大奥の大スキャンダル・絵島生島事件 江戸の町衆も巻き込んだ事件の真実とは?

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徳川7代将軍・家継の時代に起きた絵島生島事件は、そのセンセーショナルな内容に、江戸の町衆までも大騒ぎをするほどの大事件だったと言われています。

映画「大奥」では、仲間由紀恵さんが演じた大奥御年寄・絵島。

そして、西島秀俊さんが歌舞伎役者の生島新五郎を演じていました。

映画では、絵島・生島の哀しい恋と絵島の主人である月光院の思いが描かれた魅力的な作品です。

そして、なんと言っても豪華な衣装が目を引きました。

今回は、実際の絵島生島事件について紹介するとともに、隠された真実を探ってみようと思います。

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絵島生島事件の概要

まずは、世間でよく知られている絵島生島事件のあらましについて紹介します。

芝居小屋での大騒ぎと門限破り

絵島は、甲府藩士の娘として生まれ、父の死後母の再婚相手の旗本・白井平右衛門の養女となっています。

尾張徳川家や紀伊徳川家に仕えた後、甲府藩の徳川綱豊の正室・お喜世に仕えました。

綱豊が6代将軍・家宣となり、絵島はお喜世とともに江戸城大奥へ入ることになります。

家宣の死後は、現将軍・家継の実母となったお喜世の方改め月光院から、最も信頼される大奥御年寄となっていました。

正徳4年(1714年)正月12日

月光院の代参として、絵島は寛永寺と増上寺を参詣しました。

前将軍の菩提を弔うためです。

絵島に従うのは、奥女中やお付の武士ら、総勢100人以上。

無事に参拝を終えた絵島たちは、まっすぐ江戸城へ帰らず、木挽町(こびきちょう)にある芝居小屋・山村座へ立ち寄ります。

山村座では、今を時めく看板役者・生島新五郎が登場する芝居が上演されていました。

2階の桟敷席に陣取る奥女中たちの姿は、1階の桟敷からもよく見えていたうえ、久しぶりの外出に大騒ぎする様子も手に取るようです。

客たちは、芝居そっちのけできらびやかな奥女中たちを見ていたとか、いなかったとか…。

幕間には、出番の終わった生島新五郎が彼女らのもとへやってきます。

月光院に仕え、大奥一筋に生きてきた絵島は、美しくて艶っぽい生島に一目ぼれ。

いや、実は絵島と生島は以前から情を通じていたという噂まで、のちのちには出てきます。

とにかく、彼女らは外出を思う存分楽しんで、やっと帰城したのです。

ところが、もう門限(午後4時ごろ)はとうに過ぎていた!

何とか城の中へ入ることはできたが、この出来事が後で大きな事件へ発展することになりました。

奥女中への取り調べ

門限破りの出来事からしばらくして、絵島たち奥女中は、評定所の取り調べを受けます。

絵島は、義兄の屋敷にお預けとなり、山村座の座元や生島も取り調べを受けることになりました。

この時代、歌舞伎役者の地位はそれほど高くなく、生島たちへの取り調べは、容赦のない拷問が行われたのです。

生島は、石抱きという拷問を受け、とうとう絵島との密通を認めます。

石抱きとは、両手を後ろで縛られて、三角形の木が並べられた台座の上に正座をさせられ、さらにその上に石を乗せて左右に揺さぶられるという拷問です。
白状しなければ、石がどんどんと積まれます。
これだけの苦痛を与えられれが、誰だって自白します。
というか、嘘でも認めてしまうでしょう。

絵島の方は、3日3晩眠らせずに問い詰める「うつつ責め」という拷問を受けます。

しかし、絵島は生島との絶対に密通を認めませんでした。

絵島には、「月光院と間部詮房が情を通じていたのではないか」という追及もされますが、これについても否定しました。

間部詮房とは、家継の補佐として仕えていた人物で、前将軍・家宣の側近でもありました。

家継はわずか4歳の将軍でしたから、実権は間部詮房が握っているようなものです。

正室も側室も持っていなかった間部と、まだ若く美しい月光院が、ともに家継を助ける立場にあり、顔を合わせる機会も多ければ、変な勘繰りをする者も出てきたのでしょう。

しかし、月光院と間部のことを、なぜ絵島に、なぜこの時に追及しなければならなかったのでしょうか。

これについては、絵島生島事件の真相にもつながりますので、あとでお話しします。

絵島たちへの裁き

絵島は最後まで自らの疑いに対して、否定をしたようです。

しかし、裁きは下りました。

絵島は遠島のところ、月光院の嘆願により、高遠藩への配流、生島は三宅島へ遠島、山村座の座元は伊豆大島への遠島、山村座は廃座となりました。

その他、絵島らの芝居小屋見物を手配した罪で、絵島の異母兄は斬首、取り巻きの大奥御殿医や呉服商、材木商なども罪に問われ、50名以上が罰せられました。

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その後の絵島

高遠藩のお預かりとなった絵島が与えられた屋敷は、はじめは高遠城から離れた村に幽閉されていましたが、家継が亡くなり8代将軍吉宗の時代となると、高遠城の三の丸に作られた囲み屋敷に移されます。

しかしその屋敷は、忍び返しのある2メートル以上の高さの外塀で囲まれ、窓は壁に直接はめ込まれた「はめ殺し」の窓で、出入り口には見張りが立っていたのです。

再現された囲み屋敷

その上、手紙のやり取り、読み書きも禁止、外出も禁止(のちに寺への参拝程度は許される)という厳しい生活でした。

絵島はそんな辛い生活の中でも、大奥のことを一切口にせず、毅然と過ごしていたと言います。

高遠へ配流されて26年。

寛保元年(1741年)4月、絵島は61歳でこの世を去りました。

遺体は、絵島が通っていた日蓮宗の蓮華寺に埋葬されています。

三宅島へ流された生島は、絵島が亡くなった翌年に許されて江戸へ帰ってきました。

しかし、翌年に亡くなったと言われています。(三宅島で亡くなったという説も)

絵島生島事件はなぜ起こった?

ドラマや映画では、将軍の生母・月光院を前将軍の正室・天英院が追い落とすために、仕組んだわなだと描かれることが多く、大奥の権力争いが、事件の原因だと考えられています。

しかし、いろいろな本を読んでみるとどうもそうではないようなのです。

天英院と月光院

天英院は京の公家出身で、家宣とは世にいう政略結婚です。

しかし、夫婦仲は良かったそうで、2人の子に恵まれています。

徳川家宣肖像画

ただ、子は2人とも幼くして亡くなってしまったので、世継ぎを作るために家宣はのちの月光院となるお喜世の方を含め4人の側室を持ちました。

天英院は、自分以外の女性と共に過ごすことが増える夫に対し、どんな気持ちだったのでしょう。

ここに天英院が詠んだ歌があります。

「ひとりの身 月見るものと ならい来て さきはれぬ身を うらみだにせず」
ひとりで月を見るのにもすっかり慣れました。こんな不幸な身ですが、それを恨むような気持ちはありません

なんとけなげなんでしょう。

世継ぎのため、夫が側室を持つことは仕方のないこと、それを恨もうなんて思いません。

今ならとても考えられないことですが、当時では仕方のないこと、当たり前だったのです。

この歌からもわかるように、天英院という人は、穏やかで温厚な人でした。

将軍家継が病気になり、月光院が嘆いているときは、慰めに行ったという話もあります。

ただ、天英院と月光院は、仲が悪くはなかっただろうけれど、お付の奥女中同士はいがみあうこともあったかもしれません。

でも同じ奥女中の、それも最も上位にいる絵島を罠にかけるほどの策略家はいなかったと思います。

では、いったい誰が事件を企んだのでしょう。

政権争いの犠牲になった絵島と生島

大奥に原因がないとすれば、あとは幕府の政権争いしかありません。

実は、7代将軍・家継と6代家宣、5代綱吉は、3人とも甲府藩から出ているのです。

となると、側近も甲府藩出身が多くなります。

これが面白くないのが、旧幕府勢力、つまり甲府以外の幕閣なのです。

家継の時代、その側近として幅を利かせていたのが、やはり甲府出身の間部詮房。

そう、月光院との関係を疑われていたあの間部です。

もうお分かりですね。

未亡人である月光院と間部が禁じられた関係になっていれば、それをネタに甲府系の重臣を一掃できるかもしれません。

何とかして、間部を引きずり落としたいと考えていた旧幕勢力の網にかかったのが、絵島一行の芝居小屋での大騒ぎ、そして門限破りだったのです。

絵島生島のあいびき絵図

前将軍の正室であり、表向きは現将軍の母である月光院に、直接間部との疑惑をぶつけることはできませんが、絵島なら責め立てて自白(うその自白)をさせられるかもしれないと考えた悪い奴らが、仕組んだシナリオだった…のではないかと私は考えました。

絵島も生島も、そのほか大勢の人たちがすべて権力争いの犠牲になったのではないでしょうか。

山村座は無くなり、ほかの芝居小屋も建物を粗末な作りに変え、興行の時間も短縮させられています。

事件とは何の関係もない江戸の町衆までが、歌舞伎という娯楽を縮小されてしまったのです。



終わりに

絵島生島事件…なんだかいつの時代もよく似たことが起こっているような気がします。

もちろん現代でも。

権力者というものは、今も昔も、多分これからも変わらず、愚かな行動を起こすのかもしれないですね。

なんて、いやに達観してしまった。

でも、絵島と生島新五郎、今では権力争いに翻弄された悲劇の主人公として、多くの人に知られているとは、夢にも思っていないのでしょうね。


歴史人物江戸時代
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小春

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