作 アントン・チェーホフ
演出 トーマス・オスターマイアー
制作 ベルリン・シャウビューネ劇場(劇団)
チェーホフの戯曲はあまり好きになれなくて、もう観ないことにしてるんだけど💦 この「かもめ」は外せないかなと思い、静岡市まで遠征しました❗️ なぜなら……ドイツを代表する劇場(劇団)であるベルリンのシャウビューネによる上演、演出はシャウビューネを率いるトーマス・オスターマイアーだから。
シャウビューネの芸術監督オスターマイアーは “同時代性を重視した刺激的な演出によりドイツ演劇界に大きな変革をもたらした世界的な演出家” というキャッチコピーが付きます。今回の「かもめ」は昨年3月にベルリンで初演され話題を呼んだそうで、その日本での公演とあれば、観ておいた方がいいかなと。ちなみに、ふじのくに⇄世界演劇祭2018では、オスターマイアー演出によるイプセン「民衆の敵」が上演された。私は見逃したけど、今年2月にロンドンへ行ったときに、イギリス人俳優によるそれを観まして、確かにとても斬新な舞台でしたね。
で「かもめ」です。そんなにたくさんは観ていないけど、このオスターマイアー版は今まで観た中で一番ストンと面白さを感じられる舞台だった。演出が違うと作品がこんなにも別物に見えるのかという新鮮な驚き、演出家の力、その読み方の鋭さを感じました🎉
ステージエリアをほぼ円形に囲む形で客席が設けられていて、その最前列と舞台面とはフラットにつながっている。役者が手を伸ばせば観客に触れられるくらいに近い。それゆえ、登場人物たちに振り掛かっている出来事が身近に感じられ、目の前で繰り広げられるドラマに対する共有感というか巻き込まれ感がありました。舞台が狭いので演技自体も、目立たせるような大袈裟なものではなく、ずいぶん自然な動きになっていたと思うし、そのぶん、繊細な表現、親密な関係性が見えていたと思う。
何人かの人物の造形は一般的な解釈とは異なっていて、とても説得力ある存在になっていました。例えば、役者志望のニーナは小説家のトリゴーリンに憧れ、結局彼にもてあそばれちゃうんだけど、最初から強いシンのある女性になっていて、最後にはその悲劇を乗り越えて前に進んでいくというポジティブな生き方に無理を感じさせない。
そのトリゴーリンは、青年コースチャ(作家志望でニーナのことを好き)の母(女優)と付き合ってるのに、若いニーナに乗り換え、結局彼女に飽きて元の鞘に収まるというどうしようもない男なんだけど(たいてい二枚目役者がカッコよく演じる😅)、ここでの彼は自分に自信がなさそうな、虚勢を張っている弱い男に見え、共感を覚えてしまった。
コースチャと母との関係は、セリフにも出てくるように「ハムレット」のそれと重なるのだけど、本作での2人の愛憎はかなり激しかったな。
そのコースチャは、母に愛されず、好きなニーナには去られ、作家としても上手くいかず、絶望します😔 戯曲だと最後は、隣室から銃声が聞こえ、見に行った医師が戻ってきてトリゴーリンに「コースチャが自殺した……」と伝えるところで終わります。でも今作ではそのシーンがなく、銃声→鳥が羽ばたく音→暗転、という終わり方でした。余韻が残るし、どのようにも解釈できるエンディングです。自殺したのかもしれないし、カモメを撃ち落としたのかもしれないし、あるいは母を殺したとも考えられる……。
椅子と小さいテーブルのみの小道具。舞台後方は白色幕になっていて、1幕冒頭で裏側からライヴペインティングで墨絵のような風景(湖を抱く山並みと木々)が描かれていく。それが第2幕にはベタベタと黒く塗り潰されてしまいます。これってコースチャの心象風景なのかなと思いました。
そうした演出も斬新だったし、役者たちの “役柄を演じていない、その人そのものになっている” のが直球で伝わってくる、とてもリアルな演技も良かったです。感情がたかぶったセリフになると本当に自然に涙が流れていたしね。
そういえば、トリゴーリンが自身の人生についてニーナに話す長ゼリフのところでかなりアドリブを入れており、客いじりもあって、笑わせました。プログラム内の解説によると、役者がセリフを自分の言葉で言い直している(書き換えている)そうで、そのため、よりパーソナルな役柄になっているのだそうです。まぁ、ドイツ語での上演なのでそのあたりのニュアンスは分からなかったですけどねー😓