【安田義定】子孫たちは源平合戦の後に栄光から転落!

安田氏の家紋「追州流」
安田氏の家紋「追州流」

 

【安田義定】子孫たちは源平合戦の後に栄光から転落!

 安田義定の子孫【嫡男・安田義資の栄光と滅亡】
 安田義資の子孫【粟屋氏となって明治維新に貢献する】


 
安田義定の子孫【嫡男・安田義資の栄光と滅亡】

一ノ谷図屏風。
一ノ谷図屏風。義資も随行していたと考えられる。


安田義定の嫡男・安田義資の出生

甲斐源氏の安田氏棟梁・安田義定は、源平合戦で縦横無尽の活躍をしています。義定の子孫たちは、どのような境遇にあったのでしょうか?

まずは嫡男・安田義資について見ていきましょう。義資は、安田義定の嫡男として生を受けた人物でした。通称は「田中太郎」と称しており、甲斐国山梨郡田中郷の発祥であると思われます。太郎ということと、のちの処遇から正室所生の長男であったようです。

父の義定が長承3(1134)年の出生です。当時の出生周期が20〜30年だとすると、子の義資はおそらく仁平4(1154)年から長寛2(1164)年前後の生まれだと推察されます(ざっとですが)。

義資、越後守に任官する


文治元(1185)年4月、平家一門は壇ノ浦の戦いで敗北。安徳天皇や平時子ら多くが海中に身を投じ、一門は滅亡します。
5年近くに及んだ源平合戦はここに終結。特に平家一門に戦功を重ねた武将たちは厚く処遇されることになりました。

特に戦いに著しい功績があったのが、源頼朝の弟である源範頼・源義経らと、甲斐源氏の安田義定です。
おそらくは嫡男の義資も、父・義定に随行して戦に赴いていたことが予想されます。このことから、安田義資も論功行賞の対象となっていました。

同年の8月、安田義資は越後守(越後国の長官国司)に叙任され従五位下という位階も与えられました。朝廷の位階において五位以上は「殿上人」と呼ばれ、清涼殿に昇殿することが許される身分です。
安田義資は武家社会だけでなく、貴族社会でも一定の地位を築いたことになります。

既に父の安田義定は遠江国を与えられていました。義資の越後国と合わせて、安田氏は二カ国を支配する武士となっています。
頼朝から絶大な信頼を受けていたことは確かなようです。

父・安田義定と共に奥州合戦に出陣して戦功を立てる

源平合戦の終結は、同時に武家社会において新たな対立の始まりでもありました。
戦後処理や朝廷との距離を巡り、源頼朝は弟の義経と対立。ついには京の義経一行に刺客が送られる事態にまで発展します。
義経一行は奥州藤原氏のもとに身を寄せますが、頼朝は追求の手を緩めませんでした。
文治5(1189)年頼朝は奥州藤原氏当主・藤原泰衡に圧力をかけ、義経を自害に追い込みます。しかしそれで終わりませんでした。
頼朝は全国の武士たちに動員令を発出。大軍勢を率いて奥州藤原氏の討伐に出陣します。世にいう奥州合戦です。義資も奥州合戦に加わり、手柄を挙げたと伝わります。

建久元(1190)年、義資は頼朝に上洛の一向に参加します。
甲斐源氏の家柄や戦での実績により、頼朝の信頼する人物の一人として位置付けられていたようです。
建久3(1192)年、頼朝は征夷大将軍に就任。鎌倉に幕府を開いて東国に武家政権を築きます。
義資も御家人の一人として、より輝かしい将来が約束されるはずでした。

源氏粛清の煽りを受けて処刑される

しかし建久4(1193)年、義資の運命は一変します。
11月27日、永福寺薬師寺堂供養の際、院の女房(奥向きの女性使用人)に艶書(ラブレター)を届け出たことが発覚します(日程が克明すぎて恥ずかしい…)。
侍所別当・梶原景時は頼朝に報告。翌28日、頼朝の名を受けた御家人・加藤景廉によって誅殺されてしまいました。
義資の首は、罪人として梟首(晒し首)されたと伝わります。

何故、このような事態になったのでしょうか?
実は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公でもある、北条義時にも同じようなエピソードがあります。
義時は大蔵御所に使える女官・姫の前に艶書を渡しますが、処罰されることはありませんでした。むしろ義兄である頼朝が間を取り持ち、二人を夫婦にさせています。

実は同年、頼朝の弟・源範頼が殺害されていたことがわかっています。頼朝は義経や範頼など、源氏で自分の地位を脅かす人間を排除していました。
義資は甲斐源氏の流れを汲み、忠勤に励んだ御家人です。しかし頼朝からすれば、自分や自分の後継者の頼家らを脅かす存在でした。

義資の死は、頼朝が自らの血統によって鎌倉幕府を支配することを意識した末のことのようです。

安田義資の子孫【粟屋氏となって明治維新に貢献する】

毛利元就。
毛利元就。粟屋氏が代々仕えた。


甲斐源氏の粛清劇

安田義資だけでなく、安田氏や甲斐源氏の諸族は次々と頼朝によって粛清されていきました。
建久4(1194)年12月、義資の事件に連座する形で父・義定の所領が没収。遠江国の守護から解任されてしまいました。
翌建久5(1194)年に義定は自害して梟首されています。
既に元暦2(1184)年には一条忠頼が暗殺。文治元(1185)年に秋山光朝が謀反のかどで処刑されていました。
頼朝は功績があった甲斐源氏に報いるどころか、むしろ力を削ぐことに力を注いでいます。
甲斐源氏の棟梁であった武田信義は、処刑こそ免れたものの鎌倉幕府の御家人として細々と命脈を保っています。
しかし決して甲斐源氏が滅んだわけではありません。義資の子孫は脈々と生き続けたと言われます。

粟屋氏の誕生

安田義資には、3人の息子がいたことが確認されています。
長男・義高と次男・義広は殺害されて梟首されましたが、三男・義継だけは生き残っていました。
義継の子・元義は大江氏に仕え、居住先の常陸国粟屋からとって「粟屋」姓を称しています。
生き残るためには身分や前歴を隠し、名前を変える必要もあったようです。義継や元義のことを考えると切ない気持ちになりますね。
ではその後の粟屋氏は、どうなったのでしょう。
南北朝時代に入った南朝では延元元年/北朝では建武3(1336)年、粟屋氏は毛利時親(大江広元の曾孫)に従って安芸国に下向しました。
時親は鎌倉幕府執権・北条時宗の偏諱「時」を受けるほどに信頼を受け、楠木正成に兵法を伝授したとも伝わる人物です。

粟屋氏の安芸国へと移転と明治維新

粟屋氏は安芸国で毛利氏の家臣団として土着。安芸国の国人領主として活動を始め、譜代家臣となっていきました。
毛利元就の時代には粟屋元国が現れ、中国地方の合戦で活躍。一族の粟屋元親は元就の嫡男・隆元に仕えて側近となり、勲功だけでなく毛利氏家中の五奉行としても内政面で力を振るっています。
粟屋氏の忠義は時代が変わっても揺らぐことはありませんでした。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで毛利氏が周防長門の二カ国に減封。粟屋氏も従って、江戸時代には毛利氏が藩主を務める長州藩に仕えています。
粟屋氏は長州藩の寄組(家老級)に所属。4915石と691石の二家を構えています。このほか、大組(直属家臣)に400石以上の家が五つ確認され、庶流の家は藩内に四十以上確認されていました。
長州藩が明治維新に向けて邁進したのも、粟屋氏などの家臣団の奮闘があったからです。そういう意味では、安田氏や粟屋氏などの安田義定や安田義資の子孫は、時代を動かしたと言えますね。


【参考文献】

歴史群像編集部 『図説・源平合戦人物伝』 2011年 学研

防長新聞社山口支社編 『近世防長諸家系図綜覧』 1966年 マツノ書店

「伝安田義定の墓」 山梨市公式HP
https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/citizen/docs/city_55.html

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