徳川幕府の埋蔵金

世界は荒廃の入り口にある。気候変動、戦争、飢餓、疫病、貧困、格差。今こそ埋蔵金が世に出る時ではないだろうか。

黄金の行方 徳川幕府の埋蔵金 改訂版

2024-04-07 15:08:01 | 冒険探索

序章

令和6年1月1日(2024年) 能登半島大地震が起きた。阪神淡路大震災(1995年)以降 M6.5以上の地震が実に20回以上起きている。この中にはM9.0の東日本大震災もあり、又この30年間で火山の噴火や豪雨による被害も度々起きている。財政も含め国家の存続に不安を抱くのは私だけでしょうか。紛争や感染、飢餓と世界を見ても同様に様々な災害が襲っている。しかしながら人々に希望を与えてくれるリーダーはどこにも表れていない。
1997年、私が代表をしていた日本トレジャーハンティングがデイリースポーツの日曜版の娯楽記事で取材を受けた(本書のあとがきに添付)。その時に掲載されたコメントが手元にある。
『我々も財宝も時の流れの中で運命が定まっているのではないでしょうか。とすれば財宝も時期が来ればおのずと姿を現すのでは…』
令和6年、今がその時ではないでしょうか。埋蔵金は紛争や権力者に使われるものではありません。国や民の平和の為に埋蔵されたものです。
埋蔵金が世に出て世界の平和の為になる事を願ってやみません。

序章 その2
どうしてもこのことを付け加えたい。そんな思いで序章その2を載せた。
2024年3月30日、NHKで戦後間もない下山事件のスペシャル企画番組があった。下山事件とは、日本が連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に轢死体で発見された事件であり、迷宮入りした事件である。後にこの事件はロシアのスパイ活動をしていた韓国人の李の仕業としてアメリカに言い含められた日本の高官は終止符を打った。

今回のNHK番組を見た多く方は、この事件はアメリカの国益のため、アメリカの諜報機関が下山暗殺に関与したことを理解したと思う。ここまではっきりTV番組で言えるところまで日本が来たことがうれしい反面、戦後80年近く掛かった事に考えさせられる。実はこの事件の真相に近いノンフィクションを松本清張氏が『日本の黒い霧』という題名で発表している。その内容は、当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在であるアメリカ陸軍対敵諜報部隊が事件に関わったと推理したもので、今になって見れば実に的を得たもので、その情報収集や推理に頭が下がる。
私が何を言いたいのか。本書の改訂版2の中で「小栗上野介の暗殺と明治維新」を載せ、小栗の死を暗殺としたのは、討幕派を洗脳したイギリスの暗躍によるものと判断したからで、単に官軍の処刑ではないという事を、この下山事件が証明するように、自国の利益を優先する米英が自国に不利益な人間を抹殺する事が行われていた事を読者に理解してもらいたいからだ。

 

黄金の行方 徳川幕府の埋蔵金 改訂版

はじめに
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに34数年前に没頭した埋蔵金探索の調査を記載する。内容は30年前に日本トレジャーハンティングクラブ( JTHC)の会員向けに作成した内容もあり、紛らわしい所には年号を入れておく様にしたが、現代に修正することは困難な箇所もある。そのため時代考証は当時のまま記載している項も多くあるのでご容赦願いたい。
また、当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、そのTV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加え、埋蔵金の真実に迫ってみたい。
本書はノンフィクションであるが、推理の部分を20%とすれば、正しくは80%事実であると言ってよい。ただ史実(歴史書など)とされているものや書籍にある口伝がどこまで本当かということは分からない。私は物書きでもなく極めて作文は苦手であり内容は雑文であるが、所々に参考になる文章を引用させていただき、何とか構成している。また、申し訳ないが敬称も省略させて頂く。
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★日本トレジャーハンティングクラブ( JTHC)
現在、同名のクラブがあるが、私がJTHCに入会した頃( 1986年ころ)はなかったように思う。JTHCは当時確か東京電機大学の講師をしていたKが作ったもので、私も当人からそう聞いている。また、当時としては早々とHPも作っていた。
私がJTHCを引き継いだのはKから頼まれたもので、彼が中国地方に転任になった時期だった。その後、彼は埋蔵金探索を引退宣言をしていたが、今は埋蔵金に関するHPもアップしているので、興味のある方は探して見てほしい。
Kもマスコミに多く関わりがあるが、埋蔵金発見には至っていない。だが、彼の調査は同名のクラブとは比較にならない立派なものである。
私はというと、当時沖縄の離島で暮らすか、日本本土内の移住かで悩んだが、結局沖縄に移り住んだため、探索活動を断念し、JHTCは中断したままで消滅してしまったが、機会があれば後進に委ねたいと今でも思っている。
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黄金の行方を記載するにあたり、一番懸念している事は埋蔵金について少しでも探求した人に大きなヒントを与える事になり、むやみに穴掘りを始めないかという事である。
Kの頼みで、沖縄に来てから一度だけ赤城山麓に出向いたことがある。トレジャーハンティングの会員からではなかったが今発掘中なので見てほしいとの事だった。発掘現場は何の根拠もないところで、理由を聞くと夢の中でお告げがあった場所の様だった。彼らの発掘は事の大小があれ、某TV局と何ら変わりはない。確証に近い根拠がない限りやたらに掘り返してはならないのである。
中型のパワーショベルで、道路傍を掘っていた。私はくれぐれも法的に許可を得て発掘を続けるよう伝え、早々に引き上げてきた。


TBSからの手紙

この手紙を頂いてからしばらくして、当時在住していた町田市でTBSディレクターと会ったのだが、元々は私が番組宛てに「 埋蔵金に関する伝承事をもう一度見直した方が良い」というような内容で、いくつかアドバイスをした手紙の返事でもあり、是非お会いしてとの事だったが、
のこのことTV局に出向き先方のペースにはめられても困るので、ホームで会った訳である。
この手紙にもあるように、TV局も赤城山麓で埋蔵金を3代にわたって発掘しているという水野家の伝承事の偽りに気づいており、何か新しい情報が欲しいという理由で私に会いに来たのであるが、「 いい加減に出ないとわかっている発掘番組を止めませんか」という私の言葉に顔色を変えてしまった。
また、トレジャーハンティングクラブ( JTHC)の活動内容なども説明し、迷惑もお伝えした。やたら自説を唱えそこら中を掘りまくるトレジャ-ハンタ―を見ている彼らにとって、郷土史家や学者などが書籍を紐解き、現地を訪ね、探求するというスタイルが異様に見えたのかもしれない。
余程堪えたのか、週刊誌にでも話されては困ると思ったのか、彼はこう言った。「 穴掘りで相当な赤字が出ているので、あとツークル( あと二回の放送)だけやらせてください」。彼は私よりも7~8歳若く、また彼の余談で、この発掘番組でTBSを辞め、現場にのめりこんでいるというAD( アシスタントデレクター)の話も聞いているので、その辺の同情もあり、穏便な対応をしたと思う。
彼には2~3の情報を伝え、偽りの部分の修正をお願いした記憶がある。その後、放送された番組で訂正した内容をテロップで流し、誇張を削除はしたが、大きな修正はされず、収録されていた残りの2回分の放送をして幕を閉じた。
それから2~3年後だったと思うが、性懲りもなく前回の続きのような番組を作り、再び埋蔵金発掘を失敗に終わらせたのである。その事はどうでも良いのだが、他局に委ねた様なエンディングに悲しくもあり、また残念な思いをした。所詮テレビ局の番組であったにしろ、夢とロマンを視聴者に残してほしかった。今から思うと、この頃から私の埋蔵金探索熱も急速に冷め始めた様な気がする。しかし今はあの時彼らに銅板の謎解きを教えないで良かったとつくづく思っている。・・・・・・・・

講談社のKさん
本書を書くにあたり、私のあの時が何時だったのか、どうしてもその記事をもう一度見たいと思い、2018年の秋から奔走した。
Kさん---
今月は弊社の決算月でその仕込みでバタバタしていてご連絡が遅くなりました。スミマセン。 まず倉庫ですが、この倉庫は通常の倉庫と異なり、いわゆる見学を受け付けていません。出荷倉庫ではなく永久保存用の倉庫ですのでこのような運用になっています。 次に合本ですが、私は閲覧可能ですが社員でなく、かつ仕事ではない一般の方の閲覧ができるかどうかはわかりませんので
一応明日聞いてみます( 私が付き添えば可能かもしれませんので)。 最後にコピーですが、これが一番手っとり早い気がします。 1962、1963年発行までわかっているのであれば( 月号とかその記事を読んだ季節とかはわからないですよね)、後は記事の内容を教えて頂ければわかるかと思います。2年分で約100冊あるのでお時間を頂くようにはなりますが。 それではご回答をお願いいたします。
私----
御多忙の折、ありがとうございました。 私も首都圏の図書館などを色々と蔵書の確認をいたしました。 その中で合本以外の冊子別に蔵書があったのは「 明治大学 現代マンガ図書館」でしたが、欠落号が多いため有料会員( 6000円)になって、閲覧費用を掛けながら探しても、見たい号がなければ無駄になりますので止めました。 そうこうしているうちに国会図書館に合本があることが分かりました。これも、一度に閲覧することが出来ないので何度も閲覧申請をすることになります。 覚えている限りの記事の内容をお話いたしますので、その号数が分かれば国会図書館で一回で閲覧できるので助かります。 国会図書館の件は、いろいろとお忙しい中を確認して頂いているので、ご連絡があってからと思っていました。
見開きであったのか巻末であったのかは覚えておりませんが、記事は3~4ペ-ジあったと思います。 赤城山埋蔵金発掘○○億円もうすぐ宝庫にたどり着く・・こんな見出しです。
当時、赤城山で埋蔵金の発掘をしていた三枝茂三郎にスポットを当てております。 小さな発掘品( 亀に形をした石や模様の書かれた漆喰板など)の写真もあったように記憶しております。 この記事の掲載が昭和37年の7月頃から38年の2月頃ではないかと思いますが、もしかしたら36年の7月頃からかもしれません。
Kさん---
今週になってから1962年6月~1963年4月の合本を見てきました。 読み物の場合、目次にそれぞれのタイトルがついていますのでそれであたってみましたが、結果としてそれらしきタイトルのものは見つかりませんでした。 明日以降1961年の7月近辺をみてみます。 とりあえず、中間報告という事で。 ----
今週1961年5/28号~1962年6/27号をあたってみましたが、やはり該当するものはありませんでした。国会図書館のデ-タベ-スでは赤城山埋蔵金で検索したところ、結構ヒットしました。ただ書名だけですので、内容を調べる時間はかなりかかりそうです。お役に立てずすみません。
私----
少年マガジン閲覧の件をご報告させていただきます。小生、4日に成田空港に着き、群馬、埼玉と周り東京には9日に入りました。7日は埼玉から、10日は葛西から永田町の国会図書館に行き、どっぷり調べてみました。冊子の索引だけですと記事を見落とすような気もしましたので、ページを追って調べてみました。結果として、見つけることはできませんでしたが、昭和30年代の少年マガジンの記事傾向がある程度分かり、当時を思い出したりしながら楽しい時間を過ごしました。冊子の傾向的には少年サンデ-にその手( 埋蔵金や宝探しもの)の記事多いことが分かりました。そして、サンデーの記事で1963年の25号と41号、42号に類似の内容を見つけることが出来ました( 残念ながら赤城山の埋蔵金ではない)。少年サンデーも調べたい年代をすべて見ることが出来ませんでしたが( 号の欠落と終了時間のため)、図書館の終了間際、私の目に『 吉展ちゃんを探そう』という記事が飛び込んできました。「 これだ」と、叫びそうでした。
1963年3月1日吉展ちゃん誘拐事件が起きました。身代金目的の誘拐事件です。平成時代のように悪質な事件がゴロゴロしている時代ではなく、当時はこの事件が日本国中が注目する大事件であったのです。いまでは到底記事として載せることが出来ない内容が少年冊子にも載りました。
それがこのタイトルでした。『 愛読者の皆さんに訴える、吉展ちゃんを探そう』...                     
実はこの事件があった時、当時、私はこう思ったのです。赤城に行った後でよかった。この事件の後だったらどんなに怒られたことかと思ったことを、最後の最後に図書館で思い出させてくれました。これにより、再度図書館で調べる年代を絞ることが出来そうです。私が朝早く家を抜け出し、たった一人で赤城山に向かったのは山頂に残雪の残る3月後半から4月中旬だったことは覚えていますので、そうするとやはり1962年が妥当で、少年冊子の記事は1961年の秋きから1962年の春までという事になり、次回は見つけることが出来そうな気がします。.........以上がご報告となります。
Kさん-----
雑誌の件、残念でしたね。また何かあればご連絡をください。「 吉展ちゃん事件」は知っています。私の亡くなった伯父が刑事で、この事件解決に貢献したとかで賞状をもらっていました。

冒険の始まり
昭和38年( 37年かも)、まだ肌寒い4月の朝だった。枕元に置手紙を残し、ありったけの小遣いを持ってそっと布団を抜け出し家を出て、早朝の電車に乗った。東京( 上野)から赤城( 前橋)に向う電車の中は人気がなく、いくら冒険心満々の顔をしていても10歳の少年であり、今思えばよく車掌に色々と聞かれなかったものだと思う。とにかく目的は週刊少年雑誌に掲載された埋蔵金発掘者の三枝さんに会うことだった。誰に発掘場所を尋ねる訳でもなく、赤城山頂の大沼までバスで行き、湖畔に15分くらい居ただけで、帰りの電車賃と時間が心配になり、結局、トンボがえりで前橋駅まで延々山を下り6時間も歩いて戻った。兄に上野駅まで迎えに来て貰うはめになり、家に帰り、こっぴどく叱られるかと思ったが、母が半べそをかいていた事を今でもよく覚えている。
当時流行っていたナップサックの中に筆箱とスケッチブックを入れており、山頂からの帰りに2~3ヶ所スケッチをし、その後油絵にしたのが20歳を過ぎる頃まで、家にあったのは覚えているが、その後はどうなったのか分からない。

少年雑誌の記事の内容は今でも覚えている。色々な発掘品と三枝さんの写真が出ており、あと数週間で宝庫にたどり着くというような内容であった。後年分かった事だが、この記事は昭和36年に刊行された畠山清行の著書『 ルポルタージュ埋蔵金物語』を元に少年雑誌の出版社が三枝氏を取材したものだと思う。
今でこそ思い出話として語れるが、漫画であれ小説であれ、書籍には人を動かす力がある。人生を左右する事もある。ましてや埋蔵金探しの話は少年の冒険ロマンそのものだ。初めて赤城に行った時から埋蔵金探索のロマンを持ち続けていた訳ではない。それから20数年の時が流れ、あるテレビ番組が遠い記憶を思い起こさせ、以来暇さえあれば埋蔵金の調査に出掛け、机に向かうきっかけとなったのである。

その番組は、日本テレビの「 謎学の旅」と言う番組であり、『 驚異の暗号歌-かごめかごめの謎』という題名の2週に渡る特集で、かごめ歌に隠された埋蔵金のありかを探るという内容であった。その見事な推理、解説、謎解きは、近年放送されたTV番組とは雲泥の差があった。
しばらくして畠山清行著『 日本の埋蔵金』を手にし、この著書が多くのトレジャーハンターの埋蔵金調査に影響がある事もその時はじめて知った。以後、私の調査も畠山氏の著書が基本になったことは言うまでもないが、他のトレジャーハンターの様に思い込みや、正夢や、占いなどであちこち掘りまくるものではなく、畠山氏同様に調査の大半は謎解きに費やし、図書館通いと現地調査を繰り返し、歴史をひもとき推理した。
調査の基本はそれぞれの状況下での人間の立場や心理を解析する事に重点を置き、史実( 史実とされているものも含め)と照らし合わせ、矛盾が起こらぬ様に心掛けた。謎が謎だけに、易学を始め、四柱推命、九星気学、十二支や五行大儀を理解することは勿論ではあったが、一番困らせたのは、たった130年位前の日本がなかなか見えなかったことである。今の時代とは違い歴史とは勝てば官軍で都合の良い様に作り変えられているからである。

推理がある程度まとまりかけたころ、小林久三著『 200兆埋蔵金の謎を解く』と八重野充弘著『 徳川埋蔵金伝説』が出版された為、一度目を通してみようと思ったことが色々とその著書の問題点を説明する結果となり本書( トレハンクラブの会員向けの会報誌)の遅れとなったのである。
畠山の懸念通り、氏の著作を無断で引用している本がたくさんある。これは著作の中の囮文面をそのまま引用しているのですぐ分かるのだ。この単純な囮にかかっているのが、某テレビ局であり、八重野充弘、小林久三である。許可を得ているものであればいざ知らず、盗用している物もあると聞いて呆れてしまう。

畠山は『 日本の埋蔵金』の中でこう書いている。
雑誌新聞あるいはテレビラジオに使われていたものがどうして私の著作の盗用と分かると言うと、私の文章には囮が仕掛けてあるだ。実際の話にしても私はその取材に50年の歳月と莫大な費用をかけている。古文書や古記録を買うことはしてないが毎年数ヶ月間旅で暮らすのが例だ。この費用だけでも累計すると相当な金額になる。こんな苦労をして集めた資料をみすみす他人に盗み撮りされるのも癪だから話の筋そのものには影響のない「 人名」とか「 数字」「 年月日」などを替え、例えば「 後藤」という人物の名を「 佐藤」に書いておくというようなことにして盗み撮りをされた場合一目でわかるような仕掛けを文章の中にしてあるのだ。これを盗み撮りするだけならまだしも、中には私の資料を盗んだ事を隠すためまるで自分が埋蔵者でもあるかのようにでたらめの場所や物語を付け加えているものもある。その新聞や雑誌の編集者あるいは作家にしてみると面白く読ませさえすればいいつもりだろうが、実際に埋蔵金の研究なり発掘なりをしている者にとってはこれほど迷惑な話はない。埋蔵金の探索には親子何代かにわたって心血を注いでいる人もあれば、このために命を無くすものも多いのである。このデタラメな記事を信じて一生を棒に振る人間が出ないとも限らないのだ。

私は始めにこの囮を探し出そうとした。関係書籍を漁ってもなかなかその糸口が見つからない。迷路に入った。しかし、現地調査をし始めると、その囮がだんだん見えてきたのだ。囮にしてはあまりにもお粗末だった。畠山氏はこう言いたかったのではなかろうか、最低このくらいは自分の足で調べなさいと。本書はこの囮をはっきり指摘し記載する。これは伝承事を調査をする上で大変重要であり、これから埋蔵金探索を始める諸君にとって無駄に迷走することもなく役に立つと思うからである。
畠山清行著書は上下巻含めて890ページになり、文字も小さい。今風のエッセイ本に例えるなら軽く2000ページくらいにはなる長編である。そんなわけで今回( 令和元年)もう一度読み返すだけでも相当時間を費やした。そして改めて気がついたことがある。畠山は赤城山麓や多田銀山の埋蔵方法について八門遁甲の秘物埋蔵法と説いているが、八門遁甲の解読や自身の調査結果の解説は全編を通してしてはいない。 
著書の内容は全国の埋蔵金話を物語調で書いており、これでもかというほど諸説が飛び交う。しかし、こうだという結論があるわけではない。いわばネバ-エンディングスト-リ-で後は読者自身で想像してくれという内容である。この中身がいい加減なものなら履いて捨てるのだが、畠山が50年もかけた調査であるのでグイグイと引き込まれる。

八問遁甲の秘物埋蔵法とは発掘者にあえてそれらしい証拠品を見つけさせ、のめり込ませるという手段で、何年何十年もかけて探した挙句、結局、元の木阿弥で結果が出ないまま、今度はこっち、その次ははあっちということを繰り返し、最終的には行き倒れにでもなるかのように朽ち果てるというものだが。畠山の埋蔵話にはどれもこの証拠品のような餌( 著者の推理を少しだけ載せる)がある。意識してか知らず知らずのうちか、畠山の著作が八門遁甲の術にはまっている気がしてならない。 
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本書は行き掛かり上、日光の埋蔵金( かごめかごめの数え歌の謎)の推理から始める事にする。この時に調べた四柱推命や九星気学、遁行、易学、陰陽五行などが、赤城山の埋蔵金場所を解読の上で役に立つからで、当時埋蔵に必要とされる技術力( 方位や実測値割り出すこと)がどれくらいあったのかを判断する事が、他の埋蔵金解読書などで無理やり方位や数値をこじつけて謎解きをしているものを見分ける手段でもあり、色々角度から埋蔵金場所を推理して頂ける資料にもなる。
また、赤城山埋蔵金の項では必要以上に易学等の資料や登場人物の経歴を載せたような気もするが、図書館に通わず本書の内容を分析するにも役に立つし、後々、読者独自の埋蔵金調査にも必要となるのでご容赦願いたい。

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日光の埋蔵金( かごめかごめの暗号歌)
結論から言えば日光の埋蔵金は3ヶ所にある。それは埋蔵金の性質を理解した上での答えとなるので、まず、その事から記載する。
埋蔵金の性質
日光の埋蔵金、赤城山の埋蔵金、多田銀山の埋蔵金と挙げても、それぞれ埋蔵する理由がある。赤城山の埋蔵時の幕政事情は別の項で詳しく述べるとして、多田銀山の埋蔵説は豊臣復興の財源であることは間違いない。では日光はというと、性質( 理由)的には2通りあり、ひとつは法隆寺同様の伏蔵に近い理由であろうと考えている。
伏蔵とは
聖徳太子が法隆寺創建時に造らせたものとされており、寺に重大な危機が訪れたなら、伏蔵を開いてその危機を切り抜けよと言い伝えられた、地下に隠された蔵の事である。法隆寺にはこの伏蔵は3ヶ所存在する。なぜ分散したのかは不明ではあるが。それは伏蔵を開けると分かるかもしれない。単純に考えれば盗掘を想定した配慮( 策)かと思うが、易学的方位などが加わると判断が難しい。
法隆寺の伏蔵の中身は、興福寺や東大寺の金堂の地下で発見された鎮壇具的なものではないかと考えている。鎮檀具( ちんだんぐ)とは寺院を建立する時に,地鎮のために埋納される品々の事を言い、金、銀、真珠、水晶、琥珀、瑠璃( ガラス)、瑪瑙などの七宝と鏡鑑,刀剣など除魔の呪術的効果があると信じられるものである。因みに興福寺の鎮壇具は約千数百点の膨大な量である。
日光のもうひとつの理由は神に対する供物を意味する。私の推理する3ヶ所の内、中禅寺湖の埋蔵物は易学的な金の性質を理解した供物で、大権現という神となった徳川家康への供物ではなく、二荒山大神(男体山と中禅寺湖を含めた神の領域)への供物である。
供物を含め日光の埋蔵物は、東照宮の創建時や大造営時の時代考証からして、興福寺の鎮檀具の様な物ではなく、大法馬金の様な金塊が妥当と考えている。
大法馬金とは
大法馬金は大判2000枚分である。その大判は小判10枚分。すなわち、大法馬金は1個で2万両となる。1個330キログラム。現在( 令和2年)の金価値で約24億円。発見されれば、歴史的価値を考慮すれば70~100億円くらいではないだろうか。
徳川家光が行った東照宮の寛永の大造営の際、その費用で、金小判だけでも56万両の記載がある。予算的には記載されない大法馬金が5~6個あっても不思議ではない。
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方位
トレハン( トレジャーハンティングクラブ)の会員よく聞かれることで、江戸時代に我々が地図の上に書くような直線や方位をなぜ測ることが出来たかの質問に、奈良平安時代の建造物に用いられた知識の延長と答えるのだが、山や川、そして海を越えたりする地理上の方位はの質問には日置氏の由来や修験道におけるいわゆる山伏の事も話すようにしている。
最近( 平成10年頃)では20年近く前( 昭和53年頃)のNHK番組の話をしている。タイトルは「 太陽の道」という企画である。
太陽の道
古代( 3~4世紀)の日本民族( 太陽信仰)が北緯34度32分の線に沿って、約200Kmもの道程に神社や巨石の遺蹟を残しているというもので、調査の結果、淡路島から伊勢湾の神島まで確かに足跡があるというものである。ここでその内容を詳しく話すつもりはない。ただその番組の中で地元高校生を主体にある実験をした。それは棒や綱、そして太陽の影だけを利用して5Kmの直線を進むという挑戦であった。もちろん北緯34度32分を。はたして結果はどうであったか。国土地理院がレーザーで測定した位置と僅か20mの横ずれしかなかったそうで、地理院の技術者も舌を巻いたのである。
古代、城や神社仏閣の建造にはもちろん正確な測量技術が必要であった。それが分かっていても、気の遠くなるような距離では無理なのではと勝手に判断してしまう。しかし実際はそうではないことをこの実験は証明してくれた。素人の高校生でさえ結果を残しているのである。
江戸時代の専門職( 日置氏の系統)がそれ以上の仕事をするのは容易なのである。「 太陽の道」の古代人は私が調査している江戸時代の埋蔵金の年代より、遥か以前のことである。
埋蔵物や遺跡を調査する際、埋蔵者や古代人の知識や技術をつい侮ってしまう場合がある。又、無理矢理結果をこじつけようとすることもある。そんな時は是非このことを思い出して貰いたい。常に彼らは我々より数段上の次元にいると考えた方が良い答えが出るものである。

「 かごめかごめの暗号歌」

 日本テレビ『 謎学の旅』
『 かごめかごめ』の歌とは何か。日本テレビ『 謎学の旅』では、この童謡を徳川家康縁の埋蔵金のありかを示す暗号歌として推理し、日光東照宮や日光周辺の山々をヒントに暗号を解き進み、最終的に埋蔵場所を古峰が原湿原として探索したものである。より詳しくは二見書房の『 謎学の旅』を読んでもらいたいが、私の推理と比較する上で『 謎学の旅』の推理を引用してみたい。

【 かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった 後ろの正面だあれ】
この歌詞は誰もが知っていると思う。そして、TV番組では、この後に続く歌詞を、詩人、谷川俊太郎編による『 日本マザーグース』より見つけている。その歌詞とは。
【 向こう山でなく鳥は、しんじん鳥か 鶏か 金三郎のおみあげに なにを貰った きんざしかんざし貰った 納戸のおすまに置いたれば きうきう鼠が引いてった 鎌倉街道のまんなかで 一ぬけ二ぬけ三ぬけさくら さくらの下でふみ一本拾った その文だれだ 金三郎の妻だ 金三郎の妻は山しょにむせた あくしょ あくしょ 一本よ】
また、実際に唄えるおばあさんにも聞いている(栃木県)。その歌詞は次の通りである。 
『 向こう山でなく鳥は しんしん鳥かみや鳥か ぎんざぶろうのおみあげに 何と何とを買ってきた 金ざしかんざし買ってきた 戸だなのおすまにおいたれば キーキー鼠が引いでった どこからどこまで引いでった 鹿沼の街道の松の下 松の下』
●金三郎ではなく『 ぎんざぶろう』と唄っている事に注目。
恐らく、谷川俊太郎の『 日本マザーグース』も口伝の聞き取りであるので、どちらが元詩に近いと判断できないのだが、二つ合わせると何やら謎解きが見えてくる。
埋蔵金場所を推理する上で、『 謎学の旅』の番組では、このおばあさんの詩を全く無視しているが、私はこのおばあさんの詩から重大なヒントを得ている。ではその『 謎学の旅』の謎解きの推理を紹介する。分かりづらい点があれば、参考資料の東照宮配置図、日光周辺図を照らし合わせて頂きたい。

A図 TV番組で放映された籠目の地形( 右)と地図上の実際の形( 左)

 

B図  日光東照宮の配置と埋蔵ポイント

 

 

 

C図  夕日岳を中心にした謎学の星形の位置と私の推理する亀甲目の位置( 日光周辺図)
亀甲目の中にある星形が謎学の旅で紹介された位置

『 謎学の旅』の謎解きの推理


【 かごめかごめ】…篭の目と解き、星形のマークを重要視している。添付A図参照
【 篭の中の鳥は】…鶏であり、これは金鶏伝説に基づき、鶏=黄金と推理し、すなわち黄金を閉じ込めている状態を言っているのだとしている。
【 いついつでやる】…どうしたら出せるのかと解して、以下の歌詞を埋蔵の場所の謎解きとしている。
★これ以降の謎解きは、日光東照宮の建造物にたとえたり、周辺の山々に呼応したりしているのでB図C図をよくご覧いただきたい。
【 夜明けの晩に】…夜明けを待つ頃と解し、日光東照宮の陽明門を指している。また陽明門は別名、夕暮れ門ともいう事から日光周辺の夕日岳とも呼応しているとの推理。
【 鶴と亀がすっべた】…すべったとは、統べる、交わると理解し、鶴と亀は東照宮の鶴亀の対象である鐘楼と鼓楼とした。また双方が交わる場所が陽明門の前であるので、周辺地理では陽明門に呼応するとした、夕日岳の前と解読した。 
【 うしろの正面だあれ】…東照宮、上神庫の二象が後ろを振り向いているので、この象の振り向く方向を少々無理はあるが陽明門とした。またこの二象を〈 二蔵とも解し〉周辺の山で直線状に夕日岳を見る、北地蔵岳、南地蔵岳とした。 
【 一ぬけ二ぬけ三ぬけさくら】…さくらの文字より一字抜くことで日光周辺の山の暗号と推理した。さく…石裂山 さら…さる( 庚申山)くら…地蔵岳 また三ぬけの事を東照宮の表門、陽明門、唐門をぬける事とも解いた。
【 桜の木の下で文一本拾った】…文とは唐門をぬけた拝殿の中の欄間の桜飾りの下にある三十六歌仙の歌とした。三十六歌仙の中から日光と縁の深い、小野猿田彦と同名の小野小町の歌とし、埋蔵場所を示すとした。
その歌とは…『 詫び塗れば、身を浮草の目をたえて、さそう水あらばいなんとぞ思う』という歌詞である。この歌詞の『 さそう水』をヒントに夕日岳の前である、古峰ケ原湿原と解いた。古峰が原湿原は利根川の源流でもある。
この謎解きにはもう一つの重大なヒントがあった。南光坊天海が江戸城守護のために使ったとされる易学の『 守護線』である。この守護線は東照宮にも使われており、日光東照宮、世良田東照宮、富士山、久能山東照宮とを結ぶ線がそれである。D図参照そして埋蔵地点はこの線上の〈 古峰が原湿原〉でもあるとしたのである。また、解読した篭の目の場所を図にするとA図右のようになり、古峰ケ原はその中心になるという事である。以上が『 謎学の旅』の推理概略である。 

 

D図1.2徳川幕府の守護方位と守護線

 


 
暗号歌かごめかごめの解読

私の推理に入る前に『 謎学の旅』の推理の疑問点を検証してみる。まず籠目の図形とされる参考資料A図右を実際の地図に当てはめるとどうなるか、実測図の参考資料A図左を参照してもらいたい。どうだろう、これが中心に亀甲目をつくる星形に見えるだろうか。ここに「 謎学の旅」の推理の矛盾がでてくる。久能山から日光までの守護線を引けた者が、どうしてこのように歪な星形を引いて篭目としたのかという事である。
それからもうひとつ、二象( 二蔵)が振り向く方向が陽明門であり、そこが埋蔵地点、古峰ケ原湿原であるとするならば、南地蔵岳は良しとしても、北地蔵岳は地理上、陽明門すなわち夕日岳を向くと、古峰ケ原には向かなくなってしまう。この矛盾を無視したまま推理解読した為周辺の大きなヒントが見えなくなり、つじつまの合わないままの結論となっている。
推理した人の考えの中には結果〈 埋蔵場所〉である陽明門〈 夕日岳〉前がすべてに先行したのではないだろうか。その夕日岳が示す本当の意味をもう少し検証していればと思うと実に残念である。
『 謎学の旅』では最後に埋蔵金探査をした。『 地中レーダー』『 誘導率探査』『 重力探査』の三種類であった。結果は失敗に終わったが、共感する推理もあり、楽しい番組であった。

さて私の推理だが、その前にまず日光という場所を理解してもらいたい。
『 日光という地名は、昔男体山が二荒山〈 フタラサン〉と呼ばれていいた頃それをニコウと音読し、これを弘法大師がこれに日光の字を当てたことによると言われるが真意のほどは明らかでない。しかし、平安の書物にもその字が見られるように歴史は古い。
日光は七世紀後半、下野の勝道上人によって開かれた。下野を発った上人は大谷川まで来たが谷を越えることができず困り果てた。そこで上人が一心に経を唱えると深沙大王が現れ、二匹の蛇で橋を架けてくれた。この橋のおかげで川を渡り日光を開くことができた。この橋が今の神橋である。
これより昔、神代のころ、下野の国の男体山と上野の赤城山の神が中禅寺湖をめぐって領地争いをしたとき、それぞれが大蛇とむかでに化身して戦った。苦戦の末、大蛇である男体山の神の軍勢、小野猿田彦の射た矢が敵のむかでに命中、血を流しながら赤城山に帰ったという。この決戦が繰り広げられたのが戦場ヶ原、勝負の着いたところが芭蕉ヶ浜、むかでの血が溜まってできたところが赤沼、そして勝利を祝い歌ったところが歌ヶ浜となったといわれている。


E図

解読1

『 かごめ』は篭の目であるが謎解きは星形ではなく、その中にできる亀甲目である。
亀甲目とは亀の甲羅の形であり、篭目編みによりできる形の事である( E図)。古くから亀を縁起物として考えていたことと同じようにこの形も使われていた。皆さんが知っている醤油会社のキッコーマン( 亀甲萬)は名前もマークもここからきている。確かに『 謎学の旅』のようにヘブライの星形マークとした方が謎的で面白く興味もそそるが真実を曲げてはならない。
星形のマークについては各地に残る魔よけの印としての伝承も引っかかるものがあるが、あとに続く歌詞『 鶴と亀がすべった』にしても埋蔵に使われたとされる気学や易学の上から考えても、動物の亀を重視し亀甲目と考えた方が自然である。 

解読2 

『 篭の中の鳥は』とは、『 謎学の旅』と同じく金鶏伝説に基づいたもので、私も鶏と判断している。金鶏伝説は世界にあるが発祥は中国やインドでもなくエジプトであり、シュメール文明まで遡るかもしれない。このことは後の文中にも類似した項目があるのでご記憶願いたい。参考までに、わらべ歌の中には『 篭の中の鳥は』という歌詞を『 地蔵さんは』『 鱒は』などと面白いものもあるが前後の歌詞が同様であるので問題にする必要はないと考える。ちなみに東照宮の彫刻の中にも錦鶏、銀鶏など鶏の彫刻がある。
解読3

【 いついつでやる】これはどうしたら出る?、またはどうしたのか?と考える方が正しい。わらべ歌を調べると『 いついつでやる』の歌詞を『 出わる』『 寝入る』『 逃げた』『 立つな』『 出しゃる』などとある。この言葉から連想すると双方の疑問符が考えられる。いずれにしてもあまり問題はない。
解読4 

【 夜明けの晩に】これも難解な言葉である。
類似する歌詞に『 四日…五日…七日…八日…十日の晩に』『 月夜の晩に』『 夜中の頃に』『 まだ夜は明けない』などの歌詞がある。
かごめの歌の発祥が栃木県とすれば、この歌詞は離れた地域に多く伝承( 伝播)の段階でオリジナルに変化を加えたものであり、これらの歌詞は除外できる。本来の歌詞に近いものをと考えると、夜明けの頃すなわち太陽を迎える前となり、日光東照宮に例えるなら、太陽の門とされる陽明門として考えても不思議でないのだが…
陽明門には別名、『 夕暮れ門』『 日暮れ門』という名前がついており、『 謎学の旅』では『 夕日岳』と結び付けているが、別名が初めからあるとは思えない。ここでも『 謎学の旅』の推理に大きな矛盾が生じている。東照宮創建時または大造替時点から建物に方向を示す謎を凝らしたのであれば、つじつまがあわなくなるからである。なぜか。創建時に別名をつけたとは思えないからである。

解読5

【 鶴と亀がすべる】は鶴と亀を鐘楼、鼓楼と考え、陽明門の前で交わると『 謎学の旅』では判断しているが、それだけではなく次の様な意味がある。
亀は古代東アジアでは蛇と組んでいたし龍とも組んでいた。中国では、亀と蛇とを組んでいたものを玄武と称し、玄武神は北方の神だった。韓国では玄武を玄風とも言い、風は古来蛇王を表す仮借字であった。また古代エジプトでは、亀は大地の神グブのシンボル、グブ神の代替記号は5である。またグブ神は太陽の運行を摂理する神でもある。そしてエジプト系では鶴亀は日・月神を意味している。これは中国古来の九星気学における大地=亀=5とも共通するものがある。        

F図

 

家康と鶴亀の呼応は一目瞭然で日光東照宮の奥社を見れば分かる。奥社すなわち家康のお墓にはシンボルとして、大きな亀の上に鶴が舞っている像があるからである。また、奥社は東照宮配置の真北にあり、玄武神の位置でもあるからである。
このように亀と太陽、すなわち太陽神〈 徳川家康〉とは大いに関わりがあるのである。わき道にそれたついでにもう一つ覚えておいて頂きたい。シュメール語の字音で日の出を『 エ』という。中国を経由して日本に渡り同意語として『 イエ』という字音になった。これを漢字の家の字を使い日の出の方向を表現した場所は日本にたくさんある。そして私の謎解きの中心である日光の鶏鳴山の日の出の方向にも『氏家』という地名がある。エジプト、シュメールなど、とんでもないように思えるが、日本の神道学や中国の易学に大いに影響していることは確かであり、南光坊天海や後に記載する林羅山もこの神道、易学を学んでいるのである。ここでの結論として、第一の埋蔵場所は陽明門の前( 鐘楼と鼓楼の間)とする。そして、これは伏蔵である。

解読6

【 うしろの正面だあれ】
この項は極めて埋蔵個所を特定しやすく、現地の方にご迷惑ともなりかねないので割愛する。
解読7に入る前に、私の推理する陽明門と呼応する場所を明らかにしておきたい。それは鶏鳴山である。鶏鳴山は日光周辺の山々の名前の基準となった可能性もあるし、私の推理から割り出した亀甲目の地理の中心でもある。参考資料C図 
地理上、夕日岳は鶏鳴山から見た〈 真西〉山岳名である。
また、真東に目を向けると、松田新田や氏家という地名がある。氏家については既に説明をしているが、ここでおばあさんの歌を思い出してほしい。『 鹿沼の街道の松の下 松の下』松田新田や氏家は確かに鹿沼街道方向にある。松田新田が松の下と伝播してもおかしくはない。
松田新田や氏家は間違いなく鶏鳴山から真東( 日の出)の場所である。すなわち鶏鳴山は日の出を迎え、日没を見る山なのである。また、氏家は丑( ウシ)家をもじったものかもしれない。丑は十二支の徳川家の守護方位である。
いずれにしても、松田新田や氏家は埋蔵場所ではなく、埋蔵方向を意味する。

解読7

【 向こう山でなく鳥は しんしん〈 しんじん〉鳥かみや鳥〈 鶏〉か】
この項は極めて埋蔵個所を特定しやすく、現地の方にご迷惑ともなりかねないので割愛する。

解読8

【 金三郎のおみあげに何を貰った〈 何となにを買ってきた〉】
金三郎とは鶏鳴山から鶏頂山と同距離にある平五郎山のもじりと考え、おみあげは埋蔵物と見てみる。子供の遊戯の様に鶏頂山から左回りで平五郎山に行ったのである。
もしかしたら、平五郎山は埋蔵当時は金三郎か銀三郎山と称していて、近代になる過程で平五郎山と変わったのかもしれない。山岳名が変わることはよくある事で、例をあげたら枚挙に問わない。また、同じ山を別の呼び名で呼称する場合も多い。富士山にしてもその昔は福慈岳、不二山と記されていた事もあり、音が同じでも伝播の過程で呼び名が変わることもある。まして、人里離れた山であれば、時の権力者が、あの山は○○山と言えば、その日から名前が変わるのである。

解読9
【 戸棚〈 納戸〉のおすまに置いたれば】これは竹堂随筆の中に出てくる〈 かごめ〉の歌に類似する歌詞『 なべのなべののそこをぬいてたもれ』にも共通するもので、土間や台所が連想できる。
鶏鳴山から鶏頂山、平五郎山と左回りの同距離にある庚申山は音読で荒神とも読める。荒神はかまど〈 台所〉の神様でもあり、陰で人々を守る意味もある。夫の対しては妻である。この解読は庚申山に置くという意味である。これは『 金三郎の妻』との意味を兼ねているものとして解釈しても良い。
★気が付かれた読者もおられると思うが、私の推理はかごめ歌の遊戯であり、手をつないだ子供がしゃがんだ子供の周りをまわる姿そのものなのである。

解読10
【 きーきー鼠が引いてった】
解読11
【 どこからどこまで引いてった】
解読12
【 鹿沼の街道の松の下 松の下】

★解読10~12は極めて埋蔵個所を特定しやすく、現地の方にご迷惑ともなりかねないので割愛する。

解読13

【 一ぬけ二ぬけ三ぬけさくら】
さくらの文字より一字抜くことで日光周辺の山の暗号と推理した「謎学の旅」の深読みの必要はない。又、さらをさるとし、庚申山に結びつけたのは無理がある。
続く文のさくらの下でを考えれば三ぬけとは東照宮の表門、陽明門、唐門をぬける事でよい。


解読14
【 さくらの下で文一本拾った】これはこれも『 謎学の旅』と同様で、小野猿田彦に引っ掛けて小野小町の歌とすることは、日光の縁起を考えれば妥当である。さて、その文の『 わびぬれば、身を浮草の根をたえて、さそう水あらばいなんとぞ思う』これは地蔵岳のポイントを指す。『 謎学の旅』の解読では、利根川の源流でもある日光古峰ケ原湿原としたが、私が推理する『 ある特定の場所』にも鬼怒川の源流が二つある。
・上記を削除し、下記を加入。
【 さくらの下で文一本拾った】これは日光の縁起を考えれば小野猿田彦に引っ掛けて小野小町の歌としたいところではあるが、本命は頼基朝臣の歌である。その歌とは・・
『ねのひする野べにこ松を引きつれてかへる山路にうぐひすぞなく』
ねのひする野べにこ松を引きつれて・・は、平安時代の貴族の野べ遊びであるが、不老長寿や繁栄を願っての意味があり、恐らく徳川家の万代までの繁栄を願っての意図した一句を選んだのではないだろうか。また、解読の10~12までの中で鼠(ね=子)、引く、松の下の重なることも見逃せない。
かへる山路に・・とは、東照宮のある日光山に戻る意味で、求める場所は裾野という事になる。

解読15

【 その文だれだ、金三郎の妻だ】金三郎の妻を庚申山と解読したのだから、文は庚申山が持っている考え、文そのものが埋蔵物を意味すると考えてもおかしくない。

解読16

【 金三郎の妻はさんしょにむせた、あくしょ あくしょ あくしょ 一本よ】これも埋蔵金のポイントを指しているとみていいが、残念ながら確信はない。
さんしょは、樹のさんしょなのか、三書なのか、三所なのか。あくしょはくしゃみのことなのか、悪書の事なのか。ただ金三郎の妻はとあるので庚申山が絡んでくることは間違いない。これは単純にくしゃみと考えると、庚申山からの方向は日の出の方向である。くしゃみは、太陽を見ると自然に出る人間の生理であるから、こう考えても不思議はない。
また、私は埋蔵個所を3ヶ所とみているので「 さんしょ」は3所が正解かもしれない。

結論として私が推理する第2の埋蔵地点は『 ある特定の場所』にある。この埋蔵金は東照宮の外なので単に非常時の再建費用と考えても良いのだが、易学的に決めた方向でもあるので、やはり伏蔵本来の意味もあるのではないかと思う。
あくまでも私の解読ではあるが、すべての条件が『 ある特定の場所』に集まってきている事からの判断である。
決して『 ある特定の場所』を最初から無理矢理考えたものではない。
解読の決定打ともいえることは、謎解きの順番である。鶏鳴山を中心に回る謎解きは遊戯そのものであり、うしろの正面が太陽、すなわち徳川家康だったことである。
『 謎学の旅』を批判するわけではないが、男体山や東照宮を推理に使い解読するとき、どこどこに相対する山としたり、お婆さんの歌を無視したことはいただけない。また都合のよい歌詞だけを謎解きの材料にとしたところや、方位の正確性を無視したことに大きなミスがあると思う。

最後に私の推理する3ヶ所目の埋蔵場所を記載する。
私は何度か日光に調査に行っている。ある日、中禅寺湖の歌ヶ浜で残雪の男体山を眺めていると、その稜線がまるで白鶴が羽を広げ、湖畔に首を垂れているかのように見えた。そして反対側を見るとどうだろう、亀が鶴を見ているかのように八丁出島の寺ケ崎がのぞいていた。思い過ごしではと思われる向きは一度行かれてみるとよい。これでも少々絵心のある私の目にははっきりとそう見えた。
天海もここで何度かこの景色を見ているだろうと思っていると、はっと気がついた。中禅寺湖は毎年必ず氷結する、亀も鶴も滑るではないか、氷に穴をあけ、それこそ蔓と瓶を使って沈める。
さらに、重大なことにも気が付いた。鶴と亀の意味は反対になるのだが、男体山は蛇の化身でもあり、大蛇は玄武神で亀と共であり、亀そのものと考えられる。また八丁出島の後ろには半月山があり、月は月神すなわち鶴なのである。鶴と亀は中禅寺湖にも存在していたのである。
湖に捧げ物をする風習は世界中にあり、神への祈りためや、転生を願い金や鉱物を元のあるべきところに戻すことは希ではない。易学の『 金気』すなわち金は、水を生み出す物となっていることをわすれてはならない。 次ページ参考資料

G図


 

以上で日光の埋蔵金解読は最後としたい。埋蔵金が本当にあるのか定かではないが、日光周辺には本当に不思議な地名が多い。
疑えば、埋蔵と同時に名を付けた場所もあるのではないかと思う。誰が名付けたのか、やはり埋蔵の実行者とされている慈眼大師〈 南光坊天海〉ではないかと思う。天海はこれ以前江戸幕府を守護するため、江戸城を中心に守護線を引き、その上に守護の為の神社仏閣を配置している( I図)。そして日光造営に関してもその守護方位を実行している。次ページ参考資料

I図

 


 
ただし、私は徳川の守護の方位そのものは天海が決めたものではない。徳川家元来の伝承であると判断している。それは、守護線の始まりは駿府、富士山、二荒山というラインが基本であるからして、年代的にも天海であるはずがないからである。富士山と二荒山の間に世良田東照宮が位置するのだが、これは天海が世良田東照宮を現在の場所に移設建立した形跡がある。
天海についてもう一つ。埋蔵金の隠匿方法としてよく言われる八門遁行が、もし徳川家に誰かが言い伝えたとしたら、私は天海の可能性が高いと思う。それが秘行とされ門外不出の物であるならば、徳川安泰の時期に入ったものと考えるのは不自然であり、それ以前の徳川幕府創設期と考えるのが妥当である。
参考までに、武田信玄の軍学術として伝えられてきている『 甲陽軍艦』は信玄の死後書かれた物である。天海は武田信玄存命中、直直に招かれており、その後家康に用いられることになるのであるが、武田での行動はあまり定かでない。また、武田軍学術は孫子の思想に近いことは確かであり、三輪や諸教学を学んだ天海が武田の軍学術に何らかの影響があったと考えない方がおかしい。
武田氏滅亡後、武田の家臣800余名が、家康の家臣となり存命したのも、私はこの天海の助言があったのではないかと考えている。
それだけ武田の家臣に信頼があったという事は、思想的に信頼があったことである。では仮に天海が徳川家に八門遁行を伝えたとして、その後どうなったか。この秘行を受け継ぎ幕末まで伝えられる人物が、仮にいたとするならば、道理から考えても一人しかいない。天海と同時期に家康に召し抱えられ、また天海に学んだ可能性がある人物、それは林羅山である。
林羅山は幕末までに続いた林家〈 林大学頭〉の始祖である。その林羅山〈 江戸初期の儒学者〉は、後年神道や日本の歴史に関心を深く示し、神儒一致とした『 神道伝授』『 本朝神社考』などを著していくのである。私はここに天海の思想が入り込んでいるのではないかとみている。

 


赤城山の埋蔵金

「 幕末の事情と埋蔵金」
埋蔵金なるものがあるとすれば、だれが、なぜ、何のために、いつ、どこに、どの様な方法で埋蔵した、という事になるのだが、本項はそもそも赤城山麓の埋蔵金伝説に焦点を当てているので、どこには省くのだが、ではなぜ赤城なのかという疑問が残るのでその理由を記しておきたい。これは誰がという事とも共通するので、最も重要な何のためにと合わせて説明する。

江戸時代における赤城神社
大洞赤城神社が歴史上に登場するのは江戸時代になる。1601年( 慶長2年)、厩橋( 前橋)城主として入封した酒井重忠が鬼門に当たる大洞赤城神社を篤く信仰し、歴代藩主もこれに倣った。重忠は「 正一位赤城大明神・赤城神社」の改築を幕府に申し出、その工事を完成したという。次の藩主・酒井忠世は、相殿に徳川家康を祀った。また酒井家により別当が前橋の寿延寺となった。1641年( 寛永18年)、社殿が落雷により全焼したため、酒井忠世により新築された。元来の山岳信仰と東照大権現( 徳川家康)の合祀により、将軍家をはじめ諸国の大名の信仰をも集めた。
赤城山( 赤城神社)は江戸城の守護線上にはない。しかし、駿府の東照宮、世良田東照宮、日光東照宮の守護線上に近い存在であり、方角的には丑未の範囲に入り、世良田東照宮と武尊山神社の線上にある。世良田東照宮の位置は人為的に移動されたものではあるが、将軍家に仕えた天海の作為によるもので、山王一実神道の天海であれば、武尊―赤城の線上と徳川の守護線上に世良田東照宮を配置したことも納得できる。要は世良田東照宮を含め、赤城山( 赤城山麓)は徳川家にとって易学上重要な位置であるという事であるという事がお分かりいただけただろうか。
この埋蔵に易学的要素が関わっているとすれば、赤城山麓が徳川家にとって極めて重要な位置と理解をしている者の仕業となる。

誰が
仮に幕府の資金を幕末期に赤城山麓に埋蔵したということで「 誰が」を考えると、幕末期のすべての事情を加味して消去法を用いても、時の勘定奉行小栗上野介が知らなかったという事がありえない。その理由は赤城山麓は幕府直轄の領地が大半であったこと、また、その領地や知行地を含め、統括管理をした関東郡代は勘定奉行の配下である事などからである。
( 幕末の関東郡代)
徳川幕府創設期の関東代官職( 関東郡代)が1820年以降廃止され、関八州見廻役や関東取締出役などを設置して対応しようとしたが、幕末期の不穏な社会情勢に対応するのには不十分であった。文久の改革以後、関東支配の立て直し策の議論が行われていたが、1864年( 元治元年)の天狗党の乱によって関東地方の中心部が戦場となったことが幕府に衝撃を与えた。
同年11月に関東郡代が再び設置された。関東郡代の定員は4名で関八州のうち2か国ずつを管轄・支配した。原則として現地の陣屋にて職務を行うため、以前のように勘定奉行との兼務は取られなかった。また、管轄する国に関しては幕府直轄領以外の旗本領(小栗家や井伊家など)や寺社領(赤城神社など)などに対しても訴訟や治安維持に関する権限を行使することが可能であり、更に新田開発や治水灌漑、酒造制限・生糸改印などの民政・経済政策に関する権限も強かった。
関東郡代の下には組頭以下の属僚が設置され、更に8名いた関東代官は全て郡代付とされた。将来は関東代官を廃止して関東郡代による関東地方の広域・直接支配を意図していたとみられているが、設置当初から定員1名を欠き、その後も人事異動や将軍上洛の御供などによって4名全員が現地で職務にあたることはなかった。そのため1867年( 慶応3年)1月26日、改めて関八州を二分し関東在方掛を設置、関東郡代であった木村勝教・河津祐邦を横滑りさせた。同年2月5日に関東郡代は正式に廃止された。
木村勝教こと木村飛騨守、河津祐邦こと川津伊豆守は小栗日記(慶応3・4年に書かれた小栗忠順の日記)に度々登場する。小栗自身が川津と書いているので、参考文献の河津はかわず違い(誤記)であると思う。木村は1865年から、川津は1866年から関東郡代を務めている。小栗上野介忠順の最後の勘定奉行歴任は1865年から1868年までである。この事からしても、赤城山麓に幕府に資金を埋蔵したのであれば小栗が知らない訳がないのである。
後に詳しく説明するが、幕末期( 天狗党の乱以降)、幕府( 江戸城)が陥落し、沼田城を最終砦とした場合、赤城山麓が主戦場になる事を想定し、赤城山麓の旧沼田街道沿いの密林に兵士や武器貯蔵の為、多くの壕を掘った記録もある。埋蔵金発掘のTV番組でかなり大掛かりに穴掘りをしたが、この時私はこの壕の事が浮かんだ。赤城山麓でその他にも多くの堀跡があるのはそれが理由かもしれない。また、その壕を利用して、埋蔵に見せかけた偽装工作をしたのかもしれない。いずれにしても、重機を使って掘る様な深さには埋蔵するはずがない。
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私は小栗上野介を尊敬している。小栗の菩提寺の東禅寺の住職やご子孫の方からすれば、また、埋蔵金の関わり本かと非難されるかと思うが、何故、埋蔵したのかという事の推理をご拝読頂ければ、もしかして、あり得る事かとご納得頂けると確信している。

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小栗上野介という人物に迫ってみると。国史大辞典にはこう書かれている。
〈 小栗忠順〉1827~68年

通称は剛太郎、又一。叙爵して豊後守と言い、後に上野介と改めた。
文政10年〈 1827〉江戸に生れる〈新潟奉行小栗忠高の子〉
安政2年〈 1855〉10月小栗家〈 二千五百石〉を継ぐ。同四年正月使番となり、6年9月目付けに進む。ついで遣米使節の一員に選らばれ、万延元年〈 1860〉正月出発、9月帰国した。
同年11月外国奉行に昇進。ロシア海軍の対馬上陸に際して、幕府の命を受け、現地に赴き退去を要求したが、目的を達しないで江戸に帰った。
7月外国奉行を赦免、同2年6月勘定奉行となり、翌8月町奉行に転じてのち、12月勘定奉行に復し、歩兵奉行を兼ね同3年4月赦免、7月陸軍奉行並となったが、わずか20日たらずで赦免された。
この間、同2年6月には、歩・騎・砲三兵を編成しようとする陸軍の軍政改革に参加した。また3年4月歩兵奉行在職中、新編成の陸軍部隊を率いて上京し、朝廷に圧迫を加え、和親開国の勅旨を強要しようとする陰謀を企てた。しかしこの計画は未然に発覚して赦免されたが、その後も謹慎することなく、同志と連絡し再挙をはかったという。
小栗の陰謀には強硬派幕僚の支持があったらしい、元治元年〈 1864〉8月、1年の在野期間を経て、又勘定奉行にもどった。その後横須賀製鉄所の建設について、フランス公使ロッシュとの間で予備交渉をを行なった。やがて同年12月軍艦奉行に転じたのは、製鉄所の建設に専念させる為であろう。

こうしてのちの横須賀軍港の基礎は小栗によって築かれた。翌、慶応元年〈 1865〉2月軍艦奉行を免じられたが、5月には勘定奉行に復し、以後明治元年〈 1868〉迄その職にあった。
この間事実上の「 蔵相」として、困難な幕府最末期の財政を担当した。慶応2年の関税率改訂交渉に際して中心人物として参加した彼は幕府の重要財源として、関税収入に目を付けていた。当時、フランスとの経済関係が緊密となり、経済使節クーレが渡来すると、小栗はもっぱら彼との交渉にあたり、同年8月、600万ドルの借款契約が成立した。
そして9月『 フランス輸入会社』と結合関係をもつべき『 日本の商業・航海大会社』の組織についても契約ができた。
小栗は、フランスとの経済関係を緊密にする一方、国内では三都の特権商人と結んで、全国の商品流通を掌握しようとした。
三井を通じて江戸や横浜の商人に融通したり、鴻池や大阪の巨商によって兵庫商社を設立したりしたのは、その表れである。
さらに彼は、旗本の軍役を金納させ、傭兵による新しい陸軍の編制を企てた。
明治元年正月、前将軍徳川慶喜の東帰後、あまりに強硬な抗戦論を主張したため慶喜に忌まれて勘定奉行を赦免された。
3月、知行所の上野国群馬県権田村に土着し、形勢を観望しつつ再挙をはかったが、政府軍に捕らえられ、閏4月6日、烏川のほとりで斬殺された。42歳。権田村東善寺に葬られる。
以上が『 国史大辞典』に記載されている各々の略歴である。


実はこの内容は、史実と大きな違いがある。いかにもそれらしい書籍名ではあるが、歴史的に余り重要でない事項は前任者の受け売りであるため、何度改訂されても誤りが続いているのである。年代や名前だけを覚える日本の歴史教育がこんなところにも現れている。このような環境であるがゆえに歴史の中から真実を見つけだすことがいかに難しいかを理解してもらいたい。
埋蔵金を研究している方でも、これが真実( 埋蔵金の場所)だと言い切っている人がいるが、それは間違いである。埋蔵金に関しては「 発見」が真実であり、それまではすべて仮説なのである。本書では先人の誤りをいくつか訂正する。単なる勘違いもあれば、意識して捏造しているものもあった。私は何も物好きでするのではなく、それをしなければ解読や推理が進まないからである。  
「 小栗上野介忠順」
小栗上野介は弘化四年〈 1847〉21歳で両番入り。西丸御書院番秋田淡路守組に編入しており、その後使番となり、安政六年〈 1857〉9月12日、正確には本丸御目付けに就任している〈 御目付衆〉。
幕府の職制には似たような名前のものがあり大変わかりにくい、また職務内容も大変な差がある。国史大辞典の小栗の略歴で免じられたとあるが、これは一見左遷されたようにも思えるが、決してそうではない。この言葉が的しているとしたら、慶応4年1月15日の赦免の時であり、他の役替えは小栗が逸材なるゆえの結果であり、必然的に起きたのである。
また、慶応元年『 小栗』はフランスとの間に、600万ドルの借款契約が成立したとあるが、実際には成立していない。これはフランス側の記録にもある。
この600万ドルに関して〈  対フランス借款願、1866年9月13日〉、横須賀造船所〈  

製鉄所〉の建設費に当てる為との説があるが、建設費は240万ドルであり、残りの360万ドルはなんの目的かは今をもってはっきりしない。ただ前後して、英国のオリエンタルバンク・コンポレーションにも同額の借款を願っている為〈 1866年9月28日〉、小栗〈  幕府 〉にとって必要不可欠なものと思える。目的は不明のままであるが、いずれにしても借金はしていないので、これが埋蔵金と繋がるとは思えない。

また、英国側への借款願いは、薩長側がフランスとの借款を妨害する為に、仕掛けたわなではとの説もある。いずれにしても埋蔵金の金額の中に、この残金360万ドルが含まれている説がある事がどうにも理解できない。
以外にこんなとこからTV番組の埋蔵金360万両( 360万ドルとは価値が違うが、埋蔵金探索者の水野家の伝承事にある埋蔵金額)という数字が出ているかも知れない。
史実を調べて行くと実におもしろい推理ができる。参考までに当時の600万ドルは当時の400万両に相当する。また、小栗上野介が埋蔵した一千万両説もあるのでついでに記載する。その一千万両の内訳は小栗が勘定奉行の際 、フランスに売った蚕卵紙と繭、絹織物代金200万両。四国を担保にフランスから借りた400万両。横浜、兵庫二港の交易税金200万両。長征軍費のくすねたぶん200万両。計1000万両と言うのが内容であが、何ら根拠はない。このような内容を平気で書いているライターが大勢いることがあやふやな埋蔵金物語を生んでいるのである。

 

黄金の行方 徳川幕府の埋蔵金 改訂版その2に続く

 

 

                                      

 


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