「パックスロマーナ」とは、平和と秩序の女神パクスの名に由来するのですが、
(平穏な 200 年の期間(BC27~180 年間) ローマ帝国は最大の領土を獲得し、人口 7000 万人、 )
当時の世界人口の三分の一がローマに所属していまし た。 戦争ばかりの地中海世界で( ローマ帝国が覇権を確立したことで、) 超大国ローマによる平和な時代が始まりました。
100 年に渡る内戦続きのローマでしたが、(最後の戦いであるアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラとの両者を破った)アウグストゥスが勝利をおさめ、ローマに帝政をひいて初代皇帝となり、パックスロマーナを成し遂げました。
しかし、パックスロマーナは、力によって打ち立てられた平和です。人々は、皇帝アウグストゥスをすべての戦争終わらせた救い主(ソーテーリア)だと信じていました。ところがその頃、もう1人の救い主がダビデの町、すなわちベツレヘムに誕生したのです。その方がイエス・キリストでした。
パックスロマーナ(ローマによる平和)と謳われてはいましたが、実際は、破壊と掠奪と殺戮が横行していました。そんな中、皇帝たちは自身や先代の皇帝を神格化していきました。皇帝を神と讃えることで、間接的に自身の政治力も高めようと考えたのです。初代皇帝アウグストゥスは、神として祀られます。
「 アウグストゥス(尊厳ある者)」は元老院から送られた尊称です。そして、皇帝アウグストゥスのために、カレンダーを変え、彼の誕生月を年の初めとしました。ローマ歴で、8月(Augastus)を新年としたのです。人々は皇帝の誕生日を世のためのエヴァンゲリオン(福音)の始まりだと考えたからです。
アウグストゥスが住民登録の命を出さなければ、イェシュアがベツレヘムで生まれることはありませんでした。アウグストゥスの存在は、イェシュアの誕生に大きな意味をもたらしました。
さて、聖書において、数字の8には、とても大きな意味があります。
8はイェシュアの数です。
オクタヴィアヌスという名の皇帝が誕生月の8月である 「アウグストゥス」という尊称を与えられていたことと、真の王であられるイェシュアの数字が8であるというのは、なんと皮肉なことでしょう。しかし、それこそが、イェシュアが本当の王の王であり、救い主であることを暗示しているということにならないでしょうか。
「アウグストゥス」は、戦争を終わらせた「救い主」だともてはやされていましたが、そんな時代に真の救い主が現れたのです。
「八月」が称号となっている「アウグストゥス」ですが、「イェシュア」の数字が「八」であるというのも、本当の救い主の姿を際立たせていると言えないでしょうか。
今日は、イェシュアの数字が8であるという理由を紹介します。
①「過越の祭り」(第1月の14日)の後の安息日の翌日は「初穂の祭り」です。
「種を入れないパンの祭り」(第一月の15日)は、過越の翌日から七日間にわたってなされる祭りですが、「初穂の祭り」とは「過越の祭り」の後に来る安息日の翌日(週の初め)になされる祭りで、大麦の初穂を祭司の所に持って行かなければなりませんでした。
(「過越の祭り」の八日目に行われたのが初穂の祭りなのです)
イェシュアが十字架で死なれた後の最初の安息日の翌日(週の初め)に、死から復活されたように、よみがえりのからだが与えられるという福音の預言的なメッセージが含まれています。「八日目」は新しい週の1日目であり、よみがえりに型があるのです。
これが、8がイェシュアの数字といわれている理由の一つです。
八日間の「過越の祭り」を通して、イェシュアの受難と死、そしてよみがえりという深い意味が隠されているのです。
(それから七週[7×7=49日]、すなわち、「過越の祭り」から50日目には「五旬節の祭り」という主の例祭があります。これも「八日目」に通じる象徴的な位置づけにあります。つまり、五旬節(ペンテコステの日)に天からの火である聖霊が注がれたという出来事の型が、レビ記8~9章にあると考えることができるのです。
イスラエルの主の祭りにおいて八日目に行なわれた祭りは、「初穂の祭り」と「仮庵の祭り」でした(レビ23:36, 39, 民29:35)。特別に、「仮庵の祭り」はやがて地上に現わされる栄光に満ちた「千年王国」の型と見ることができます。)
(「過越の祭り」は、過去の出来事を想起して感謝するだけでなく、キリストのからだと血にあずかる聖餐の奥義を深く味わう時としなければなりません。イスラエルの民がそうであったように、そのために八日間の祭りが必要であったことを思い起こす必要があります。)
② 「仮庵の祭り」の八日目は、「祭りの大いなる日」と呼ばれていて、きよめの集会が持たれていました。この日は聖なる日なのです。特別な大事な日だったのです。このことも、8がイェシュアと言われる所以です。
【[レビ記 23:33,34,35,36]
主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。
この第七の月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。
最初の日には、聖なる会合を開く。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。
七日間、あなたがたは食物のささげ物を主に献げなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは食物のささげ物を主に献げる。これはきよめの集会であり、いかなる労働もしてはならない。】
【[民数記 29:35]
八日目に、あなたがたはきよめの集会を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。】
仮庵の祭りは7日間続きます。8日目も同じく休みの日ですが、「祭りの終わりの大いなる日」と呼ばれています。
[ヨハネの福音書 7:37]
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
ここに書かれている「祭りの大いなる日」というのが、8日目なのです。 この日に、イェシュアは、ご自身が与えることのできる御霊の満たしについて語られたのです。8と言う数字は神と人との新しい契約を象徴する意味があるのです。
【[ネヘミヤ記 8:18]
神のみおしえの書は、最初の日から最後の日まで毎日朗読された。祭りは七日間祝われ、八日目には定めにしたがって、きよめの集会が行われた。】
このようなことから、「仮庵の祭りの終わりの大いなる日」である8日目を聖なる日として特別に祝う事はとても意味あることなのです。
レビ記9章によれば大祭司と祭司たちの任職のための聖別期間7日間が終わって、8日目に定められた通りにその職務が執行した後、主の栄光が民全体に現れました。
このこともイェシュアの数字が8であると考えられる大きな理由の一つです。
【[レビ記 9:1]
八日目になってモーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び寄せ
[レビ記 9:23,24]
モーセとアロンは会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現れ、
火が主の前から出て来て、祭壇の上の全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くした。民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した。】
神格化されたアウグストゥスに縁の深い「八」という数字でしたが、真の神であるイェシュアにとっては、本当の意味で「八」が重要な意味を持っているのです。
聖なる日である8日目に主の栄光が民全体に現れたとレビ記には書かれていますが、イェシュアの誕生を告げようとして主の使いが羊飼いのところに来た時にも、主の栄光が周りを照らしたのです。
[ルカ2:9]すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
8日目は新しい週の1日目であり、ここには、よみがえりの型があります。イスラエルの主の祭りにおいて8日目に行われた祭りは初穂の祭りと仮庵の祭りでした。(レビ23:36 〜39と民数記29:35)。
特別に仮庵の祭りは、やがて地上に表される栄光に満ちた千年王国の型と見るることができます。
(「過越の祭り」に続く「種の入らない祭り」では七日間続き、七日目に「聖なる集会」が開かれますが、「仮庵の祭り」では「八日目」にきよめの集会がなされています。「八」という数字は「七の」後に来る永遠の安息を示唆する数で、深い意味があります。)
③ 三つ目の理由として、イスラエルの民が行なっていた割礼の日程があげられます。
イスラエルの民が新しく誕生した男子のに神の民としての契約の印である割礼を施したのは生後8日目でした。割礼とは肉の体を脱ぎ捨てることを意味します。(コロサイ2-11〜13)。
これもある明らかによみがえりもたらすものの型です。神の創造は何日間で終わりだったでしょうか。7日目には創造のわざを休まれました。しかし、8日目があるのです。8は御国が完全に実現する救いと神の新しい創造を象徴する数でもあるのです。真の割礼の意味とは、肉に死に、新しく霊のいのちに生きる者となるという意味があるからです。
④四つ目の理由として、8に大きな意味があるということが、メノーラに表されています。
神殿には金で出来た七つの枝を持った燭台「メノーラ」(מְנוֹרָה)が置かれていますが、「ハヌカの祭り」で用いられる燭台は九つの枝で出来た「ハヌキヤー」と呼ばれる燭台で、ハヌカの祭りにしか使われない、いわば期間限定使用の燭台なのです。9本ある蝋燭のうち8本は正規の蝋燭ですが、あとの1本は火種としての蝋燭です。八日間にわたる祭りにおいて第一日目は1本、第二日目は2本・・と、日を追うごとに蝋燭に灯される蝋燭の火の数で明るさは増し、祭りの最終日にはすべての蝋燭が灯されることになります。このことを別の視点から見るならば、「ハヌキヤー」は奥義としての神のご計画の悟りが、終わりの日が近づくにつれて、時の経過と共に光の量が増し加えられて開示され、やがて八日目には、神のご計画の全体が完成するという預言的なしるしとしての燭台とも言えます。
聖書には7日間という声がしばしば登場しますが、7日間の後には必ず8日目があるということです。8日目は週の初めの日であり復活を表す特別な日なのです。
2️⃣「ベツレヘム」について
さて、次に、イェシュアがお生まれになった土地であるベツレヘムについて考えてみたいと思います。
ミカ書の預言を読んでみましょう。
新改訳聖書と共同訳聖書では、一節、記載の章がずれています。新共同訳はヘブル語聖書と同じです。なぜか、新改訳は4章の最後の節を5章の最初に置いています。
(それはメシアが生まれる場所である小さな村ベツレヘムと、包囲されて打たれ、滅ぼされて神のさばきを受けるエルサレムとを対照させるためと思われます。)
【ミカ書4:14〜5:3 共同訳
4:14 今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。 敵は我々を包囲した。 彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。
5:1 エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
5:2 まことに、主は彼らを捨ておかれる 産婦が子を産むときまで。 そのとき、彼の兄弟の残りの者は イスラエルの子らのもとに帰って来る。
5:3 彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の御名の威厳をもって。 彼らは安らかに住まう。 今や、彼は大いなる者となり その力が地の果てに及ぶからだ。】
【新改訳2017[ミカ書 5:1,2,3,4]
1 今、軍勢をなす娘よ、勢ぞろいせよ。
包囲網が私たちに対して設けられた。
彼らは、イスラエルをさばく者の頬を
杖で打つ。
2「ベツレヘム・エフラテよ、
あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。
だが、あなたからわたしのために
イスラエルを治める者が出る。
その出現は昔から、
永遠の昔から定まっている。」
3 それゆえ、彼らはそのままにしておかれる。
産婦が子を産む時まで。
そのとき、彼の兄弟のほかの者は
イスラエルの子らのもとに帰る。
4 彼は立って、主の力と、
彼の神、主の御名の威光によって群れを飼う。
そして彼らは安らかに住まう。
今や彼の威力が、地の果ての果てまで及ぶからだ。】
4節の御言葉を読んで胸が打ち震えるようです。
ベツレヘムでお生まれになったイェシュアは御国を治める統治する王の王にまでなられるお方なのです
ミカ書には、出生からメシア王国までが預言されている貴重な書です。
(共同訳では、「イスラエルを治める者」の頬が杖で打たれるエルサレムと、「イスラエルを治める者」が出るエフラタのベツレヘムが対照されています。
新改訳では、それぞれ、「イスラエルのさばきつかさ」(5:1)と「イスラエルの支配者」(5:2)と訳されています。)
ミカは、イスラエルを支配する者(イェシュア)がベツレヘム(=エフラテ)で生まれると預言しています。この預言が、ここにおいて(ルカ2:11)実現しました。
小さな氏族、小さな者が、神のために大いなるものとなっているのです。これを神の「昔から、永遠の昔からの定め」であり、不変の神の定めなのです。
この原理原則は新約時代にも息づいています。
【[コリント人への手紙 第一 1:26,27,28,29,30,31]
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。】
ここには、神が弱い者や小さき者を選ばれたのは「自らを誇ることがない為で、誇る者は主を誇れ」と書いてあるのですが、イェシュアは、ご自身が主なのですから、誇っても良いわけですよね。それなのに、王の王、主と主となられる方が、小さき者としてお生まれになったのは、何故でしょうか。
それは、謙遜の極みとなって、神が人となり、贖いを通られる為でした。
神は、人とならねば、第二のアダムとして新しいいのちを与えることができなかったのです。
また、もっと言うならば、人としての弱さをご自身も身に受けて、全人類の弱さを包括的に担う為だったのではないでしょうか。
【[へブル人への手紙 4:14,15,16]
さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。】
ベツレヘムから「イスラエルの支配者になる者が出る」という主の約束は、イェシュアの誕生(初臨)によってある意味において実現しました。しかしそれは、「イスラエルの支配者になる者」がベツレヘムから生まれ出るという意味においてです。しかし真の「イスラエルの支配者」となるということは、これからの事(再臨)です。
ミカ書5:3「産婦が子を産む時まで」までというのは、期間限定で、神はご自身の民を敵の手に渡されることを意味します。それは神の民が霊的に生まれ変わる時までです。敵の手とは、反キリストによる大患難を預言しているのです。
「今や彼の威力が、地の果ての果てまで及ぶからだ」とは、大いなるメシアの威力は、全世界に及び、イスラエルの民は集められて、羊の群れとして養われ、安らかに住まうようになるということを指しています。
ルカ2:10の「この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」とは、終わりの時代にイスラエルが民族的に救われ、イェシュアのご支配、統治の元に、集められ、メシア王国が目に見える形で現されていくことの預言なのです。
以下は、イスラエルの残りの者について預言しているものです。
[ミカ書 5:7,8,9]
そのとき、ヤコブの残りの者は、
多くの国々の民のただ中で、
主のもとから降りる露、
青草に降り注ぐ夕立のようだ。
彼らは人に望みを置かず、
人の子らに期待をかけない。
ヤコブの残りの者は異邦の民の中、
多くの国々の民のただ中で、
森の獣の中の獅子、
羊の群れの中の若い獅子のようだ。
通り過ぎるときには、踏みにじり、
かみ裂けば、助け出す者はいない。
あなたが敵対する者に向けて御手を上げると、
あなたの敵はみな絶ち滅ぼされる。
ミカ書5:4「彼の神、主の御名の威光によって群れを飼う」とは、主権者、支配者としてのイェシュアの姿を言い表しています。「威光」という表現からは、黙示録の箇所を連想させられます。
【[ヨハネの黙示録 5:12,13,14]
12彼らは大声で言った。
「屠られた子羊は、
力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を
受けるにふさわしい方です。」
13また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。
「御座に着いておられる方と子羊に、
賛美と誉れと栄光と力が
世々限りなくあるように。」】
アーメン、御国における真の主権者であり、支配者であられる主だけに栄光があります。
3️⃣「キリスト」について
最後に「キリスト」の意味を簡単に、説明しておきたいと思います。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれに成りました。この方こそ主キリストです。】
「イエス・キリスト」、ヘブル語では「イェシュア・ハマシーアッハ」です。
「キリスト」とは、神の働きのために特別な力と権威を授けるため、「油を注がれた者」を意味します。旧約では、「王」「大祭司」「預言者」にのみ任職の油が注がれました。したがって、「イエス・キリスト」とは、イエスが神からの任職の油を注がれた「王」であり、「大祭司」であり、「預言者」という告白的表現なのです。
アラカルトの1で学びましたように、「イェシュア」とは「主は救い」という意味ですから、「イエス・キリスト」とは、「油注がれた救い主」ですね。