患者が感じる劣等意識 あなたはすごくて私は劣っている? 

ひとり言

多くのがん患者さんが経験する、他者との比較によって感じる優劣や劣等感。知らぬ間に傷つけたり、傷ついてしまうことがあります。経験談を交えて紐解き、解決へと導きます。

移植後の患者会になぜあなたが参加しているの?

わたしは多発性骨髄腫という血液のがんで、自家移植を2回経験しました。
抗がん剤治療から自家移植が終わるまで1年。仕事も休職し、ようやく社会復帰したころ、治療していた病院の移植を経験した患者さんとお世話になった医療者との交流会に参加しました。
その時、ある看護師に聞かれました。

なぜあなたが参加しているの?

なぜ?
自家移植では参加資格がないの?

とても複雑な気持ちになり、残念で悲しい気持ちになりました。
自家移植の際は、クリーンルームで治療をします。
そこで、移植後の患者さんの会があるのを知りました。
お世話になった先生方に、退院して元気になった姿で会う。
それが、先生方にとっても大きな励みになるということを知り、感謝を伝えたいと思いました。
ところがその看護師の一言で、一気に場違いなところに参加してしまった自分を突き付けられてしまったのです。

がん治療で生じる他者との比較

  • 同じ治療をしているのにあの人は副作用が軽くてわたしは重く出ている
  • 同じ病気なのに、わたしはストーマなのにあのひとは違うんだ…
  • あなたは〇〇の治療で済んでいるなら、軽いほうよ
  • 同じ時期に抗がん剤治療をしたのに、わたしはまだ、髪の毛が生えない…

がん患者さん同士がSNSでもリアルでもつながれる時代だからこそ、他者と比較してしまうことは多かれ少なかれ存在するものです。

2004年の多発性骨髄腫の治療ってどんな感じ?

2004年1月に多発性骨髄腫と診断されたわたしは、すぐに治療が必要な状態でした。
しかし当時の治療は限られていて、強い治療が可能な若年者はビンクリスチン、ドキソルビシン、デキサメサゾンの併用療法(VAD療法)ののち、自家移植2回あるいは自家移植+同種移植が推奨されていました。
当初は自家移植+同種移植を予定していましたが、抗がん剤治療中に自家移植2回と治療成績が変わらないという結果が出て、自家移植を2回おこなうことになりました。

自家移植と同種移植

抗がん剤治療に3カ月、その後の回復を待って自家末梢血幹細胞を採取します。自分の体の中の腫瘍量を極力減らした状態で、本来、骨髄にある造血幹細胞をお薬によって末梢血へ誘導し、成分献血のようなやり方で自分の末梢血幹細胞を採取します。
その後、さらに強力な化学療法をすることによって腫瘍細胞を限界まで叩き、造血機能を回復させるために自分の末梢血幹細胞を戻す、というのが自家移植です。

一方で、同種移植というのは親や兄弟姉妹、骨髄バンク、さい帯血バンクなどのように、ドナーから提供された造血幹細胞を移植するものです。自家移植と同様に造血機能を回復させるだけでなく、ドナーのリンパ球(白血球の一種)が腫瘍細胞を攻撃するという免疫療法としての効果を期待するものです。

簡単に言えば、自家移植が大量抗がん剤療法である一方で、同種移植は究極の免疫療法である、というところに大きな違いがあります。自家移植の場合、移植とはいえ自分の細胞なので移植後のGVHD(移植片対宿主病)が起きず、移植関連死(再発以外の移植合併症による死亡)が少ないのが特徴です。

優劣で判断するがん患者

結局それ以降、「所詮わたしは自家移植をしただけ、同種移植を経験している患者さんに比べたら何の苦労もしていない」、という劣等感をいだくようになりました。
当然、患者会にも参加できなくなりました。

決して楽な治療だったわけではありません。
比べられる治療の経験はなく、必死で生きようとしていただけなのです。
しかし、医療者からの「もっとつらい思いをしている患者さんがいるのに、あなたの治療はたいしたことではない。参加資格もない。」と言わんばかりの一言に、ひどく傷つき苦しめられました。

その後も経過があまり良くなかったわたしは、最終的に、2008年にさい帯血移植という同種移植を経験することになりました。
命がけの治療で、何度も危機的な状況に陥りました。
毎晩、急変の可能性が高い要注意の患者の一人として、交替する看護師間の申し送りで報告されていたほどです。
今晩急変するかもしれないが、その際に心臓マッサージや人工呼吸器の装着をどうするか、両親に確認するような場面もありました。(当然わたしは知りませんし、意識はほぼない状況でした)。

何とか今でもこうして生きることができているのですが、
同種移植の経験を経て、ようやく他の患者さんと同じ土俵に立てた、といった感情になったのは言うまでもありません。

健全な劣等感と不健全な劣等感

20年近くの時を経て、本当に不思議なことに苦しんでいたと認識します。
看護師の言葉を受けて、参加資格がないのかもしれないと思ったのであれば、納得いくまで確認すれば良かったのかもしれません。
しかし、いだいてしまった劣等感を克服するための行動に移すことさえできませんでした。

結果的には病気が進行し、同種移植を経験することになりました。
患者会にも再び参加するようになり、気が付けば移植していない患者さんもその患者会に参加している状況になっていました。
だからと言って、誰かがその参加資格を問うこともありません。
移植をしているか否か、自家移植か同種移植か、そんなところで優劣をつけるものではないのです。

一方で、他者とのかかわりの中で優劣をつけ、劣等感を感じることは決して悪いことではなく、むしろ当たり前のことである、と心理学者のアルフレッド・アドラーはいいます。
劣等感は、人間が成長し人生を前進していく際の原動力になるものであり、劣等感があるからこそ頑張れるのだと伝えています。

あなたが劣っているから劣等感があるのではない。どんなに優秀に見える人にも劣等感は存在する。目標がある限り、劣等感があるのは当然なのだ。
- アルフレッド・アドラー -

しかし、これは「理想の自分」との比較に対して生じるものであり、健全な劣等感といわれます。一方で、他者との比較の中で生じるものを不健全な劣等感といいます。
比較対象を「他者」から「理想の自分」に変えることで、健全な劣等感へと変えることができます。

これに当てはめると、答えが明快になります。
わたしは、同種移植をした「他者」と比較してしまったことで不健全な劣等感を、勝手にいだいてしまっていました。

わたしは、同種移植をした患者さんに比べたら大した治療もしていない、まだまだなのだ、と。

比較するべき「理想の自分」は病気を克服した自分です。
同種移植をしなくても元気な自分であり、もっとつらい思いをしている誰か、と比較する必要はないのです。
逆に、同じ病気の他者に比べて大変な思いをしている、という優越感をいだくことも全く意味がないことです。

たとえ、その感情を誰かが向けてきたとしても、それを受け取るか受け取らないかは自分次第なのです。

医療者として、伝えたいこと

医療者としてさまざまな患者さんのケースをみているからこそ、比較してしまうことが多くあるかもしれません。

  • なんでこの患者さんはこんなに痛がるのだろう
  • もっと大変な思いをしている患者さんもいるのに…

そう思っていても、それぞれの患者さんにあった対応をしていると思います。
しかし、潜在意識で思っていることは、思わぬところで出てしまうものです。
そして、思わぬところで相手を傷つけてしまうこともあります。

医療者と患者。
どうしたって、対等な関係にはなりにくいのです。
それが、病院の中での出来事でないとしても。

自戒の念を込めて。

コメント

  1. みいちゃん より:

    おはようございますigg型です病気と闘って12年になります、ブログの友だちがなくなったり同じかいの方なくなったりして色々つらい思いもしましたでもぶろぐで勇気をもらいました今はお陰様で無治療です皆さん頑張って入れ無治療で楽になりますよお互いに頑張りましょうね

    • とりまりん とりまりん より:

      コメントありがとうございます!新しいブログで使い方が分かっておらず、お返事が遅くなりました。
      闘病12年とはすばらしいですね。それだけで、多くの患者さんの希望になりますね。
      5年生存率3割未満といわれた20年前、その3割の存在を知るすべもなく、7割に引っ張られていました。
      治療して18年も経って無治療でいる、という存在がきっと誰かの希望になる、と信じて発信を続けていきたいと思います。

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