(もう先週のことなのにいつの話してるんだ…)

春分の日はちょうど[不調の谷]に落ち込んで沈没してた時なので

お彼岸ということがチラとも頭をかすめずに、ブロ友さんらの記事を読んで

(朝お坊さんが来てお経あげていきました,とかお彼岸なのでおはぎ食べました,等)

ああいつのまにかお彼岸過ぎてたな…と。

お彼岸だから特に何かするわけではなく、おはぎを食べ損なったな。

自分はお墓参りはしない。葬式にも告別式にもいかない。

(過去そのせいで疎遠になってしまった人がいるがこの信条だけは譲れない)

 

金子みすゞは自身の詩の「繭と墓」のなかで

"人はお墓へ入ります 暗くさみしいあの墓へ" と言ってる。

焼いたお骨を暗くてじめじめして狭苦しい石の穴倉の中に入れて

何十年も延々と閉じ込めておく、というのは本当に供養してるのだろうか。

むしろ封印とか「えんがちょ」的な、穢れの思想に基づいた

禍々しい「死」を遠ざけて封じるマイナス的な行為に感じる。

 

お彼岸や命日には自分は故人のことを思い出しながら心の中で手を合わせている。

お墓参りにもいかないし帰郷もしない ―― すでに実家は消失してる。

建物の家自体は存在してるがとっくの昔に競売にかけられ他人が住んでる。

気取った言い方すれば今の自分はデラシネ[déraciné]だ。

だからという訳ではないがお墓参りもしない。

何度も言うが命日やお彼岸など

区切り区切りで故人を思い出しては心の中で手を合わせてる。

それで十分供養になるし、自分の心の中であの人もこの人も生きている。

 

大昔、教信という念仏僧がいた。

「髪も剃らず、爪もきらず、袈裟もきず、本尊もなく、

 妻女を帯して里の人たちに雇使されて、
 或ひは田畑を耕したり、荷物を運んだりしてゐたが、

 常に念仏称名してゐたので阿弥陀丸とよばれた。
 念仏の外万事を亡失せるが如し、ともいはれてゐる。
 貞観七年に歿した。葬るに資なく屍を群犬の食ふにまかせたといふ」

 

この、[葬るに資なく屍を群犬の食ふにまかせた]というのがすごく良い。

さすがに現代では無理だけど。

 

…ああ、お彼岸の日におはぎ食いそこなったな。