真理を求めるあなたに

聖書を紐解き御言葉の意味を読み解きながら真理を探っていきます

封印の開封

2024-04-27 08:37:48 | 黙想
黙示録6章における封印の開封を見ていきましょう。

【[ヨハネの黙示録 6:1,2]
また私は、子羊が七つの封印の一つを解くのを見た。そして、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」と言うのを聞いた。
私は見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得るために出て行った。】

この白い馬に乗っているのは反キリストです。
悪魔は19章にあるように、イエス・キリストが白い馬に乗り、その名が忠実、または真実と呼ばれるお方として来られることをあらかじめ知っていて、その前に自分の手先である反キリストを白い馬に乗せて遣わしたのです。
悪魔は、神の真似をします。ここでも、それがよく表されています。
「平和の君」としてのイエス様を模倣し、自分のことを「平和の君」と偽っています。人々を騙し、盲目にし、欺きます。
この白い馬に乗っている者は、外交と戦略をもって多くの国々を獲得します。
勝利の上に勝利を得て、ヨーロッパを一つにするでしょう。
白は勝利ときよさと光の色ですが、すべては、偽りの勝利であり、偽りの光なのです。
悪魔でさえも、神のご計画と御心を成就する為に用いられるのです。
裁きを行う神の駒として、神のご計画を成就する為に用いられるのです。
実は、この白い馬に乗っている反キリストは、13章に出てくる獣であり、欺く者、盲目にする者であって、限られた日において勝利することを許されています。
後に、この羊に化けた狼の正体が暴露されることになります。



恵みではなく、裁きのために

2024-04-26 11:02:30 | キリスト者の基本的な知識

今日は、恵みの時です。
裁きの時が始まるまで恵みの時は続きます。
裁きの時はいつ始まりますか?
それはまことの教会の携挙の後に始まります。
また巻物が渡された後でそれは始まるのです。
恵みの日が続いている間は、神の復讐と裁きは臨みません。

【[マタイの福音書 11:28]
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。】

この「来なさい」は、イエス様の恵みに満ちた招きであり、呼びかけです。

でも、黙想録6章1節の「来なさい」という呼びかけは、恵みのためではなく、さばきのためなのです。

【[ヨハネの黙示録 6:1]
また私は、子羊が七つの封印の一つを解くのを見た。そして、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」と言うのを聞いた。】

救うことと、裁くこととは矛盾しないのです。
救うためには裁きが必要だです。
裁くことなくしては救いはありません。
神は、分ける神なのです。

【[ヨハネの福音書 3:18]
御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。】




分かりにくい黙示録

2024-04-25 08:27:28 | 黙示録
聖書は、総じて導き手がないと理解できない書ではあります。

その導き手とは、聖霊の導きだけではなく、ヘブル語の心得を持った方のガイドや背景となる歴史の知識だったりもします。

その中でも、特に黙示録は手引きが必要な読み物です。

他の聖書箇所も同様だけれど、黙示録はヨハネが神から啓示を受けて記した書なのです。

でも、神から啓示を受けた時、それを解き明かすことができずに、絶望のあまり泣いているところを、封印を解くことのできるお方を指し示されたのでした。


【[ヨハネの黙示録 5:3,4,5,6,7]
しかし、天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった。
私は激しく泣いた。その巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったからである。
すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」
 また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。
子羊は来て、御座に着いておられる方の右の手から巻物を受け取った。】

黙示録の1章から3章は、歴史における七つの教会について書かれています。
これは、後々、詳細に渡って記してみたいと思っています。

4章は、七つの封印を開く前の天の様子が記されてます。
天の御座、24人の長老、七つの御霊、四つの生き物(天使)、天での礼拝についてなどが表されています。

5章は、ヨハネが封印で封じられている巻物を見たことが書かれている。けれども、その封印を開くのにふさわしいものは、まだ明らかにされていなかったのです。
そこで、泣いていたヨハネに長老の一人が封印を開くことのできる子羊を指し示してくださり、子羊から巻物を受け取ったというわけです。
そして、巻物を受け取った時、四つの生き物と長老たちが、子羊を礼拝する様子が書かれているのを見ることができました。

【[ヨハネの黙示録 5:6,7,8]
 また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。
子羊は来て、御座に着いておられる方の右の手から巻物を受け取った。
巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。】

6章で初めて七つの封印が子羊によって開かれることになります。
順番に患難の度合いが増すことになります。
反キリストはユダヤ人と契約を結ぶまでは平和と安全を約束する契約を結んだが、その後で、それが嘘であることが明らかになり、3つの戦争が起きるのです。

注: 
尚、これから、カテゴリー「黙示録」の記事は、中川健一氏のハーベストタイムメッセージステーションとゴットホルド・ベック氏の著書「すぐに起こるはずのこと」、そして、高原剛一郎のYouTubeチャンネル「ごうちゃんねる」、銘形秀則牧師の「牧師の書斎」を参考にさせていただきます。





イエスの誕生

2024-04-23 13:26:49 | イェシュアについて
【[ルカの福音書 2:1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11]
1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
3人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
4ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
6ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
7男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
8さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。】

1️⃣「アウグストゥス」について

イェシュアの誕生したのは「パックスロマーナ」(ローマによる平和)といわれる、華麗なる奇跡とも称される平和な時代です。

「パックスロマーナ」とは、平和と秩序の女神パクスの名に由来するのですが、
(平穏な 200 年の期間(BC27~180 年間) ローマ帝国は最大の領土を獲得し、人口 7000 万人、 )
当時の世界人口の三分の一がローマに所属していまし た。 戦争ばかりの地中海世界で( ローマ帝国が覇権を確立したことで、) 超大国ローマによる平和な時代が始まりました。

100 年に渡る内戦続きのローマでしたが、(最後の戦いであるアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラとの両者を破った)アウグストゥスが勝利をおさめ、ローマに帝政をひいて初代皇帝となり、パックスロマーナを成し遂げました。

しかし、パックスロマーナは、力によって打ち立てられた平和です。人々は、皇帝アウグストゥスをすべての戦争終わらせた救い主(ソーテーリア)だと信じていました。ところがその頃、もう1人の救い主がダビデの町、すなわちベツレヘムに誕生したのです。その方がイエス・キリストでした。

パックスロマーナ(ローマによる平和)と謳われてはいましたが、実際は、破壊と掠奪と殺戮が横行していました。そんな中、皇帝たちは自身や先代の皇帝を神格化していきました。皇帝を神と讃えることで、間接的に自身の政治力も高めようと考えたのです。初代皇帝アウグストゥスは、神として祀られます。

「 アウグストゥス(尊厳ある者)」は元老院から送られた尊称です。そして、皇帝アウグストゥスのために、カレンダーを変え、彼の誕生月を年の初めとしました。ローマ歴で、8月(Augastus)を新年としたのです。人々は皇帝の誕生日を世のためのエヴァンゲリオン(福音)の始まりだと考えたからです。

アウグストゥスが住民登録の命を出さなければ、イェシュアがベツレヘムで生まれることはありませんでした。アウグストゥスの存在は、イェシュアの誕生に大きな意味をもたらしました。

さて、聖書において、数字の8には、とても大きな意味があります。
8はイェシュアの数です。
オクタヴィアヌスという名の皇帝が誕生月の8月である 「アウグストゥス」という尊称を与えられていたことと、真の王であられるイェシュアの数字が8であるというのは、なんと皮肉なことでしょう。しかし、それこそが、イェシュアが本当の王の王であり、救い主であることを暗示しているということにならないでしょうか。
「アウグストゥス」は、戦争を終わらせた「救い主」だともてはやされていましたが、そんな時代に真の救い主が現れたのです。
「八月」が称号となっている「アウグストゥス」ですが、「イェシュア」の数字が「八」であるというのも、本当の救い主の姿を際立たせていると言えないでしょうか。

今日は、イェシュアの数字が8であるという理由を紹介します。

①「過越の祭り」(第1月の14日)の後の安息日の翌日は「初穂の祭り」です。
「種を入れないパンの祭り」(第一月の15日)は、過越の翌日から七日間にわたってなされる祭りですが、「初穂の祭り」とは「過越の祭り」の後に来る安息日の翌日(週の初め)になされる祭りで、大麦の初穂を祭司の所に持って行かなければなりませんでした。

(「過越の祭り」の八日目に行われたのが初穂の祭りなのです)

イェシュアが十字架で死なれた後の最初の安息日の翌日(週の初め)に、死から復活されたように、よみがえりのからだが与えられるという福音の預言的なメッセージが含まれています。「八日目」は新しい週の1日目であり、よみがえりに型があるのです。
これが、8がイェシュアの数字といわれている理由の一つです。
八日間の「過越の祭り」を通して、イェシュアの受難と死、そしてよみがえりという深い意味が隠されているのです。

(それから七週[7×7=49日]、すなわち、「過越の祭り」から50日目には「五旬節の祭り」という主の例祭があります。これも「八日目」に通じる象徴的な位置づけにあります。つまり、五旬節(ペンテコステの日)に天からの火である聖霊が注がれたという出来事の型が、レビ記8~9章にあると考えることができるのです。
イスラエルの主の祭りにおいて八日目に行なわれた祭りは、「初穂の祭り」と「仮庵の祭り」でした(レビ23:36, 39, 民29:35)。特別に、「仮庵の祭り」はやがて地上に現わされる栄光に満ちた「千年王国」の型と見ることができます。)

(「過越の祭り」は、過去の出来事を想起して感謝するだけでなく、キリストのからだと血にあずかる聖餐の奥義を深く味わう時としなければなりません。イスラエルの民がそうであったように、そのために八日間の祭りが必要であったことを思い起こす必要があります。)

② 「仮庵の祭り」の八日目は、「祭りの大いなる日」と呼ばれていて、きよめの集会が持たれていました。この日は聖なる日なのです。特別な大事な日だったのです。このことも、8がイェシュアと言われる所以です。

【[レビ記 23:33,34,35,36]
 主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。
 この第七の月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。
最初の日には、聖なる会合を開く。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。
七日間、あなたがたは食物のささげ物を主に献げなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは食物のささげ物を主に献げる。これはきよめの集会であり、いかなる労働もしてはならない。】

【[民数記 29:35]
 八日目に、あなたがたはきよめの集会を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。】

仮庵の祭りは7日間続きます。8日目も同じく休みの日ですが、「祭りの終わりの大いなる日」と呼ばれています。

[ヨハネの福音書 7:37]
 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

ここに書かれている「祭りの大いなる日」というのが、8日目なのです。 この日に、イェシュアは、ご自身が与えることのできる御霊の満たしについて語られたのです。8と言う数字は神と人との新しい契約を象徴する意味があるのです。

【[ネヘミヤ記 8:18]
神のみおしえの書は、最初の日から最後の日まで毎日朗読された。祭りは七日間祝われ、八日目には定めにしたがって、きよめの集会が行われた。】

このようなことから、「仮庵の祭りの終わりの大いなる日」である8日目を聖なる日として特別に祝う事はとても意味あることなのです。

レビ記9章によれば大祭司と祭司たちの任職のための聖別期間7日間が終わって、8日目に定められた通りにその職務が執行した後、主の栄光が民全体に現れました。

このこともイェシュアの数字が8であると考えられる大きな理由の一つです。

【[レビ記 9:1]
八日目になってモーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び寄せ
[レビ記 9:23,24]
モーセとアロンは会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現れ、
火が主の前から出て来て、祭壇の上の全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くした。民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した。】

神格化されたアウグストゥスに縁の深い「八」という数字でしたが、真の神であるイェシュアにとっては、本当の意味で「八」が重要な意味を持っているのです。
聖なる日である8日目に主の栄光が民全体に現れたとレビ記には書かれていますが、イェシュアの誕生を告げようとして主の使いが羊飼いのところに来た時にも、主の栄光が周りを照らしたのです。

[ルカ2:9]すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

8日目は新しい週の1日目であり、ここには、よみがえりの型があります。イスラエルの主の祭りにおいて8日目に行われた祭りは初穂の祭りと仮庵の祭りでした。(レビ23:36 〜39と民数記29:35)。
特別に仮庵の祭りは、やがて地上に表される栄光に満ちた千年王国の型と見るることができます。

(「過越の祭り」に続く「種の入らない祭り」では七日間続き、七日目に「聖なる集会」が開かれますが、「仮庵の祭り」では「八日目」にきよめの集会がなされています。「八」という数字は「七の」後に来る永遠の安息を示唆する数で、深い意味があります。)

③ 三つ目の理由として、イスラエルの民が行なっていた割礼の日程があげられます。

イスラエルの民が新しく誕生した男子のに神の民としての契約の印である割礼を施したのは生後8日目でした。割礼とは肉の体を脱ぎ捨てることを意味します。(コロサイ2-11〜13)。
これもある明らかによみがえりもたらすものの型です。神の創造は何日間で終わりだったでしょうか。7日目には創造のわざを休まれました。しかし、8日目があるのです。8は御国が完全に実現する救いと神の新しい創造を象徴する数でもあるのです。真の割礼の意味とは、肉に死に、新しく霊のいのちに生きる者となるという意味があるからです。

④四つ目の理由として、8に大きな意味があるということが、メノーラに表されています。

神殿には金で出来た七つの枝を持った燭台「メノーラ」(מְנוֹרָה)が置かれていますが、「ハヌカの祭り」で用いられる燭台は九つの枝で出来た「ハヌキヤー」と呼ばれる燭台で、ハヌカの祭りにしか使われない、いわば期間限定使用の燭台なのです。9本ある蝋燭のうち8本は正規の蝋燭ですが、あとの1本は火種としての蝋燭です。八日間にわたる祭りにおいて第一日目は1本、第二日目は2本・・と、日を追うごとに蝋燭に灯される蝋燭の火の数で明るさは増し、祭りの最終日にはすべての蝋燭が灯されることになります。このことを別の視点から見るならば、「ハヌキヤー」は奥義としての神のご計画の悟りが、終わりの日が近づくにつれて、時の経過と共に光の量が増し加えられて開示され、やがて八日目には、神のご計画の全体が完成するという預言的なしるしとしての燭台とも言えます。

聖書には7日間という声がしばしば登場しますが、7日間の後には必ず8日目があるということです。8日目は週の初めの日であり復活を表す特別な日なのです。

2️⃣「ベツレヘム」について

さて、次に、イェシュアがお生まれになった土地であるベツレヘムについて考えてみたいと思います。

ミカ書の預言を読んでみましょう。

新改訳聖書と共同訳聖書では、一節、記載の章がずれています。新共同訳はヘブル語聖書と同じです。なぜか、新改訳は4章の最後の節を5章の最初に置いています。

(それはメシアが生まれる場所である小さな村ベツレヘムと、包囲されて打たれ、滅ぼされて神のさばきを受けるエルサレムとを対照させるためと思われます。)

【ミカ書4:14〜5:3 共同訳
4:14 今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。 敵は我々を包囲した。 彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。
5:1 エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。 
5:2 まことに、主は彼らを捨ておかれる 産婦が子を産むときまで。 そのとき、彼の兄弟の残りの者は イスラエルの子らのもとに帰って来る。 
5:3 彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の御名の威厳をもって。 彼らは安らかに住まう。 今や、彼は大いなる者となり その力が地の果てに及ぶからだ。】

【新改訳2017[ミカ書 5:1,2,3,4]
  1 今、軍勢をなす娘よ、勢ぞろいせよ。
  包囲網が私たちに対して設けられた。
  彼らは、イスラエルをさばく者の頬を
  杖で打つ。

  2「ベツレヘム・エフラテよ、
  あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。
  だが、あなたからわたしのために
  イスラエルを治める者が出る。
  その出現は昔から、
  永遠の昔から定まっている。」

 3 それゆえ、彼らはそのままにしておかれる。
  産婦が子を産む時まで。
  そのとき、彼の兄弟のほかの者は
  イスラエルの子らのもとに帰る。
 4 彼は立って、主の力と、
  彼の神、主の御名の威光によって群れを飼う。
  そして彼らは安らかに住まう。
  今や彼の威力が、地の果ての果てまで及ぶからだ。】

4節の御言葉を読んで胸が打ち震えるようです。
ベツレヘムでお生まれになったイェシュアは御国を治める統治する王の王にまでなられるお方なのです
ミカ書には、出生からメシア王国までが預言されている貴重な書です。

(共同訳では、「イスラエルを治める者」の頬が杖で打たれるエルサレムと、「イスラエルを治める者」が出るエフラタのベツレヘムが対照されています。
新改訳では、それぞれ、「イスラエルのさばきつかさ」(5:1)と「イスラエルの支配者」(5:2)と訳されています。)

ミカは、イスラエルを支配する者(イェシュア)がベツレヘム(=エフラテ)で生まれると預言しています。この預言が、ここにおいて(ルカ2:11)実現しました。

小さな氏族、小さな者が、神のために大いなるものとなっているのです。これを神の「昔から、永遠の昔からの定め」であり、不変の神の定めなのです。

この原理原則は新約時代にも息づいています。

【[コリント人への手紙 第一  1:26,27,28,29,30,31]
 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。】

ここには、神が弱い者や小さき者を選ばれたのは「自らを誇ることがない為で、誇る者は主を誇れ」と書いてあるのですが、イェシュアは、ご自身が主なのですから、誇っても良いわけですよね。それなのに、王の王、主と主となられる方が、小さき者としてお生まれになったのは、何故でしょうか。
それは、謙遜の極みとなって、神が人となり、贖いを通られる為でした。
神は、人とならねば、第二のアダムとして新しいいのちを与えることができなかったのです。
また、もっと言うならば、人としての弱さをご自身も身に受けて、全人類の弱さを包括的に担う為だったのではないでしょうか。

【[へブル人への手紙 4:14,15,16]
 さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。】

ベツレヘムから「イスラエルの支配者になる者が出る」という主の約束は、イェシュアの誕生(初臨)によってある意味において実現しました。しかしそれは、「イスラエルの支配者になる者」がベツレヘムから生まれ出るという意味においてです。しかし真の「イスラエルの支配者」となるということは、これからの事(再臨)です。

ミカ書5:3「産婦が子を産む時まで」までというのは、期間限定で、神はご自身の民を敵の手に渡されることを意味します。それは神の民が霊的に生まれ変わる時までです。敵の手とは、反キリストによる大患難を預言しているのです。

「今や彼の威力が、地の果ての果てまで及ぶからだ」とは、大いなるメシアの威力は、全世界に及び、イスラエルの民は集められて、羊の群れとして養われ、安らかに住まうようになるということを指しています。

ルカ2:10の「この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」とは、終わりの時代にイスラエルが民族的に救われ、イェシュアのご支配、統治の元に、集められ、メシア王国が目に見える形で現されていくことの預言なのです。

以下は、イスラエルの残りの者について預言しているものです。

[ミカ書 5:7,8,9]
  そのとき、ヤコブの残りの者は、
  多くの国々の民のただ中で、
  主のもとから降りる露、
  青草に降り注ぐ夕立のようだ。
  彼らは人に望みを置かず、
  人の子らに期待をかけない。
  ヤコブの残りの者は異邦の民の中、
  多くの国々の民のただ中で、
  森の獣の中の獅子、
  羊の群れの中の若い獅子のようだ。
  通り過ぎるときには、踏みにじり、
  かみ裂けば、助け出す者はいない。
  あなたが敵対する者に向けて御手を上げると、
  あなたの敵はみな絶ち滅ぼされる。

ミカ書5:4「彼の神、主の御名の威光によって群れを飼う」とは、主権者、支配者としてのイェシュアの姿を言い表しています。「威光」という表現からは、黙示録の箇所を連想させられます。

【[ヨハネの黙示録 5:12,13,14]
12彼らは大声で言った。
  「屠られた子羊は、
  力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を
  受けるにふさわしい方です。」
13また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。
  「御座に着いておられる方と子羊に、
  賛美と誉れと栄光と力が
  世々限りなくあるように。」】
アーメン、御国における真の主権者であり、支配者であられる主だけに栄光があります。

3️⃣「キリスト」について

最後に「キリスト」の意味を簡単に、説明しておきたいと思います。

11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれに成りました。この方こそ主キリストです。】

「イエス・キリスト」、ヘブル語では「イェシュア・ハマシーアッハ」です。
「キリスト」とは、神の働きのために特別な力と権威を授けるため、「油を注がれた者」を意味します。旧約では、「王」「大祭司」「預言者」にのみ任職の油が注がれました。したがって、「イエス・キリスト」とは、イエスが神からの任職の油を注がれた「王」であり、「大祭司」であり、「預言者」という告白的表現なのです。
アラカルトの1で学びましたように、「イェシュア」とは「主は救い」という意味ですから、「イエス・キリスト」とは、「油注がれた救い主」ですね。

主のご支配に服しましょう

2024-04-20 01:53:13 | 黙想
【第一コリント8:1(口語訳)
偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。】

神は隠すお方です。
神は隠すお方なので、神のご計画が悟れないのは仕方のないことではあります。
けれど、本当に神を愛し、神の御心と本意を知りたいと願うならば、それこそ、熱心に全身全霊を賭して求める筈です。

御霊がすべてを教えてくださいます。

私たちに神の真意を悟らせてくださるのは、キリストの御霊だけです。

盲目になっている者の目が開かれたのは、イェシュアが復活してから、息を吹き込きこんでくださったことによって、人の機能不全の霊が回復し、そこに御霊が内住してくださったからです。そのことを信じて、受け止めた者には、キリストの御霊が働き出されると思います。

【[ヨハネの手紙 第一 2:27]
しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。】

熱心に主に聖書の御言葉の意味するところを尋ね求め、また、神のご計画の全貌を尋ね求めるならば、必ずや主が示してくださることを信じます。

特に、御国の福音を伝えることの難しさを痛感しています。そして、話しても伝わっていかないもどかしさを感じています。

けれど、そこには、また、神の主権において、全てを分け与えてくださるので、それぞれが、驕り高ぶることなく、与えられた分を超えることのないようにすべきだと考えます。

御国の福音を伝えていく際に、人の盲目性と開眼性を鑑みてみると、あくまでも、主の主権において、相手のことを主にお委ねしつつ、御霊に導かれるままに、執りなしの祈りをもって話を進めるべきであって、決して、説得しようとすべきではないと思わされています。

ともすると、自分は、真理の全てを握っているし、他の人よりも多くの啓示を受け取っていると思い込み、まだ、知恵の浅い幼子を見下すような思いにさせられる誘惑があることも事実です。

しかし、神の知恵の深淵は本当に深いのです。

【[エペソ人への手紙 3:18〜21
すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。
そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。】

神の満ちあふれる豊かさにまで満たされるように願い求めることは、勿論、必要ですし、他者の為にも執りなしていくのは大切なことです。

けれども、究極的には、全ては、自分たちの為ではなく、主の栄光のためなのです。

そして、どれだけ多くを知り得たと思っても、主のご計画の全貌を把握しているわけではないかもしれないことを自覚しているべきだと思うのです。

【[コリント人への手紙 第一 8:1,2,3]
次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。
自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。】

【[コリント人への手紙 第一 13:1,2,3,4,5,6,7,8,9,10]
たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。】

最も大切なのは、主を愛することなのではないでしょうか。

そこまで、思い巡らしていた時に、主の御言葉が迫ってきました。

【[マタイの福音書 20:26,27]
あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。】

イェシュアを愛する者は人をも愛するものだと思います。
それは、先に主が私たちを愛してくださったからです。
イェシュアご自身が、しもべのように人に仕える者として、ご自身を捧げてくださったのです。
主が私たちに身をもって愛を振り注いでくださっているのです。
だからこそ、主の愛に満たされた者は、他者をも愛せるのです。
人を愛する時、人を操作したりジャッジしようとは思いません。
ひたすら、主と同じ想いで、主の御霊によって相手に接するようになると思います。
主の愛で人を愛せるのは、自分が主の愛に満たされて充足しているからなのです。
主の愛によって自我が消失し溶け出している時、主の愛と御霊に満たされている時、
人にも神にも喜びと平安をもって仕えることができるのだと思います。
そうでなければ、どんなに御国の福音を伝えても、何の意味もなく徒労に終わり
主にも喜ばれず御国の建てあげに繋がらないのだと私は思います。
誰かと仲違いし、いがみ合っているならば、その人は未だ肉の人であり、御霊にて歩いているとは言えません。
先ずそこから出直さねばならないでしょう。
己の内にある憎しみ、または、苦々しさというパン種を主によって取り去っていただく必要があるのですね。

【[ヨハネの手紙 第一 4:7,8,9,10]
  愛する者たち。
  私たちは互いに愛し合いましょう。
  愛は神から出ているのです。
  愛がある者はみな神から生まれ、
  神を知っています。
  愛のない者は神を知りません。
  神は愛だからです。
  神はそのひとり子を世に遣わし、
  その方によって
  私たちにいのちを得させてくださいました。
  それによって
  神の愛が私たちに示されたのです。
  私たちが神を愛したのではなく、
  神が私たちを愛し、
  私たちの罪のために、
  宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
  ここに愛があるのです。】

【[ローマ人への手紙 12:18]
自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。】

もし、内側が主の御霊に満たされて主の愛で充足していないのならば、主の御支配から滑り落ちて、他の何かしらに乗っ取られている可能性があります。
主の愛に立ち返るべく、内側を乗っ取って支配している何ものかに出ていってもらうように、主の助けを呼び求めれば良いのです。
主は必ず助けてくださいます。
主の御支配に預かりたいと願う祈りは御心に適う祈り故、必ず聞き届けてくださるはずです。
主を信じ切ることです

【[ルカの福音書 11:13]
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」】

神が私たちを愛してくださっているのですから、どのような状況においても勝利することができるのです。

【[ローマ人への手紙 8:37,38,39]
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。】

御国の福音を伝える時、語る自分自身が御国のイメージを確りと心の内に形作られていなければ、何になるでしょう。
机上の空論に過ぎなくなるのではないでしょうか。
一言で言うならば、メシア王国はイェシュアが支配、統治しておられるところですが、それは、愛の統治なのです。
そして、そこを構成する一人一人の中にキリストが形造られているところなのです。
その為には、一人一人の中にある、キリストのいのちを妨害するもの、所謂、偶像、そしてストイケイヤを御霊の助けによって聖絶していただく必要があります。
そうしてこそ、死を通って、キリストの復活のいのちが形造られていくのです。

御国とは、一人一人の中にキリストの愛の支配があり、互いの間にキリストの愛の連動が満ち満ちているところなのです。
人道的な愛ではなく、道徳的、ヒューマニズムの愛ではなく、キリストの御霊による愛で満たされているところなのです。
本当の愛は人を自己憐憫に留まらせておくものではなく、最終的にイェシュアの愛の中に引き入れ、御国を見させて、主のご栄光を求めさせるものだと考えます。
それが、人としての真の安息であり幸いだからです。
そこまで相手の目を開眼させられるよう主の御もとにお連れできたら素晴らしいことだと思います。
メシア王国の国民を増幅させていくのが、主の御心です。
ですから、神様はメシア王国の国民を、この世にても育んでくださっているわけですね。
勿論、霊のからだに変えられなければ、本当の意味で神の全き愛は内側で働き出すことは難しいかもしれません。
けれども、私たちは、今の時代にあっても既にキリストの愛の御霊を実際に内側にいただいているのですから、喜びと平安をもってキリストの愛を味わえているのではないでしょうか。

もう一度、言います。
愛のない者は神を知りません。
キリストの愛を味わい知っている人は、その愛を周囲に流し出すものです。

主にのみ栄光があります。