作家である以前に思想家であれ(2)~科学万能主義・全体主義への警鐘~

※今回はデリケートな話になります。苦手な方はスルーしちゃってください。

 

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以前、「作家である以前に思想家であれ」のタイトルで近況ノートを書いたことがありました。

賛否が分かれる話なので、その時は肝心なところは伏せてお話ししましたが、最近ようやく風向きが変わって来たので、伏せずに話したいと思います。創作用のサイトでこのようなお話をするべきなのか微妙な所ではありますが、大切な話なので書いておきます。

はっきり言います。ワクチン義務化の是非についてのお話です。

新型コロナウイルスの流行で世界が混乱する中、いくつかの民主主義国家がワクチンを義務化し、日本でも「みんなのためにワクチンを打ちましょう」と同調圧力をかけるCMが当たり前のように流れていました。ネットにはワクチンを打たない人を差別する投稿が溢れ、主要なマスコミですらもワクチンを打たない人を「陰謀論を信じてしまった頭の悪い人」と印象付けるような記事を当たり前のように出していました。

私はこのことにかなり危機感を抱いています。

誤解のないように言っておきますが、私はワクチンそのものに反対しているわけではありません。ワクチンで予防するという選択肢があるのはいいことだと思いますし、打ちたい人は打てばいいんです。

ただ、「みんなのために打て」という全体主義的なやり方には強く反対します。

ワクチン接種はあくまでも「自分のため」であるべきです。

ワクチンの義務化は、人権、民主主義の健全性、科学的な合理性、生存戦略的な観点から見ても大きな過ちであると考えています。以下に詳しい理由を示します。

【①科学万能主義の危険性】

 天動説が地動説に取って代わったように、科学は絶対不変の真理ではなく、あくまでも暫定的なものです。反証可能性があることを忘れてはなりません。「反証可能性」が科学の大原則の一つであることは、私が大学で学んだことです。大事なことなのでしっかり覚えています。

 例えば、コーヒーを常飲している人としていない人を比較して、常飲している人の方が糖尿病のリスクが高いという結果が出たとします。この場合、果たしてコーヒーが糖尿病のリスクを高めていると結論付けていいのでしょうか。ぱっと見、この結論は正しいようにも思えますが、実際には「コーヒーを飲んでいる人の多くは砂糖を入れて飲んでいる」ということを見落としています。このように実験方法に誤りがあったり、見落としていた要素があると、途端に科学は覆ってしまうのです。

 他に身近なものだと怪我と消毒の話。私が子供の頃は怪我をしたら消毒して乾燥させるのが常識でしたが、近年では消毒も乾燥もさせない湿潤療法が一般的になりつつあります。消毒はばい菌だけでなく、傷を修復するための細胞も殺してしまいます。なので実際には水で汚れを洗い流すにとどめる方が綺麗に早く治るのです。

 新型コロナウイルスのワクチンでもこのような例がいくつか確認できています。厚労省が発表した資料に、感染者と接種者の心筋炎リスクを比較して、前者の方がリスクが高かった。だから打ちましょうというものがあります。しかしそもそも、比較するなら「未接種者」と「接種者」にすべきです。また、比較したデータは

感染による心筋炎は「発症/入院した人」

接種による心筋炎は「発症/感染した人」

を百万人あたりに直したものが使われていますが、なぜか感染者の方だけ入院した人が分母になっています。これでは感染者のリスクだけ不当に高く見えてしまいます。このデータがおかしいことはすでに国会でも指摘されていることですが、未だに修正されずにワクチン推奨の論拠として使われ続けています。

 また最近でも「コロナで死亡の子供の多くがワクチン未接種である」という記事が出ていましたが、その根拠となる調査は小児接種が始まる前(つまり小児接種率ほぼ0%)の期間が含まれていて、全体の接種率がそもそも低かったのです。さらに子供の死亡例そのものが少ないため、統計としても不十分です。一人二人の違いで結果がまったく変わってしまいます。

 マスコミに出演する専門家は口を揃えて「科学的に安全だから“絶対”に打ちましょう」「メリットがデメリットを上回るから“絶対”に打ちましょう」と、なぜか科学が絶対に間違えないものだという前提で話をします。彼らは科学の大原則を知らないのでしょうか? それとも金に目がくらんで政府やマスコミに都合のいいことしか言わなくなったのでしょうか? マスコミは専門家の意見を神託か何かのように扱いますが、専門家がすべて統一した見解を持っているわけではありません。同じ人が何度も繰り返し出演してワクチンに肯定的な意見しか言わないのには違和感を覚えます。

 マスコミが嘘と欺瞞に満ちたものであることも大学で学びました。マスコミが原発の安全神話を作り上げてから、震災によって安全神話が崩れるまでのことを講義で見せられた時は衝撃を受けましたが、マスコミがワクチン安全神話のような報道をするたびに、あの時のことが思い起こされます。

【②全体主義の危険性】

 全体主義と聞くと、皆さんどんな印象を抱くでしょうか。

 Wikipediaを開けば、トップの画像にスターリン、ヒトラー、毛沢東、ムッソリーニ、金日成というそうそうたるメンバーが顔を並べています。恐怖政治、独裁、ジェノサイドの代名詞ともいえる人たちですね。

 ワクチン義務化を肯定する人たちは、「私は違う! みんなの命を守るために言ってるんだ!」と言うでしょうが、実際やっていることは全体主義なんです。「社会全体のために体を差し出せ」と言っているわけですから。

 とはいえ、レッテル貼りで議論を終わらせるのもよくないので、ここでは全体主義的なやり方の合理性の是非について論じることにします。

 例えば、世界人口の半分が死亡する感染症が流行り、それに対応するワクチンが開発されたとします。ワクチンの効果は完璧で、接種すれば感染症で死ぬことは100%ありません。安全性も科学的に証明されているとします。

 しかし、先に述べたように科学とは絶対不変のものではなく、後の時代に覆る可能性も秘めています。ワクチンに現時点で判明していない致命的な欠陥がある可能性も否定できません(心筋炎のリスクにしても、当初はこれといった説明がなく、後から出てきましたね)。

 これを科学的に安全だからと全員が接種したらどうなるでしょう?

 何事もなければ誰も死なずに万々歳です。しかしワクチンに致命的な欠陥があった場合、「みんな打っちゃった……」では一巻の終わりです。

 パンデミックはなにも今に始まったことではなく、今後も繰り返し起こることです。そのたびにこんなやり方をしていては、人類史500万年分も持たないのではないでしょうか。

 全員で一つの道に突き進むやり方は、その道が正しければ大きな成果を生みますが、間違っていたら取り返しのつかないことになります。「メリットがデメリットを上回るから“全員”打て」だの「科学的に安全だから“全員”打て」だのという話は、まったくもって合理的ではないのです。

 大きな危機に直面した時に我々が取るべき生存戦略は、リスクを分散させることです。

 多様性が種の保存に有利であることは学校で習ったはずです。上記の例で言えば、ワクチンを接種する人がいれば感染症で人類が死滅することはありませんし、ワクチンに致命的な欠陥があった場合でも打たない人が半分いれば四分の一は生き残れます。

 打つ打たない、どちらの選択もできることが重要なのです。

 ワクチンの義務化を推進した政治家たちは、「感染症から人命を救った」という名声欲しさに全国民に薬害という負う必要のないリスクを負わせたことを反省するべきです。

「命を守る」という美辞麗句で思考停止している人があまりにも多過ぎます。

【③民主主義の危機】

「ワクチンにはマイクロチップが埋め込まれていて、接種すると監視される」

「コロナ渦は人口削減のための陰謀であり、ワクチンには毒が入れられている」

 これらはまあ間違いなくデマでしょう。私はネットやSNSの情報は鵜吞みにしませんし、むしろ大手マスコミの報道を情報源にしているので、世論誘導や印象操作に惑わされることはあっても陰謀論に惑わされることはありません(大学ではメディアリテラシーの講義を好んで履修していましたし、科学系のゼミではゼミ内最高評価をもらっているので、情報を正確にとらえる力にはそれなりに自信があります)。

 しかしワクチンの義務化はつまるところ、「政府が指定したものを強制的に国民の体に入れることができる」という前例を作ることになるのですが、みなさんは本当にそれでいいのでしょうか?

 上記に挙げたデマは荒唐無稽なものですが、悪意の入り込む余地があれば、それに近いことが起こるのはまったくあり得ない話ではないのです。

 国家権力が国民の体に干渉することができるようになれば、それは民主主義の崩壊です。この権力を以って、政権に批判的な人たちを脅すこともできてしまうのですから、国民主権など絵に描いた餅も同然になってしまいます。それこそ、ウクライナでこの間行われた住民投票のようなことになりかねません。

 我々は基本的人権を手放すべきではありません。特に自分の体に関する権利だけは絶対に。

 某有名漫画の台詞を借りるならば、「生殺与奪の権を他人に握らせるな」という話です。

【④公共の福祉の誤解】

 ワクチン義務化を肯定する人たちの論拠としてよく出てくるのが公共の福祉です。

「公共の福祉のために自由は制限されるもの」であると。

 そもそもワクチンを打たない場合でも生まれ持った体で生きているだけですから、公共の福祉に反しているとは全く言えないわけですが(地球温暖化が進むから呼吸するな的な論理ですね)……

 もっと根本的なことを言うと、彼らは「公共の福祉」というものを誤解しています。

 公共の福祉は「社会全体の利益のために基本的人権を制限する」ものではありません(私も学校ではそういう風に教えられてしまったので、最近まで誤解していました)。それではただの全体主義になってしまいます。

 実際には「それぞれに保障されている人権に矛盾・衝突が生じた時に調整する」ものであって、あくまで基本的人権を守るための考え方なのです。

「感染を広げないためにマスク、消毒の対策に協力してください」は理解できますが、「みんなのために体を差し出せ」は公共の福祉を逸脱しています。

 生き物である以上、人が病に罹るのは自然なことです。意図的でもない限り、「移したら悪」という考え方は全体主義的で、迫害にも繋がりかねない非常に危険な思想です。

 厳しい言い方になりますが、最後のところは自分の力で生き残るべきです。

 何億年もの間、途切れることなく命をつないできた丈夫な体を、我々は生まれつき持っているではありませんか。衣食住に医療という生きるために必要なものも充実しています。なんならワクチンで予防するという選択肢だってあります。この時点ですでに基本的人権は保障されているのです。

 そんな中で、他人の体に干渉してまで「罹りたくない」というのは単なる我が儘に過ぎず、基本的人権を逸脱しています。それこそ他人の基本的人権を一方的に侵害しているため、公共の福祉に反しているのです。

 繰り返しますが、ワクチン接種はあくまで「自分のため」であるべきです。

 

ワクチンの義務化の是非について、私は当初からネットニュースのコメントを通して警鐘を鳴らし続けてきました。日本は同調圧力の強い国ですから、当初はこのようなことを書き込めば批判の嵐でした(それでも賛成票の方が多かったのですが)。しかし今では、ワクチン義務化を肯定する声はほとんど聞かれず、私の意見も平均して九割ほどの人から支持を得られるようになりました。

ただ、それは「多くの人が接種しているにもかかわらず、感染爆発が収まらない」からワクチンに懐疑的な人が増えただけであって、私の考えが浸透しているわけではなさそうです。これでは今後新たなパンデミックが起きた時に、同じことが繰り返されるだけです。

この問題は、このまま有耶無耶にしてはいけないと思います。

パンデミックの混乱の中で、我々の民主主義、人権が脅かされていたという事実を直視し、これからの教訓にしていかなければなりません。

 

長文失礼いたしました。

かなり踏み込んだ内容で、ショックを受ける人もいるかもしれませんが……

私のことが嫌いになっても、幻想歴史資料館のことは嫌いにならないでください。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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