ゆえに、悩みと涙の種は尽きない。呟けば、俗人。呟かなければ、それでも、俗人。同じだ。

おぞましい女が四六時中おぞましい女であれば、こちらの対応も一色で済むが、人はそう単純ではない。一皮剥けば優しい層もある。ここが悩ましい点である。

あれこれ思い悩む、これは悪い習癖だ。あれこれ思い悩まない、これはもっと悪い習癖だ。

一思いに死ぬ、これは良いアイデアだ。一思いに生きる、これはもっと良いアイデアだ。

足が震えるような外側の悍ましい現実と内側の悍ましい現実。そういうものに直面したら、凡人は、何も考えずに震えて眠るしかない。泰然自若などあり得ない。泣きながら死んでいくのも一つの形。世にある形は、まさに様々。

中には、生きながら死を超克している人もある。言わば、既に死んでいる人か、いつでも即座に死ねる人だ。生の苦悩よりは死の安楽をつかみ取っている人だ。この私の理解の仕方には、何の根拠もないけれど。

絶望の淵を覗かないと、今にも切れそうな希望の細い糸に縋って天命を待つという生き方はできない。「生き方」と言えば、「方向」と同じで、一つだけではない。信じられないような、驚くような生き方もある。

人が疎ましいだけなら、あるいは、人が悍ましいだけなら、まだ、救いは瓶の底に残る。あろうことか、自分自身に対して自分が疎ましさや悍ましさを感じるようになったら、たいてい人は絶望に至る。

人に対して、「疎ましい」とか「悍ましい」と思うようになった時は、どうすべきか。最も簡便な方法は、逃げること。逃げられない時は、忍苦すること。長生きすれば分かることだが、苦も楽も実に奥が深く、到底〈味わう〉ような対象ではなくなる。

疎ましい。これは読める。悍ましい。これは、困難。おぞましい、と読む。「悍」は、からからに乾いて潤いのない心を示す。悍ましい女と毎日顔を合わせている私の心もカラカラだろうな。

この世には、無くしてからその大切さが分かる、無くさなければその大切さが分からないというものがあるが、僕には今、無くさない前からその大切さが身に染みて分かっているものがある。それは僕が今まで味わったことのない、この世のものとも思えないような、君の僕に対する不断の優しい気遣いだ。

女は様々な女の中の一人だ。女は目の前の未来を、その時の気分で染めようとする。その女の色合わせに、偶然にも立ち会えた男は一つの幸福を味わうが、他の女の色合わせに立ち会えない寂しさをいずれ味わうことになる。女は一人の男を仕留めた幸福に酔えるが、男は多くの女を逃した不幸にうなだれる。

自分はいつでも無?自分のこといつも何も分かってはいないという証左。「いつでも無」ではなく、正確には、「到達している現段階において、時々無の境地に近いものを感じることがある」だ。すなわち、没入の時間、無我夢中の時間、忘我の時間とも言うべき時間帯を体験することがある。これだけは確か。

自己像の理解も深まる?過去に演じたシーンの数だけの自己像は「あった」。互いに矛盾する自己像、より濃厚化した自己像も「あった」。が、その変貌は不可逆的なものか。それとも、より強欲になった自分が再び清廉な少年時代の自分に戻れるのか。どうあれ状況の変化と変貌との相関問題は簡単ではない。

ないよりは良かったか? いや、兎も角、誰にでも長い耳のような長い悩みがある。ピョンと跳ねることも出来ぬ程の重い気掛かりがある。在るものに、未来が塞がれてしまっている。この在るものが、ないよりは良いとだけは言えない。ないのが良いのは借金と苦悩。ないよりは良いのは希望のみ。

自分はいつでも無?何と言う自己認識の誤りか。いや、そう言いたい気分の存在はある。気分は水泡のように多くあり、また弾けやすい。強欲な人間も四六時中強欲ではない。万物は流転する(ヘラクレイトス)。その思想、その音楽、その公式、その世界、その次元、その泡、・・・ないよりは良かったか?

同じゼロのまま?試みた後のゼロは、試みる前のゼロとは違う。そこには、自分の態度の変容につながる契機が生まれる。自己像の理解も深まる。延いては自分なりの諦念に辿り着くことも出来る。人生も半ばを過ぎたら、人は苦い思い出の中にこそ沈潜すべきだ。笑えない、暗闇の世界も、越えねばならない。

ゼロの位置のままでいるのか、ゼロから離れようと試みるのか、人生における瞬間には、この二つしかない。いずれの場合でも、結果としては、同じゼロのままで終わるとしても、私は後者を選ぶ。と言っても、矢尽き刀折れるまでだ。そして、時が経てば、風は何もなかったかのように吹き過ぎるだけだろう。

特定の他人をほとんど無意識のうちに蔑視している自分がいることに気付く。自分のことながら浅ましい限りだ。食べ物や他人に対して好悪の感情を持つということは、自然なことかもしれない。が、自分がいかに身勝手で、いかに浅はかで、いかに傲慢で、いかに迷妄に囚われているか、自省してみたい。

岐路に立ち尽くす時。ある。どうしていいか分からず、途方に暮れるしかない。そこに自分が陥っているという意識を持ちつつ、同時に人は、とりあえず草鞋を履いて一歩を踏み出さざるを得ないという瞬間を受け入れる破目に陥る。見れば、必ず一寸先は闇。見なければ、闇は闇でなくなる。天に任すか。

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