しぽログ

働き方を模索する緩和ケア認定看護師の物語

大丈夫という言葉の力|医療者が患者に伝えられないメッセージ

医療従事者であれば、不安な患者さんと対峙する場面は誰しも経験すると思います。
私が看護学生の頃、安易に「大丈夫」だとか「すみません」だとかいう言葉を使ってはならないと教えられた記憶があります。


責任をとれない不確かな患者さんの未来について「大丈夫」だなんて言ったらいけない。
もし、その未来が来なかった場合、訴訟を起こされる可能性があるからです。

自分の過ちを「すみません」とすぐさま謝罪と過失があったと認めることになります。
過失を認めたとして、ライセンスを失う可能性があるからです。


こんなことを教えられて、保身のために自分の非を認められないのはとても心苦しいことです。
もしかしたら、患者さんはシンプルに「大丈夫」だとか「すみません」という言葉を求めているだけかもしれないのに。


ずるいなと思ったのは、「自分の行動で患者さんを不快な気持ちにさせてしまったことについては謝罪してもよい」
でも、「自分の行動が過失だったかどうかは定かではないので、医療安全で検討してお返事します」という返事のテンプレ化です。
不快にさせた事実だけは認めるが、自分の行動が本当に身体に影響を与えたのかを確認するという方法で当事者同士に距離を置く方法です。
患者さんの感情については悪い影響を与えたことを認めるが、自分の行動自体が悪いことかどうかは認めない。

患者さんは当事者と話したいんだろうなと思うことがあります。
医療従事者を守るために仕方がないことだというのは重々承知です。
こういう現場で生きていると、本音を伝い合えない場面は本当に多いものです。


患者さんに「あとどれくらい生きられると思う?」と聞かれることもあります。
「よく入院していたあの患者さんを見かけなくなったけど、亡くなったの?」と聞かれることもあります。


患者さんは先の見通しが立たないこと、死が迫り来る恐怖に怯えながら生きているのだろうとよく思います。


前向きな言葉の裏側に隠された本心が気になったり、医療従事者に言えなくとも、誰かに弱音をこぼせているのかが気になります。



私が働いているクリニックでは、医療従事者であればほとんど禁じられているに近い「大丈夫」という言葉をたまに医師が使います。
患者さんは、「もし大丈夫じゃなかったら訴えてやる!」と思って聞いているわけではないんでしょう。

「どこの先生も大丈夫だなんて言ってくれない。最期の光だった。」と言っていました。
それで命が延びるか、がんが治るかは別問題のように感じるのですよね。

ただ、どっしりかまえていてくれる信頼できる医師に診てもらうことに心地よさや安心感をもらえているのだから。


安易に「大丈夫!」と連発するのがいいわけではないのですが。
そのときに患者さんが一番欲しい言葉が「大丈夫」という言葉だという場合もあるっていうだけです。


たしかにそううまくいかなかったとき、訴えられる可能性ももちろんあるわけです。
そんなこと100も承知で、目の前の患者さんが欲しているメッセージを怖れずに伝える医師を私は心から尊敬します。


患者さんには「症例としてしか自分を見ていない医師」のことはわかっているんですよね。
「人として見られていない」という言葉が、がんの終末期の患者さんの口から出るのが私は一番悲しい。

「医者に見捨てられた」という言葉を久しぶりに聞いて思い出したんですよね。
私がなんで緩和ケア認定看護師になったのか。


訴えられるかもしれないような関係性しか築けないから、保身のための言葉選びをするのではないでしょうか。
理想だけではどうにもならない場合ももちろんあります。


「命の終わりが近いという意識が心の奥底にわずかでもあるか?」

ただそれだけを尋ねた医師は初めてでした。

もっと突きつめて、急変時の対応はどうするか?を決定する場面にばかり身を置きすぎてきました。
ニュアンスでしか語り合わないことがあってもいいのかもしれない、と思えました。


医師が言った「あなたに生きてほしいと思って治療してる」という言葉。
たった一言です。
この言葉だけでたぶん、患者さんには伝わったんだと思います。


働く場所を変えたら、ともに働く仲間も変わって、出会う患者さんも変わりました。
考えさせられることも多くなりました。
私たちが向き合っているのは「病気」じゃなくて「患者さん」なんだと改めて考えさせられました。