幕末散歩

幕末散歩

幕末に活躍した先人について、その史跡巡りや史料調査の経過や結果を書き綴ります。

京都での長府藩邸の場所が判明した。

文久3年3月に将軍徳川家茂が入京した頃、

3月9日付で、上長者町通堀川東ニ入橋本町の地所を藩邸地所としたいとの借用許可願いを瀧川播磨守に提出している。

長府藩の用達財満清太郎居宅と嘉永7年の火事で焼失しその後建物を建てていない地所を合わせ、約958坪。

二条城の北方面になり、御所にも近い。

3月15日に借用許可が下りている。

「らんまん」をいつも楽しく拝見している。

先週は、東京大学助教授大窪昭三郎が自らの立場を明らかにし、今後の新しい展開が予想される場面があった。

昭三郎のモデルの大久保三郎は、元東京府知事・大久保一翁の三男になるが、東京大学の助手になるにあたっては勝海舟の世話にもなった。
三郎の斡旋を依頼された海舟にとって、一翁は幕末時に海舟を抜擢した恩人であり、上司でもある。

「らんまん」に登場する大久保家は僕的には、
三吉慎蔵と河島由路との二人の高祖父と若干関わりもある。

三吉慎蔵は、薩長和解の見届け、京都政局及び薩摩藩内事情探索のために龍馬たちと上京したが、その途次の慶応2年正月18日夜に龍馬と共に大坂城代の大久保越中守(一翁)を宿舎に訪ねている。
越中守から、今は龍馬の探索が厳重で、また長州人が同行していることが幕吏に知られ、手配されていることを知らされる。当時朝敵とされた長州人とは三吉慎蔵のことだが、早々に当地から立ち退くのが良いと忠告され、慎蔵たちは武器を調達し速やかに京都を目指すことになる。

ところで、大久保家の菩提寺は、明暦の振袖火事で名高い本郷の本妙寺。幕臣で彰義隊に参加した河島家の菩提寺でもある。
上野戦争で戦死した河島由路は慶応4年5月に葬られ、大久保一翁は明治21年に墓石が建てられている。
明治43年に本妙寺が豊島区巣鴨に移転した時に、各々の墓は改葬されており、大久保三郎は巣鴨に移転後の大正3年に葬られることになる。

朝ドラ「らんまん」はもちろん史実通りではないがなかなか面白い。次回は、明治14年(1881)開催の第二回内国勧業博覧会に造り酒屋の当主として日本酒を出品するため上京するところが描かれるようだ。
実際には、このとき19歳で、顕微鏡や書籍を購入するため上京し、内国勧業博覧会の見物のほか、文部省博物局に田中芳男、小野職愨らを訪ね、日光などで植物採集し帰郷する。

ところで、この第二回内国勧業博覧会には、旧長府藩士三吉慎蔵の娘登茂(トモ)もレースの勉強中のため出かけている。
なおこの時は三吉慎蔵は宮内省に出仕し、北白川宮能久親王の御附を勤めていた。第二回内国勧業博覧会の事務総裁は北白川宮能久親王なので、御附である三吉慎蔵は事務方の長として励んだに違いない。

内国勧業博覧会の様子を『三吉慎蔵日記』から拾うと、

〇明治13年3月26日に、博覧会事務総裁に北白川宮能久親王が任命される。
            陸軍中佐三品能久親王
  内国勧業博覧会事務総裁被
  仰付候事
     明治十三年三月二十六日 太政官

〇明治14年3月1日に、博覧会が開催され天皇陛下がお出ましになる。
一 博覧会開業式被為行
  聖上行幸、北白川宮総裁に付、御祝文御読上直に
  聖上へ御奉呈終て
  聖上より之御答弁北白川宮へ御直に被賜候事
  此日宮御附之儀を以て拝観証持参し御場所へ出頭す
  十一時前相済退出す
  右御式無滞被為済候儀を以、宮殿下より酒饌料を頂戴す

〇明治14年5月8日に上野美術館にて北白川宮主催の宴会があり、慎蔵が宴会事務方を務める
一 今般大日本博覧会御総裁北白川宮御勤に付、本日上野
  美術館に於て午前第十時より御宴会酒肴被下候に付、
  副総裁(佐野常民)始め諸委員中へ拝謁に付出張致し、
  夫々御引合之儀取計候事
一 御酒肴折詰にして御盃添五百二拾人
  酒饌料菓子添二百五拾人
  右御招請案内状当日各名へ引合等総て取計方被仰付候事
  右に付金二千円特旨を以て北白川宮へ下賜之事

〇明治14年6月10日に博覧会賞牌授与式が天皇臨席のもと行われる
一 内国博覧会賞牌授与式に付
  行幸 総裁北白川(宮)能久親王
  右に付登茂女事レース製造伝習中に付、本日御式場へ参集す

なお、私の曽祖母である慎蔵の娘登茂は、後にレースの出来栄えがよく皇后陛下より賞を頂戴している。
慎蔵や登茂が朝ドラの主人公と博覧会場のどこかでニアミスしていたのではと考えるとドラマもより楽しめるかもしれない。