根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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根来寺の行人たち~その③ 台頭する行人たち

 ともあれ、地域の土豪らを吸収して強大化した根来寺。根来に属した行人方子院たちは、外部に対しても盛んに侵略を行うようになる。

 経済的な侵略方法としては、加地子(かじし)得分(とくぶん)(年貢以外の余剰収穫分のこと。場所によっては年貢の数倍~数十倍もの収穫があった)の集積や、その地における代官職の獲得などである。これらは借金のカタに回収したり、強引な買い叩きなどをして集めたようだ。その背景となったのが、根来の軍事力である。所領の押領、と形容した方がいいような方法もあったかもしれない。

 根来寺行人方子院はこのようにして、徐々にその影響圏を拡大していく。近くにある粉河寺(こかわてら)とは、長年に渡り権益を巡って争っていたが、戦国期には従属的な同盟関係といえるまで屈服させているほどだ。

 根来寺に富が集まってくる。それに伴い、寺院内において行人方子院の数が増えてくると、その力も増す。必然的に、学侶方子院と摩擦が起こる。これまでの根来寺の主導権は当然、これら学侶僧が持っていたのだが、そうでなくなってくるのだ。

 「粉河寺旧記」などの記録を見る限りでは、根来寺による軍事行動は、当初は学侶方行人方の双方の手により行われているのが分かる。だが16世紀に入ると、学侶方はこれに関与しなくなっている。少なくとも室町期には、軍事を伴う行動に関しては、行人方の主導権が確立したようである。

 戦国後期の根来寺の意思決定構造は、次のようなものだ。まず行人方の子院の、有力なものたちがいる。いわゆる根来の四院と称される、「泉識坊」・「岩室坊」・「閼伽井坊」・「杉乃坊」らに代表される有力子院たちだ。

 これらが私集会を開き、物事を決定する。ここで決定されたことは、惣分集会という建前上は「全山が参加する権利のある集会」にて諮られるのだが、否決されることはなかったと思われる。逆に惣分集会で決まったことを、私集会にて覆した、などの記録が残っているのだ。要するに、有力行人子院らによる寡頭制が敷かれていたのである。

 行人方学侶方が、それぞれどの分野のどこまでにおいて、根来寺の主導権をせめぎ合っていたかは分からない。だが学侶方の意思決定機関もまた、こうした行人方の寡頭制の意向に逆らうことは難しかったようだ。

 もちろんそれらは対外的な軍事行動面においてであって、学侶方の本領であった真言教学の分野においては、行人方はまるで関与していない(するつもりもなかったろうが)。ただ修験道の分野においては、行人方が主導権を持っていたようだ。

 拙著「跡式の出入り」では、登場人物のひとりに「根来寺の学は学侶僧ら、そして富は我ら行人僧らによって支えられているのです」と述べさせているが、それは上記のような構造によるものだ。(続く)

 

岩出市根来寺遺跡展示施設」の展示板より。
行人方子院の再現図。