骨董商Kの放浪(32)

 温泉市(いち)の情報を聞いた数日後の一月の下旬、ぼくは総長の家を訪れた。香港で買ってきた漢時代の蝉炉の代金を頂戴するためである。

 

 正月三が日の過ぎた頃、ぼくは総長から電話をもらった。家に遊びに来ないかとのこと。そのときぼくは香港で仕入れたこの蝉炉を持って参じたのだった。

 案の定、総長はこれを大いに気に入り、値段を問わずお買い上げになったのである。ぼくとネエさんが想像していた、崩れるような笑顔が、このとき現出したのであった。

 展示台の一箇所に作品を置き、二人してしばし見入ったあと、総長は優しいまなざしをそのままに、軽く首を傾げ訊いてきた。

 「Kさん、いったい、どんな味なんでしょうかねえ?」――成虫か幼虫か判然としないが、方形の七輪にかけられた二本の串の上に、蝉が五匹ずつ並んで載っている。漢時代には、死後の世界も同じ日常がおくれるようにと、こうした現世の一コマを切り取ったような明器(めいき)(副葬品)が多数つくられている。これもその一つ。当時蝉がこのように炭を入れた炉で焼かれ食されていたのであろう。

 「味かあ。うーん……」ぼくがにわかにイメージできず、首をひねって考え込んでいると、「2000年前の味ですよ?」と総長はつけ加えると、笑みを湛え感じ入るように言った。「ぼくはねえ、こうして串の上で焼き上がってくる間、周りにいるひとたちは、みんなはお腹を鳴らしてたんじゃないかなあ。夕方前のちょうど小腹が空いた頃で、早く食べたいなあって。そう思うと、何だかこれが、美味しそうに見えてくるんだなあ。いやあ、愉しいなあ」

 モノのなかにすっと入り込んでしまう総長の嬉々とした横顔を見つめながら、ぼくは、込みあげてくる喜びをかみしめていた。Lioの店でこれを見たとき浮かんだ映像が、そのまま現実となったからである。香港出張で最後に巡り合ったモノが日本へ渡り、今こうして好事家のもとへおさまる。その橋渡しを自分がしているわけで。

 ちょっとおおげさかもしれないが、骨董商冥利に尽きると。このとき、そんな気分に浸っていた。――正月早々、ぼくは確実に一つ商売を果たしたのだ。

 

 ということで、今日はそのお代を受け取りに、いつものように、コンクリートが露出しているスタイリッシュな展示室のなかへ入ったところで、ぼくは立ち止まり少々驚いた。そこに先客がいたからである。

 四十歳くらいか。眼鏡をかけた利発そうな男性が立ち上がってお辞儀をした。総長が紹介する。

 「こちらは、愛知県にある美術館の学芸員の先生」学芸員はCと名乗った。「C先生ですか」ぼくらは名刺を交わした。「さあ、座ってください」総長の言葉で椅子に座ると、テーブルの上には蝉炉が載っている。

 「Kさん、実は良い知らせがありましてね」総長の笑みが弾む。「今開催している展覧会があるでしょう。これを、この度追加出品することになりまして」それを聞いてぼくは「えっ!」と驚きの声をあげた。その横でC先生がにこりと微笑んでいる。

 

 昨年11月から東京近郊の美術館で、『中国古代の暮らしと夢』というタイトルの展覧会が開催されており、ここに総長の所蔵品がいつくか貸し出されていた。以前ここで拝見した元~明時代の四合院(しごういん)という家屋のミニチュア模型や、ネエさんの店で最初に買われた青銅加彩の人物鎮(ちん)など。

 展覧会には、開催してまもなくの頃に、総長とネエさんと三人で伺った。いかにも総長好みのモノが満載で、一点一点じっくりと都合三時間以上かけて見ていたのを思い出す。

 ――中国古代、主に漢時代(前2~後2世紀)につくられた、「水榭(すいしゃ)」と呼ぶ三層もしくは四層の火の見櫓(見張り台)や楼閣をはじめ、穀倉、農舎、豚小屋、鳥小屋、井戸、竈、便所などの建築明器の他、人物や牛、犬などの動物を象った「俑(よう)」と呼ばれる土偶の一群など、概ね陶製の副葬品を一堂に会した展覧会で、当時のひとびとの生活をある意味一望できる充実した内容となっている。

 その展覧会に、この蝉炉も追加で出品されるとのこと――。自分の見つけてきたものが、展覧会に陳列されるとは光栄の至りであるが、ぼくは突然のことで実感を持てずにいた。

 蝉炉を見ながらC先生が、「いやあ、これは実に面白い作品です。類例もないし。もちろん今回の出品物にも見ないものですので。是非にと思って」「いつから、出品されるのですか?」ぼくが尋ねると、「今度のうちの美術館からの展示にと思ってます」それを受け、総長が目を細めた。

 「愛知県ですね。いいでしょうねえ。あそこは広いから」

 ――この展覧会は、先ず東京で開催し、その後、愛知、大阪、岡山、山口の美術館を巡回し、最後に今年の秋になるが、再び東京の美術館でおこなわれる一年以上の長期に及ぶ大規模なもの。

 「図録はもうすでに出来上がっていますので掲載できませんが、よろしかったら、次の愛知県から最後の東京まで展示させていただけたらありがたいです」C先生の依頼に、「もちろん、どうぞ」と総長は笑顔で快諾した。

 

 帰り道、ぼくとC先生は並んで駅までの道を歩いた。

 「Kさんは、あの蝉炉を香港で買ってきたんですよね?」「はい」「ぼくもね。たまに香港に行くことがあって、骨董街、何て言いましたっけ?」「ハリウッド・ロード」「そう。そこに行ったりしますが、なかなか、これはってモノ、ないんですよね。さすが、プロだな」

 プロだと言われ、ぼくは気恥ずかしくなってしまい、「まだ、プロではないですよ」と手を横に何度も振って、「詳しい先輩にいろいろと教わって。たまたま、見つけました」「あれは、学術的にも、美術的にも面白いモノですよ」ぼくはさらに気恥ずかしくなり、しきりと後頭部を掻いた。

 「うちの美術館にも中国陶磁があることはあるんですが、みんな寄贈品で。数が少なくてね」「さっき、総長が仰ってましたが、すごく広いって」「はい。本当に、広いんです。敷地だけだと日本屈指じゃないかな」そしてやや苦笑ぎみに、「だから館内も広くってね。展示品を飾るのもたいへんなんです。うちは、やきものの美術館で、収蔵品はやたらとあるんですが、ほとんどが日本陶磁でね。もっと中国陶磁が欲しいと思ってるんです」

 そう言うと、C先生はいったん足を止めてぼくの方へ向き直った。「ですから。今回みたいなモノがあったら、紹介してください」その熱い視線に、ぼくは思わず「あっ、は、はい!」と声を張り上げ背筋を伸ばした。それを見てC先生は口元を緩め、「でも、公立なので、そんなに予算はつきませんがね……」と言って歩き出す。その背中を見つめながら、ぼくはこのとき、身体のなかに新鮮な力が湧いてくるのを感じていた。自分の前に、何か道が広がったような気がしたからである。そしてすぐに歩を早めると、C先生の横に並んで歩き出した。

 少し会話が途絶えたところで、ぼくは改めて尋ねた。「先生の専門分野は、中国のどこですか?」「ぼくですか?ぼくは、元時代の青花です。元染(げんそめ)ですね」「元染?」「はい。昨今、景徳鎮(けいとくちん)での研究が進んで、よく学会が開かれるんですが、その度に行ってます」「景徳鎮にですか?」学者は「はい」とうなずいた。

 ――景徳鎮とは、江西省にある窯業都市。やきものの町。ここで宋時代から優れた陶磁器が生産されている。特に、元時代から明、清時代にかけて、この地で青花、五彩などの官窯磁器が焼造された。

 「行くたびに、びっくりしますよ。研究の進歩の速度は当然のことですが……」と一つ間をとってからにやりとし、研究者とは違った顔を覗かせた。

 「めちゃくちゃ、上手い贋物がつくられていて」「――贋物?」ぼくはぎょっとした顔で見返す。「贋物がつくられてるんですか? 景徳鎮で?」「おそらく――」

 ぼくはそのとき、先日伺った大屋敷で見た元染の大皿が目に浮かんだ。しかし、そんなものは全く比でないレベルの贋物なのだろう。ぼくは大いに気になった。

 ――「そんなに上手いんですか?」「はい。何しろ、元や明時代の地層から当時の土を採取して、それを使って景徳鎮の陶工がつくってますから、見分けがつかないくらいです」その情報を聞いてぼくは仰天した。専門家がわからないくらいのニセモノがつくられているという実態――。何ということだろう。一つ息を飲んでから、覗き込むように訊いてみた。

 「それって、市場(マーケット)に出てたりしてるんですかね?」その問いに、学者は間髪入れずに答えを出した。「たくさん出てますよ」「えっ!」ぼくのその表情を見ながら、「だから、プロヴィナンスの無いモノは怖いですね」と話しを締めた。

 ――プロヴィナンス-「来歴」。つまりこれがあるかないかが重要、ということである。

 

 その翌日、ぼくはZ氏の店に向かった。品川駅の露店市の帰り道、「実は、今、うちに名品がきています。見に来ませんか?」と、あまりにもストレートに、ぼくのハートを鷲掴むような勧誘を受けたからである。

 相変わらず、目立つことを自ら拒んでいるかのような佇まいの店先に立ち、ぼくは静かに扉を押した。もちろんアポを取っていたので、なかに入るや否や癒しの笑顔が出迎える。

 「お久しぶりです」Miuの向こうの畳の間にはカリスマが座っている。「この間は、どうも」「さっそく、参りました」ぼくは軽く頭を下げてから、畳の上にあがる。しばらく雑談。その間Miuがお茶菓子を目の前に置く。羊羹をスポンジで挟んだ小ぶりなシベリアのような洋菓子。それを手でつまむと、器が目に入った。程よい大きさの曜変天目の欠片(かけら)。前回伺ったときに話していた陶芸家の作だろう。曜変の青白い光彩が煌めいている。菓子皿が下げられると、抹茶が一服出される。

 その茶碗を見て僕は目を丸くした。これは、アンダーソン土器ではないか!?

 ――アンダーソン土器とは、紀元前2500年頃に甘粛省でつくられた、黒と紫に近い赤色の顔料で幾何学文様の描かれた「彩陶(さいとう)」と呼ばれるやきもの。これらの様式の一群を、20世紀初めにスウェーデンの地質学者アンダーソン博士が発見したことからその名が付いている。アンダーソン土器の多くは、両側に耳の付いた胴が横に張った大形の壺であるが、ごくまれに小形の容器のような作品が見られる。これは、かなり小さく茶碗に使える寸法。とはいえ、土器であることに違いはなく、しかも表面に顔料が塗り付けられているので、実際お茶碗として使うには何とも抵抗がある。

 それを見てZ氏は説明する。「口をつける部分、口縁部には、漆を施して仕上げてあります。また、表面は透明の樹脂でコーティングしてありますので、使うには全然問題ありません――」

 ぼくはあっけにとられ、しばし新石器時代の土器の茶碗を見つめた。本来は茶碗より大きな容器なのだが、壊れた口縁部をきれいに処理し漆で作り直している。内部もコーティングされているので、Z氏の言うように、お茶を点てても何ら問題はなさそうだ。

 ぼくは、お茶道具に関してそれほど深くは知らないが、アンダーソン土器のお茶碗は、いくら仕立てたモノとはいえ、世の中にこれ一点だけだろう。要するに、想像の彼方にあるようなものだ。ぼくは驚きと同時に、カリスマの「新骨董」という境地を、改めて思い知らされた気がしていた。

 「これは、驚きです!」飲み切ったあとの器の拝見をしながら、ぼくは感嘆の声をあげた。それをカリスマは笑顔で返す。「誰もしない意表を突く発想が、案外、斬新なものになったりするものです――」

 

 いったん奥に下がったZ氏が、30センチほどの高さの古びた箱を、両手で抱えるようにして戻ってきた。

 これが、名品か。ぼくは注視する。

 Z氏はゆっくりと畳の上に置くと、箱の手前の差し蓋を上に引き上げたのち、中身を取り出そうと身体を前に屈めた。左右の手をそれぞれ箱内の脇下に入れ、手前に引き寄せる。どうやら、飾り台に載った作品のようだ。

 ぼくは、以前ネエさんのところで見たハッダの頭部を思い浮かべた。黒い台の上に飾られていた女神の美しい顔立ちが脳裏をよぎる。Z氏は、下の台を手繰り寄せるように、少しずつ手を動かしている。そして、モノを取り出した。

 Z氏はぼくの真正面に坐しているので、こちらからは箱の陰に隠れてしまっていて、まったく本体が見えず。カリスマは取り出すと、いつもの深く優しい眼をいったんモノに置いたのち、箱を横に動かした。と同時に、漆黒の木製の台座に載った赤い煉瓦色をした後頭部が現れた。――土偶だ。縄文土偶か……。息を飲んだ瞬間、Z氏はゆっくりと反転させた。土偶の顔がぼくの正面を向く。

 ――それは、埴輪の女性であった。

 穏やかなカーブを描く頬のライン、筋の通った鼻梁、穿(うが)たれた目と口、飾りを付けた耳、細い頸部、頭頂部の結った曲げは失われているが、後頭部に多少残っており、顔面には何やらベンガラで色が施されていたのであろう、表面がところどころ赤くなっている。

 それは、ぞっとするほど美しい埴輪の顔であった。

 そして、ぼくはその顔をどこかで見た気がしていた。すっとした鼻筋にくっきりとあらわされた目と小さいながらきりっとした口元の表現、そしてなよやかな細い頸筋。

 ――そうだ。これは、あの数学博士、教授の家の、寝室に飾ってあった一枚の水彩画と同じものだ。

 あのとき教授は、これを「天皇陵から出土した皇女の像」と言い、そして、「今は行方が不明だが、いつかきっと出て来る」、「ぼくはこれを手に入れるためにこの絵に願をかけている」というような話をしていた。そのときの教授の粘着質なまなざしと、ベッドに身体を横たえたときに、その絵が、ちょうど目に入る位置に掛けられていたのを見て、ぼくは背筋が寒くなったのを覚えている。

 「こ、これは……天皇陵から出土した……行方不明のモノ……」ぼくがそう言った瞬間、カリスマの弓のような細い目が崩れた。

 「知ってましたか?」「いや、前に、そんなことを言っている方がいて。それで、これなんじゃないかと、ふと、そう思っただけで」「そうしたら、おそらく。このことでしょう」その眼はまた、元の緩やかな曲線に戻った。

 埴輪は、高さ20センチ弱の、一見すると何とはない首から上の人物像であったが、Z氏が「名品」と評したとおり、その顔立ちに、ただならぬ気配を漂わせていた。

 頬の丸い膨らみをあらわす緩やかなラインと、黒い台座の上に据えられたたおやかな細い首は、この像が少女であることを示していた。それは、切れ長のやや大きな目の形と、小さな口の表現にも感じ取ることができる。齢は十二、三、いやもう少し下に見えなくもない。

 高く通った鼻筋、宙の一点をしっかりと見据えている凛々しい目つき、そして僅かな微笑を湛えているかのような口元、これらが相俟った面貌には、幼いながらも凛とした威厳が感じられ、まさに「皇女」に相応しい品格が備わっていた。

 

 ――埴輪は、主に古墳時代の5世紀から6世紀に制作され、圧倒的に多いのが「人物埴輪」と呼ばれる人物を象った作品。

 鎧を纏った武人、冠を頂く官人、装飾性の強い結髪をした高貴な男女など。基本、素焼きの土製品のため土質は粗くもろい。また副葬品として土中に長く埋まっていたせいか、発掘した時点で壊れてしまっているものが大半。よって、完形品は皆無に等しい。人物像も、このような顔部分のみが残り、装飾の施された頭髪部分は欠損していることが多々。人物の顔は、鼻を付け、目と口は無造作にくり抜かれ孔(あな)が開けられているだけの、精緻さのかけらもない簡素な造り。――ただこの一見無表情ともとれる顔立ちが、実に豊穣な面相を繰り広げるのである。

 粗野な紅い土の上に、思いのままに落とし込まれた目と口の何気ないつくりが、かえって深奥な表情となってあらわれ、見る者の心をとらえて離さないのである。そこには、同じ日本の土偶であっても、縄文土偶には無い日本の血がかよっているようにみえる。「やまと」の美がそこにあるのだ。

 

 畳の上から床の間に移され、飾られているうら若き乙女の像に、ぼくの眼は釘付けになっていた。先ほどまでは眼の前だったが、やや距離を置いて眺めるとまた格別である。顔だけであるにもかかわらず、背筋の伸びた姿勢の良さが感じられ、その容貌に気品が満ち溢れている。

 見つめているうちにだんだんと、なぜ教授がこの像に執心しているかがわかるような気がした。切れ長の目と微笑を湛えた口元の醸し出す雰囲気が、国も性質もまったく違うにもかかわらず、あの博士が後生大事にポケットのなかにしのばせている北魏の鍍金仏像の顔に、一脈相通じているように思えたからである。

 そして、これを見てしまった以上は、教授に伝えなくてはならないだろうと。ぼくは少し頭を整理してから口を開いた。

 「これは、売りモノですか?」もはや単刀直入に訊くのが自然の流れのように思え、ぼくはそう尋ねた。「はい――」カリスマは表情を変えず端的に答えた。

 すると今度は、値段である。ただ、それを直ちに訊くのはさすがに憚られた。当然であろう。買える身分でもないくせに、それは誠に失礼である。だが、この話しを教授にしたら、必ずや値段を訊いてくるにちがいない。ぼくは口を閉ざし、皇女を見つめながら熟考した。いったい、いくらくらいだろうかと――

 

 ――品物には、それに対しての相場というものがある。現在中国陶磁は高騰しているが、それはすべての分野ではない。元、明、清時代の官窯作品は、先日の香港やパリの海外オークションで何億も、十何億も売れたりして、飛び抜けて高くなっているが、古代の、例えば先ほどまでぼくの目の前に置かれていたアンダーソン土器は、その代表的な大きな壺ですら、どんなに高くても100万はしない。総長におさめた漢時代の副葬品は、何十万程度。

 マーケットはその時々の流行を背景に、需要と供給のバランスで値段が決まっていくわけであり、現在中国古美術市場の主導権を握っている中国人バイヤーの好みは、元、明、清時代の作品に集中している。なので、それ以外は案外安いのだ。

 それでは、埴輪はどうだろう――

 これは日本美術で、中国のような国際市場ではない。よって、取引は主に日本国内に限定されることから、相場は決して高くはない。ぼくはまだまだ詳しくはないが、市(いち)で見聞きした情報を基に考えると、人物の頭部だけだと、高くて数百万だ。よっぽどのモノなら、500万はするかもしれないが……。

 ただ、カリスマが「名品」と位置づけた特別な作品である。当然その上をいくことは相違ない。

 

 ――「名品」の価格は、相場があってないようなところが多分にある。つまりは、「言い値」の世界――このクラスになると、いくらでもいいから欲しいというひとたちがいたりするので、もはや値は「言ったもん勝ち」みたいなところもあるのだ。

 ただそうは言っても、やっぱり相場というものがちゃんとあって、モノに対する思いが強く出過ぎたり、商いの利欲が絡んだり、傍観者たる通人の無責任な声を鵜吞みにして途方もない額を付けたりすると、今度は肝心の売買が成立しなかった、というケースはよくある話で。――要するに、主観的なところは大事であろうが、客観性を失ってはいけないのだ。なので、その値決めは甚だ悩ましく、よって予測は困難極まりない。

 

 という諸々の事情が頭のなかを巡り、ぼくは値を訊くのを躊躇っていたが、これに関しては教授の身になって考えねばならず、それは必然的に数字に帰着することになる。やはり、ぼくはその額を知り得なければならないのだ。そして、ぼく自身、カリスマが付ける埴輪の名品の価格がいったいどんなものであるのか、この点においても、はなはだ深い興味を抱いていた。

 ぼくは埴輪に視線を向け「実は……」と切り出した。

 「この埴輪を以前から追い求めているコレクターがいらして、たぶん今日の話しをしたら、是非見たいとおっしゃると思います。「そして……」目をカリスマに移し、「もし、差し支えなければ、お値段を……お聞かせ願えますか?」

 ぼくは正座した膝上に載せた両手をぎゅっと握った。Z氏は変わらぬ笑顔でぼくを見つめ、「はい。わかりました」と答えると、床の間の埴輪に目を向け、「値段は……」と言ってから一度口を結んで、切れのある声を放った。

 ――「7000万円です」「‼」その数字に一瞬耳を疑ったが、こちらに目を戻したカリスマの、淡々とした表情を見て現実に返ったぼくは、大きく息を吞んだ。

 想像を遥かに超える金額に、目は開き拳にはさらに力が入る。硬直した身体をそのままに、ぼくはしばらくZ氏を見つめていた。そして、ようやく息を整えてから「凄い……値段ですね」と一言。それを受けZ氏は二、三度小さくうなずいて「はい」と言ったあと

 「実は、これは、わたしの付けた値段ではなく、この持ち主の付けた金額なのです」

 なるほど。――この埴輪は、どうやらZ氏の商品ではなく、所有者から売却を委託されたモノであり、値段はそのひとが決めたということのようだ。要するに、現在の所有者が7000万円でこれを売ってくれと、Z氏に頼んだということである。

 それを知り、ぼくはある意味釈然とした。めっぽう強い値段の理由(わけ)。――これはまさに、このモノの価値を十二分に理解していて、しかも商売を度外視した、コレクターの情熱が遺憾なく反映された、最終プライスだ。蒐集家の付ける値とは、往々にしてそういうものなのかもしれない、と。

 「よほどだいじにしていたモノなのでしょうね」ぼくは当然ともいえる質問を投げかけた。「はい。30年くらいは持っていたのではないでしょうか。他のモノは全部手離されましたが、これだけは最後まで身近に置いていて」

 そのコレクターがどんな方かは知らないが、それはぼくが知らないだけで、この業界ではとうに知られたひとなのかもしれない。宋丸さんなんかに訊いたら「――ああ、あのひとか」とすぐに名前が出て来るような。名品だけでも相当数ある大コレクションを築いているような。――たぶん、そうにちがいない。何ていったって、あの教授が執念を燃やし求め続けている名品を、最後まで手離さなかったひとなのだから。

 ぼくは改めて7000万という数字を頭に描いた。市場(いちば)に出入りする業者からすれば、狂っているとしか思えない金額であろうが、この埴輪に惚れ込んだ高尚な愛蔵家からすれば、当然の価格なのだろう。最もだいじにしていたモノに対する値段である。

 ――これは、この作品の芸術的価値をあえてお金に換算したときに最後に行き着いた、ある意味崇高ともいえる数字なのだ。値段を訊いた瞬間は驚愕したが、今この出色の埴輪を見ていると、それは決して法外な額ではないような気がし、ぼくは身が引き締まっていくのを感じていた。

 

 それからしばらくの間、粛然とした空気を感じながら、ぼくはZ氏とともに無言で埴輪を見つめていた。

 やがてMiuがぼくの横に座り、そっとお茶を置いた。番茶であった。ぼくは軽く深呼吸をしてからそれを啜った。

 Z氏は視線を少し浮かせるようにして床(とこ)を見やり、静かながら流暢に語り始めた。

 「これをお持ちだったひとは、二回事業に失敗して大きな借金をつくり、そのため所蔵品を売り尽くしましたが結局完済できず、挙句の果てに家屋は取られ一家離散、その後生活保護を受けながら三畳一間の安アパートに独り暮らし、昨年重い病のため余命半年の宣告を受けて、現在は施設に入り死期を待っています。わたしは、その方から、これの売却依頼を受けました――」ぼくは思わぬ話に、Z氏の顔をただ見つめるばかり。Z氏は、今度は力強い視線を埴輪に向けると、話しを継いだ。

 「倒産時に会社から個人的に借り受けていた額、十年に及ぶ協議の末離婚が成立した前妻への慰謝料、年利50%の闇金からの借入総額、行方知れずの知人の残した借金の連帯保証料、友人から借りた借用証書六件の総額、埴輪の売却時に生ずるわたしへの仲介手数料、そして、ささやかながらご自身の葬儀代、〆て7000万円。これで、この方の人生はフラットになる。その金額です――」

 呆然とし焦点の合わないぼくの顔に目を移すと、Z氏はふっと口元を緩めて言った。「なんという、世俗的な数字だと思ってらっしゃるでしょう――」返答不能のぼくを見て、「――骨董とは、そういうものです」カリスマは細い眼のなかに異様な光りを灯した。

 

 「ただ、7000万という数字は……」Z氏は再び埴輪に目を向けると、「このモノに相応しい値段だと思ったので、取り扱わせていただいたのです」

 そしていっそう力を込め、「これは天下の名品です! わたしの憧れのモノでした。埴輪の首に、7000万! いったい、誰が払いましょう? 普通でないことは重々承知。かなりの覚悟が必要です。その覚悟に価する数字です。上にも下にも行きません。これが適性の額だと思い、わたしはそれを厳粛に受け止めました。このモノの価値を後世に残すためにも、譲歩してはならない額なのではないか、と思ったのです」

 「そのモノに相応しい額」、「譲歩してはならない額」というフレーズを聞きながら、ぼくはふと、以前宋丸さんが買ってくれた高麗青磁の小皿の一件を思い浮かべていた。――代金だと言って300万を渡されたとき、ぼくはてっきり30万かと思いそれを告げると、「それはモノに失礼だろ!」と一喝されたあの出来事である。

 そのときぼくは、その意味を深くわからないでいたが、今Z氏の話しを聞くに及び、理解の縁に立ったような思いがしていた。

 流通価格はあるにせよ、それに流されず、質の高いモノに対しては、適正な判断をして値を付け動かさなければならない、ということを。特に、「名品」は別格で、尊厳と覚悟を持って対峙しなければならない、ということを。安売りなんてしたらそのひとのレベルの低さが露呈されることになるわけで。

 ――つまり品物の値決めは、その商人の「格」が示されるのだ。

 ぼくは、「骨董商の本来」を、まだほんの入り口ではあるが、確(しか)と感じたように思え、ありがたい思いを胸に埴輪をみつめた。

 カリスマは最後に次のような言葉で締めくくった。

 「名品の値は、破格であって当然です。それは、名品だけが持てる特権といってもよいでしょう。それに対し、われわれは、ただ、胸に手を当て、頭を下げるのみです――」

 

 埴輪の顔の、目の下から頬にかけて粧(よそお)われているベンガラの朱の色が、まるで血が通ったように艶を増したように見えた。

 それはきっと、皇女が一瞬微笑んだからだろうと、ぼくは思った。

 

(第33話につづく 2月10日更新予定です)

 

埴輪女子頭部 古墳時代(5-6世紀)

緑釉水榭 漢時代



彩陶茶碗(アンダーソン土器) 前2500年頃






 

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