【安田義定】父が二人いたから、源平合戦で甲斐源氏の名を轟かせた!?

 

甲斐国のイメージ。
安田義定の父は源氏名うての武者だった。


【安田義定】父が二人いたから、源平合戦で甲斐源氏の名を轟かせた!?

流人の身から甲斐源氏の棟梁となった男【源義清】

常陸国の全武士団を敵に回した男!?【源清光】




安田義定の父?それとも祖父だった?【源義清】

義清神社。
義清神社(ウィキペディアより)。



承保2(1075)年、源義清は甲斐源氏初代当主・源義光(新羅三郎)の三男として生を受けました。生母は甲斐守知家(実)=源仲宗の娘です。幼名は音光丸と名乗りました。
義清の周囲には、名だたる源氏の武士たちがひしめき合っていました。伯父には清和源氏の棟梁である「八幡太郎」こと源義家がいます。
長兄・義業は、常陸国久慈郡佐竹郷に土着。常陸源氏及び佐竹氏の家祖となった人物でした。
父・義光は常陸国那珂郡武田郷に土着しており、義清自身は「武田冠者」と称するようになります。
大治5(1130)年には、嫡男・清光が常陸国の平盛幹らと土地紛争を開始。翌天承元(1131)年には勅勘(天皇の勅命による勘当。出仕の差し止め)を受け、義清親子は甲斐国・市河荘へ流罪となりました。
義清らは甲斐国巨摩郡に土着。長承2(1133)年には市河荘の荘司(荘官)となっています。
翌長承3(1134)年には安田義定が誕生。義清か清光が父かと思われますが、どちらの可能性もあります。
やがて義清らは多麻荘の若神子(わかみこ)に本拠を移転。しかし義清は隠居したのか、久安元(1145)年に市河荘で病没しています。
義清は甲斐国を拠点とし、甲斐源氏の基礎を築いた存在となりました。
末裔からは武田氏(甲斐源氏の棟梁・武田信義を輩出)を筆頭に、南部氏(江戸時代の盛岡藩主)や小笠原氏(信濃源氏)が出ています。




安田義定の父か、それとも兄か?【源清光】

源清光。
源清光が安定の父と考えられる。


天永元(1110)年、源清光は武田冠者を名乗った源義清の長男として生を受けました。生母は源兼宗の娘です。通称は黒源太と称します。

父の義清は常陸国那珂郡にある武田郷に土着した一族です。清光も武田郷で生まれ育ち、血気盛んな若武者に育っていきました。
やがて清光は常陸国において、土地争いを展開します。
大治5(1130)年、清光は伯父で常陸源氏の源(佐竹)義業の一族と抗争。源氏の同族同士での悶着でした。
義業は常陸平氏で常陸国大掾(第三席の国司)・平盛幹(もりもと)の娘婿でした。
常陸国の源氏と平氏が敵に回ったために敗北。天承元(1131)年に父・義清とともに勅勘を受けて甲斐国市河荘に流罪となりました。
しかし清光は流罪となっても挫けることはありません。
清光らは甲斐国において逸見荘に進出。逸見冠者を名乗るようになり、勢力拡大に努めています。
長承2(1133)年には安田義定が誕生。実際には義清の息子でしたが、清光が弟である義定を養子としたという説も『吾妻鏡』に書かれています。
この頃の中央政界である京では、武力衝突が始まっていました。
保元元(1156)年には保元の乱によって、源氏と平氏が二つに分かれて対決。平治元(1160)年には、平清盛が源義朝を破って政権の足がかりを築いています
しかし清光は、あくまで甲斐国における勢力の扶植に努めていました。
逸見光長や武田信義、安田義定らを育成。甲斐源氏の基礎を築き上げ、強大な武士団へと昇華させていきます。
次男の武田信義は甲斐源氏の棟梁となり、安田一族の安田義定と共に源平の争乱を勝ち残ってい久野です。


【参考文献】


川村一彦 『富士川の戦い』 歴史研究会 2020年


歴史群像編集部 『図説・源平合戦人物伝』 学研 2011年


『山梨県史 通史編2 中世』 山梨県 2007年


清雲俊元 『安田義定』 放光寺開設八百年記念事業奉賛会 1984年


防長新聞社山口支社編 『近世防長諸家系図綜覧』 マツノ書 1966年 


「伝安田義定の墓」 山梨市公式HP

https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/citizen/docs/city_55.html



コメント

このブログの人気の投稿

【安田義定】子孫たちは源平合戦の後に栄光から転落!

【安田義定】地方の一武士から遠江守、大内裏守護まで上り詰めた男!