駒若丸(三浦光村)とはどんな人?公暁イズムを受け継ぎ反北条を貫いた三浦光村の生涯

27/11/2022


 

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すぐに女性を口説こうとする三浦義村 修正a

 

駒若丸(こまわかまる)は元服名を三浦光村(みうらみつむら)と言い、後の宝治合戦(ほうじがっせん)で主要な役割を果たしました。父義村(よしむら)にも劣らない野心家で結果として三浦氏を滅ぼしてしまう光村ですが、どんな人物だったのでしょうか?

 

 

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kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

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おとぼけ(田畑 雄貴)

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三浦義村の四男として誕生

鶴岡八幡宮 建物 モブ

 

 

三浦光村は三浦義村の四男として誕生しました。後に三浦家の当主となる泰村(やすむら)とは同母兄弟です。幼名を駒若丸と名付けられますが、家督は兄の泰村が継ぐ事になっていたのか、幼い頃から僧侶にすべく鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に預けられます。

 

公暁

 

 

この鶴岡八幡宮で駒若丸は、将軍実朝を暗殺する公暁(こうぎょう)の門弟になりますが、そのまま僧侶にはならず三浦氏に呼び戻され還俗したようです。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

 

乱暴で剛直な気性だった光村

吾妻鏡の表紙 書類.jpg

 

 

一時は坊主になる予定だった駒若丸ですが、かなり気性が荒かったようです。「吾妻鏡(あづまかがみ)」によると建保(けんぽう)6年(1218年)9月、将軍御所での和歌会の最中、駒若丸は仲間と一緒に鶴岡八幡宮の敷地に入り込んで「明月じゃ、明月じゃ」と歩き回っていたそうです。

 

当時、鶴岡八幡宮では宿直(とのい)の武士が自主的に巡回警備していて徘徊(はいかい)する駒若丸と若い僧侶を見つけ注意しました。これに対して駒若丸が「何を!どこを歩こうが俺の勝手だ」とはねつけ武士に殴りかかって大乱闘になったのです。

 

場所が場所だけに大問題になりましたが、実は鶴岡八幡宮の巡回警備は法律に定めがあるのではなく、頼朝時代から神を敬うあまり、小侍所(こざむらいどころ)の武士が自発的にやっていた事でした。つまり本来は駒若丸たちが鶴岡八幡宮を歩いていても、注意される理由はないわけで、だから駒若丸は腹を立て乱闘に発展したのです。

 

公家同士の会議(モブ)

 

幕府は駒若丸が元服前である事や、有力御家人の子でもあるので穏便に済ませようと、駒若丸には出仕停止を命じ、宿直に対しても「法律で決まってもいない事を勝手にやるから、こういう恥辱を受けるのだ」と諭して、以後は巡回を中止するように命じています。

 

この直後、駒若丸は元服して光村と名乗るようになりました。

 

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源頼朝

 

 

 

摂家将軍に仕える

軍議(日本史)モブb

 

光村は貞応(じょうおう)2年(1223年)に北条重時(ほうじょうしげとき)結城朝広(ゆうきともひろ)と四代将軍九条頼経(くじょうよりつね)の近習になります。以後、20年にわたり光村は頼経の側近として仕えました。

 

寛喜3(かんき)年(1231年)光村は左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられて検非違使(けびいし)を兼任し、以後、壱岐守(いきのかみ)能登守(のとのかみ)受領(ずりょう)を歴任。寛元2年(1244年)に九条頼経が息子頼嗣(よりつぐ)に将軍職を譲ると光村は新将軍を補佐する意図で幕府の最高意思決定機関である評定衆(ひょうじょうしゅう)の一人に加わります。

 

光村は、乱暴な気性に相応しく武芸に秀でていましたが、同時に管弦にも優れ、琵琶の名手でもあったそうです。

 

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源義経

 

 

宮騒動

第3代執権に就任した42歳の北条泰時.jpg

 

 

仁治(にんち)3年(1242年)3代執権北条泰時が死去しました。泰時には時氏(ときうじ)という評判が高い息子がいましたが、泰時よりも早く病死し執権は泰時の孫、経時(つねとき)19歳に譲られます。ところが、この経時も3年後に急病に罹り、今度は19歳の弟、時頼(ときより)に執権職を譲りました。

 

朝廷(天皇)

 

短期間で執権が替わった事で北条得宗家の権力は弱まり相対的に長期間将軍として君臨し、大御所になった九条頼経の求心力が強まりました。

 

これを受け北条氏名越流(なごえりゅう)と三浦氏は大御所頼経に接近。寛元4年(1246年)大御所頼経を擁する名越光時(なごえみつとき)等、一部評定衆が5代執権北条時頼を排除するクーデター計画を立てます。

 

坂東武士B(モブB)

 

ところが、この時は時頼が先手を打ち、武装した武士を集めて物々しく鎌倉中を鎧武者に走り回らせて名越光時を威嚇。さらに鎌倉から諸国へ繋がる街道を封鎖した事から、名越光時は観念し降伏しました。

 

宮騒動には名越光時を烏帽子親とする三浦光村も加担していましたが、時頼は北条氏と三浦氏の全面衝突の回避を考え、光村を赦し京に護送される大御所頼経の警護を命じます。

 

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北条義時

 

 

 

懲りない光村、頼経カンバックを誓う

鎌倉幕府は六波羅探題を設置(北条義時)

 

こうして、大目に見られた光村ですが全く懲りていませんでした。「吾妻鏡」によれば、光村は鎌倉に戻る前に大御所頼経の前で涙を流し「いつの日か、必ずや鎌倉に帰して差し上げます」と誓ったそうです。

 

さらに光村は、関東申次(かんとうもうしつぎ)として鎌倉と朝廷のパイプ役だった頼経の父、九条道家を味方につけると、反北条勢力や将軍派の勢力をまとめる要として暗躍、次第に北条氏に危険視されていきます。

 

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宝治合戦に敗れる

炎上する城a(モブ)

 

宝治元年(1247年)6月、穏健派の兄泰村と執権時頼との間でおこなわれていた和平交渉は、三浦嫌いの急先鋒、安達泰盛(あだちやすもり)が三浦屋敷を奇襲した事で崩壊します。

 

戦いが起きると光村は、80騎の郎党を率いて永福寺(えいふくじ)に立て籠もって北条氏の援軍を遮断して奮戦、兄泰村に決起を促します。しかし泰村は最後まで戦おうとはせず逆に「もはやこれまで、最後は潔くしたいと思う。お前も頼朝公の魂が眠る法華堂(ほっけどう)に来い」と手紙を出しました。

 

いかに光村が勇猛でも当主の泰村が動かない以上敗北は確実でした。やむなく光村は永福寺を引き払い、兄が待つ法華堂へ退却します。

 

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北条政子

 

 

対照的な光村と泰村の最期

討死する坂東武士(モブ)

 

光村は泰村の顔を見ると

 

「頼経殿が将軍の頃、父君の九条道家殿が、北条を倒して兄上を執権にすると極秘に約束されたのに、兄上がだらだらして果たさないから敗北の()き目にあった。愛する妻や子と別れるばかりか、三浦が滅ぶに至り残念至極(ざんねんしごく)」と悔やみました。

 

気性の激しい光村は、自分の首を北条氏に渡してなるかと顔を刀で切り刻み、周囲に「どうだ、まだ光村と分かるか?」と聞き「まだ分かる」と言われると、さらに顔を切り刻んで、あたりに鮮血を飛ばしていたそうです。

 

これに対し穏健な泰村は「頼朝公の御影(みかげ)を血で汚すな不忠者」と光村を(しか)りつけると

 

「三浦のこれまでの功績を思えば代々の罪は赦されるだろう。我々は、曾祖父義明(よしあき)以来四代の名門で北条の外戚として長年支えてきたが、安達の讒言(ざんげん)によって族滅の恥を受け、恨みと悲しみは深いものがある。だが、父義村は多くの御家人勢力を滅ぼし数多の罪を作った。思えばその報いなのだろう。今、冥土に行く身となれば、現世の妄執(もうしゅう)は無意味、北条殿への恨みもない」

 

このように、全てを悟りきったような対照的な遺言を残しています。三浦は一族五百名以上が自決し、北条に次ぐナンバー2だった三浦一門は潰滅しました。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は打倒北条氏に執念を燃やし、最期は一族を滅ぼした駒若丸、三浦光村を解説しました。彼の兄弟子にあたる公暁も兄から将軍職を奪った叔父の実朝を殺害し将軍職を取り返そうとしましたが、乳父(めのと)の三浦義村に裏切られて断念し誅殺されています。

 

この後先考えない権力への執念は、公暁から光村に受け継がれている感じがしますので、光村は公暁イズムの体現者とも言えますね、いや、言えないか…

 

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