走ることについて語るときに僕が語ること(村上春樹・著) | 今日は何を読むのやら?(雨彦の読み散らかしの記)

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朝晩、ジョギングをしている人をよく見かける。

最近は特に増えているようだ。

 

以前は、走っている人の気が知れないと思った。

世間にはときどき、日々走っている人に向かって「そこまでして長生きしたいのかね」と嘲笑的に言う人がいる。

と、村上春樹もこの本の中で書いている。

私自身は、そんなことを言ったことはないが、それでも若い頃は、どちらかというと 「そちら側」 の人間だったと思う。

 

しかし、どうしたわけか、その自分が、この夏から毎週、土曜の夜に走っている。

異様な暑さが長く続いた今年の夏、一日中クーラーをつけっぱなしの室内に閉じこもっていることが多く、椅子から立ち上がるとふらつき、足元が怪しいことがあった。

このままでは足腰が弱くなってしまうと思ったというのが、走ろうと思い立ったきっかけである。

 

いったん走ることが習慣になると、走ると決めた時間帯に走らないと、うしろめたいような、すっきりしない気分になってくる。そういう時は、夕食のビールの味も落ちてしまう気さえする。

また、いちど走ることをサボってしまうと、せっかく積み上げてきた習慣が崩れてしまい、楽をしていたいという身体の声に負けてしまうのではないかという心配が頭をよぎるせいかもしれない。

もちろん、週に1回30分程度しか走らない、俄かライトランナーの自分(還暦過ぎ)と、33歳の時から毎日1時間走り、毎年フルマラソンを走り、ついにはあの過酷なトライアスロンを完走するまでになった作家とではレベルが違い過ぎて、まったく比べようもない。

 

けれども、そんな初心者ランナーに毛が生えたような者でも、この本を読んでみると、共感できる何かがある。

 

ランニングのトレーニングには、自分の身体、筋肉との「対話」 - ケア - が欠かせない。

筋肉は覚えの良い使役動物に似ている。

注意深く段階的に負荷をかけていけば、筋肉はそれに耐えられるよう自然に適応していく

しかし:

筋肉だって生身の動物と同じで、できれば楽をして暮らしたいとおもっているから、負荷が与えられ亡くなれば、安心して記憶を解除していく。

そしていったん解除された記憶をインプットし直すにはもう一度同じ行程を頭から繰り返さなければならない。

身体が反抗してこないよう、ゆっくり(こっそり)と負荷を少しずつ増やしていくことが重要だ。

(ただ、私のように週1回程度のランニングでは、身体の記憶を積み上げる効果はあまり期待できないかもしれないが)

 

いずれにしても、ランナーは、自分と向かい合い、自分の身体や機能を観察する。

それは、どこか、坐禅にも似ている。

坐禅では、身体の姿勢を整え、自分の呼吸に意識を集中していくが、ランニングや水泳もまた、呼吸や身体の動きに意識を向けていくことになる。

 

走っているとき、ランナーは何を考えているのだろうか?

僕は走りながら、ただ走っている。

僕は原則的には空白の中を走っている。

逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っているということかもしれない。

走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。

いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。

でも空はあくまで空に過ぎない。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。

それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。

空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体ではないものだ。

僕らはそのような茫漠とした容物(いれもの)の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。

ここに表現された心象風景・心境には、禅の境地に通じるものを感じる。

 

何も考えていない時間を作ることは一見無駄なことのように思える。

だが、何も考えていない時間を作ることによって、脳がリラックスし、必要な時に意識を集中させることができるようになる。

 

村上春樹が走り始めたのは、専業小説家になって書いた初の長編小説・「羊をめぐる冒険」を書き終えた後だという。

この本を読むと、長い年月にわたって休むことなく、数多くの小説を書いてきたこの作家にとって、「走る」ということがいかに重要なことだったかがよくわかる。

 

村上春樹は、この本で、人に走ることを勧めているわけではない。

人には向き不向きがある。

フルマラソンに向いている人もいれば、ゴルフに向いている人もいれば、賭けごとに向いている人もいる。

人は誰かに勧められてランナーにはならない。

人は基本的にはランナーになるべくしてランナーになるのだ。

すべての人が走る必要はないし、走ることに向いている人が走ればいい。

 

実際、この本を読んで、自分も走ろうか、と思い立つ人がどれくらいいるかはわからない。

本に書かれているエピソード(想像を絶するほどに熱い真夏のギリシャで、アテネからマラトンまで走ったという「初マラソン」(実は、マラトンとアテネの間の道は、42.195キロより2キロほど短いらしい)や、北海道サロマ湖を周回する100キロ・ウルトラマラソンの話など)を読むと、そのあまりの過酷さに呆れてしまうかもしれない。

 

けれども、長い距離を「走る人」が、どのような理由で走るのか、また、どのような思いを持ちながら走っているのか、その心の中を覗き見ることはできるだろう。

もし忙しいというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。

走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。

人が走ることには、様々な理由がある。

何かの仕事を長く続けていくために、体調管理のために走る人。

ランニングの自己タイムを上げるという挑戦のために走る人。

汗をかき、身体を動かしていく以外の事を何も考えず、心をリセットするために走る人。

 

一つ言えそうなことは、走り続けている人は、たぶん人生を楽しむために走っている。

楽しくもない人生をただ「長く生きる」ことを目的に、ずっと走り続けられる人がいるとはちょっと考えにくい。

 

それにしても、走ることにどのような意味があるのか?

その問いは、「生きることにどのような意味があるのか」という問いと同じかもしれない。

どうせいつかは死んでしまうというのに、なぜ人は面倒なことをしたり、苦しい思いをしながらも生きているのか。

しかし、生きる苦しさがあるからこそ、生きる愉しさもある、ということなのではないだろうか。

それは、「走る」ことにおいても、苦しさと愉しさが背中合わせになっていることに似ている。

 

人生の意味を問い続けても、答えをどこかに見出すことは難しい。

もちろん、人生の目的を思い定め、そのために努力をすることはできるかもしれない。

だが、たとえどのような達成でも、突き詰めていけば、いづれ最後は無に帰してしまうのだ。

そうであるなら、人生の意味が何であるかなど、思い迷うことを止めた方がよほどさっぱりする。

 

ただ、生きている以上、より良く生きたい、と思う。

「走る」ということもまた、より良く生きるための営みなのではないだろうか。

 

「走る」ことについて語ろうとすると、どうやら最後は、結局「生きる」ことについて語ることになるようだ。

これもまた、この本を読んで分かったことの一つである。

 

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今日もお読みいただき、ありがとうございました。

 

※当ブログ記事には、なのなのなさんのイラスト素材がイラストACを通じて提供されています。

 


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