ジャンヌダルク 1948 アメリカ🇺🇸後半

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あらすじ

「ハリウッド黄金期を代表するスター女優I・バーグマンが、長年切望していたジャンヌ・ダルクの役を体当たりで演じた、第21回アカデミー賞2部門受賞の歴史スペクタクル。

1420年代後半。フランス北部の小さな農村に生まれ育った十代の少女ジャンヌは、神のお告げに従って王太子シャルル7世のもとへ謁見しに出向く。神の声を聞いたという彼女の出現に、人々の信望と熱狂の輪が次第に広がり、百年戦争において劣勢にあったフランスは見事イングランドを撃破。しかしその後、両国は休戦条約を結ぶ一方、フランスの救い主たるジャンヌは、とらわれの身となって異端審問裁判にかけられることとなる。」wow

 

後半の気持ち

前回、僕はスペインの「ガラバンダル 神のみぞ知る」を見ていたので、「ジャンヌダルク」がスムーズに観る事が出来たと言った。このガラバンダルのお陰で、大天使ミカエルを学び、少女にどの様な形で天使が乗り移るのか、実にリアルに描いていた。ジャンヌダルクはこの天使ミカエルに加え、2人の殉教者と子供の頃に会っている。江古田のキリスト教の幼稚園「こひつじ幼稚園」に通っていた僕は聖ミカエルを全く知らなかった。

 

聖ミカエル

「ミカエルは、旧約聖書からユダヤ教キリスト教イスラム教引き継がれ、教派によって異なるが三大天使四大天使七大天使の一人であると考えられてきた。彼はユダヤ教、キリスト教、イスラム教においてもっとも偉大な天使の一人であり、「熾天使として位置づけられることもある。」Wiki

 

聖マルガリタ

「聖マルガリタまたはアンティオキアのマルガリタ(ラテン語Sancta Margarita Antiochenaイタリア語Margherita di Antiochia、英語:Margaret of Antioch? - 304)は、正教会非カルケドン派カトリック教会聖公会聖人。乙女殉教者西方教会での記念日は720正教会717日(ユリウス暦を使用する正教会では730に相当)が記憶日であり、聖大致命女マリナ(ギリシア語Μαρίνα)と呼ばれる。」Wiki

 

聖カタリナ

「聖カタリナまたはアレクサンドリアのカタリナ ギリシア語: γία Ακατερίνη Μεγαλομάρτυς, ラテン語: Sancta Catharina Alexandrina, 287 - 305)は、キリスト教聖人殉教者

正教会では聖大致命女エカテリナとして敬われ、ローマ・カトリックでは伝統的に『十四救難聖人』の一人とされている。ャンヌ・ダルクと話したとされる聖人の一人。祝日は1125ロシアなどの正教会では1124日)。」Wiki

 

僕は、何かに導かれる様に、この記事をジャンヌダルクが殉教者となった日付に近い531に書いた。書き出しの実際はそれより何日か前だったので、ほぼ殉教者ジャンヌダルクの日にブログを書き出した事になる。昨日はあまりにビックリして、寝る事が出来なかったし、涙すら出た。「偶然だろう」と思う人は思うと良い。あなたが生まれたのも偶然であり、必然では無いのだろう。このジャンヌダルクのブログ記事を書こうとした時の、引っ張られる感覚は、説明し難いものだった。

 

神の声を聴く

「のちにジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであればジャンヌは1412年頃に生まれたことになる。さらにジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは13歳くらいの時だったと証言している。このとき一人で屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミカエルレクサンドリアのカタリナアンティオキアのマルガリタの姿をし、イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをランスへと連れていきフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。聖人たちの姿はこの上なく美しく、3名が消えたあとにジャンヌは泣き崩れたと語っている。」Wiki

 

このジャンヌダルクの状況を、「ガラバンダル 神のみぞ知る」の状況と合わせて見るとよく分かる。「ガラバンダル 神のみぞ知る」の「神の声」を聞いた4人も中学校に入るか入らぬ年代なので、色々な点でジャンヌダルクと重複する。その「神の声」を聞いている姿もだ。その「神の声」を聞いている少女達の姿は、限りなく純粋で嘘が無い。4人同時に45度くらい顔を上げて、目を開け、目を瞑り宙を見ている。

これを見てしまい、ジャンヌダルクを見て、聖ミカエルを知ったらどうしようもない。ジャンヌダルクの確信に基づいた情熱も信仰心も理解が出来る。この2つの出来事は、ジャンヌダルクへの感動と信仰心を補完している。

 

ジャンヌダルクの予言

1428、ジャンヌは16歳のときに親類のデュラン・ラソワに頼み込んでヴォクルール英語版)(現在のムーズ県へと赴き、当地の守備隊隊長でありバル公の後継者ルネ・ダンジューの顧問官でもあったロベール・ド・ボードリクール伯にシノン仮王宮を訪れる許可を願い出た。ボードリクールはジャンヌを嘲笑をもって追い返したが、ジャンヌの決心が揺らぐことはなかった[22]。翌14291月に再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、ジャン・ド・メス英語版)とベルトラン・ド・プーランジ英語版)という2人の貴族の知己を得た[23]。この2人の助けでボードリクールに再会したジャンヌは、オルレアン近郊でのニシンの戦いでフランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言した。」Wiki

 

間違い無く、門前払いになるであろう少女は、その予言によりフランス🇫🇷を次々と勝利に導く。映画は、この点の表現が弱い。

 

ジャンヌダルクのイングランド🏴󠁧󠁢󠁥󠁮󠁧󠁿への勝利

「イングランド軍に勝利してオルレアンを解放したフランス軍は、612日にジャルジョーの戦い615日にモン=シュル=ロワールの戦い617日にボージャンシーの戦いと、イングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。ジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認した。」Wiki

 

○ジャン・ル・メートル

セシル・ケラウェ

これが、ジャンヌダルクの上官でしょう。

 

ジャン2

そして当初はジャンヌを冷遇していた指揮官であるデュノワたちもジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となっていった。ジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃を予見して自身の生命を救ったジャンヌを高く評価していた[35]。このジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に投石器から発射された石弾が命中して、梯子から転落しそうになったこともあった。」Wiki

 

引用、引用、引用。ウィキペディアを見て感動したのは僕くらいではないか?

 

パテーの戦い

618日にジョン・ファストルフ卿が率いる援軍が加わったイングランド軍と、フランス軍との間にパテーの戦いの戦端が開かれた。」Wiki

 

○ラ・イール

ウォード・ボンド

 

パテーノの戦い

「パテーの戦いではリッシュモンの指揮のもと、ラ・イルとジャン・ポトン・ド・ザントライユらフランス軍前衛が、イングランド軍が誇る長弓部隊の準備が整う前に攻撃を開始した。これによりイングランド軍は総崩れとなり、イングランド軍主力も壊滅的被害を受けて多くの指揮官が戦死あるいは捕虜となった。ファストルフはわずかな護衛とともに戦場を離脱したが、のちにこの屈辱的な敗戦の責めを負わされている。一方でこのパテーの戦いでフランス軍が被った被害は最小限に留まった。」Wiki

 

そして、負けたフランス🇫🇷の別勢力に、文盲の彼女は手紙を書いている。フランスの敵はイングランド🏴󠁧󠁢󠁥󠁮󠁧󠁿だけでなく、自国内にも居たことは、以前に説明した。その勢力の1つが、ブルゴーニュである。

 

ブルゴーニュ大公。私は伏して貴君に心からお願いいたします。これ以上、聖なるフランス王国と戦いを続けるのはおやめください。聖なる王国の国土や城塞から、一日も早く軍を退いていただけますよう。そして私は、平和を愛するフランス国王の名代として、国王が名誉にかけて貴君との和平を望んでいることをお伝えします

-- ジャンヌが1429717日にブルゴーニュ公フィリップ3に宛てた書簡。Quicherat V, pp. 126–127

 

こう文盲の彼女に手紙で言われ、ブルゴーニュ公国は降伏してしまう。

 

ブルゴーニュ公国軍の条件付き降伏

「フランス軍は629日にジアン=シュール=ロワールからランスへ向けて進軍を開始し、73日にはオセールを占領していたブルゴーニュ公国軍が条件つき降伏を申し出ているランスへの進軍路にあった各都市も抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。」Wiki

 

シャルル7世の戴冠

「ランスは716日にフランス軍に城門を開き、シャルル7世の戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。ジャンヌとジャン2世はパリへと進軍することを主張したが、シャルル7世たちはブルゴーニュ公国との和平条約締結の交渉を優先しようとした。しかしながらブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)は和平交渉を反故にし、短絡的な作戦ではあるが、パリの守りを固めるためにイングランド軍に援軍を送った[40]ブルゴーニュ公国との和平交渉に失敗したフランスはパリへ兵を進めることを決め、進軍途上の都市を平和裏に陥落させながらパリ近郊に迫った。」Wiki

 

1428年、初旬に、ジャンヌダルクは歴史に現れて、1429の夏には、滅びかけていたフランスは、シャルル7世の戴冠式をするまでになっている。この歴然たる事実。そして、9月にはシャル7世は、パリを包囲した。ジャンヌダルクさんのお陰ですとしか言えない事実。そしてそれを事実として、誰からも信じさせているのは、彼女が信仰心に無欲で嘘が無い、純粋な事である。そして

 

パリへの攻撃

イングランド軍の司令官ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙したのは815日で、戦線はそのまま膠着状態となった。フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは98日である(パリ包囲)。」Wiki

 

「この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。しかしながらジャンヌは99日の朝に、ギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意を汲んだシャルル7世からの撤退命令を受けた。」Wiki

 

こうして、まだまだ進軍しようとイケイケ状態のジャンヌダルクにシャルル7世はブレーキをかける。そしてここから、ジャンヌダルクの悲劇が始まる。国を救った、誰よりも愛国心に満ち、誰よりも信仰心の厚いジャンヌダルクは、皮肉な事に、魔女だとされイングランドに売られてしまう。「お前、それは無いだろう」状態。

 

英雄ジャンヌから、魔女ジャンヌ🧙‍♀️

「当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引き渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引き渡しに介入せず見殺しにしたことを非難している。母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは、幾度か脱走を試みている。ブルゴーニュ公領のアラスに移送されたときには、監禁されていたヴェルマンドワの塔から21メートル下の堀へと飛び降りたこともあった。」Wiki

 

映画はこの魔女裁判に長い時間を取っている。多分この部分が裁判であるから、文書が多いのだろう。これが、この映画の問題。イングリッドバーグマンと言う最高のジャンヌダルクを得ておきながら、残念だ。今回はネタバレ🆗でやってるが裁判のところは省略だ。

 

何度でも言う。ジャンヌダルクは文盲である。

この法廷の裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されている。もっとも有名なものは「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と尋問されたときの返答である。

「もし私が恩寵を受けていないならば、神がそれを与えて下さいますように。もし私が恩寵を受けているならば、神がいつまでも私をそのままの状態にして下さいますように。もし神の恩寵を受けていないとわかったなら、私はこの世でもっともあわれな人間でしょうから。」

— 『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』 Wiki

 

「ジャンヌは文盲だったため、書簡はすべて口述筆記させたものだった。現存する3通のジャンヌの書簡にはジャンヌの署名が入っている。」Wiki

 

そして、裁判に負けたジャンヌダルクは、魔女として火焙りの刑となる。この当たりのイングリッドバーグマンの演技は秀逸だ。

 

総括

さて、今回程、映画のレビューをやっていて、幸せな気分になった事は無い。もっともっと、主人公の事を知りたいと思った事は無い。事実は映画より奇なりとはこの事だ。日本史を取っておいて良かった。世界史で受験したら、ここまでジャンヌダルクに感動できたかどうか?

ジャンヌダルクが、魔女裁判に負け、殉教しなければ、今日のフランス🇫🇷があったかどうか🤭

そして最後に疑問を2点。

何故、如何にもボンクラなシャルル7世にジャンヌダルクは殉教しなければならないのか?

何故、フランス🇫🇷で無くてはなら無いのか?

神様、教えてください。

 

今、53日、真夜中の2時。台風の雨音は弱まって来ました。

もう寝ます。

今日が爽やかな朝であります様に。

 

合掌

 
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