61.風澤中孚(ふうたくちゅうふ)【易経六十四卦】

易経
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風澤中孚(中なるまこと/至誠)

sincerity:真心
誠に誠意をもって当たるべし。
されば彼、我に応ぜん。

節而信之。故受之以中孚。
節ありてこれを信ず。故にこれを受くるに中孚を以てす。
物事に節度がある時には、人はこれを信用するようになる。
『中孚』とは、心に誠実さが満ちあふれていること。『孚』という字は、爪と子の組み合わせで、原意は、親鳥が卵を暖めて孵化することである。親鳥の愛情が卵の生命を喚び起こすように、誠意はかならず人の心を感動させる。

この卦の時は非常に真心が要求されるときで、真心なしでは物事が成果を見ないときとも云える。えてして人間社会は打算と合理で働いていることが多く、我々の身辺にも、親切に見えることや心がこもっているように思えることも、見せかけや自己本位の体裁だけに終わっていることが多々見られる。そんなうわべだけの事でも世の中は大手を振って通って行けるようだが、例えば大半はそうであっても、中にはそれで済まされぬこともある。
それは人間関係、物事の在り方に真の結合や喜びを見る時で、そんな時は単にうわべだけでは済まされない心と心の触れあいが必要となってくるのである。
だから今は何事によらず無欲で鰍ツ真心を持って当たることが必須で、それが自然と幸運を導くもとになろうと云うもの。
[嶋謙州]

孚はまこと、信、誠心、虚心であります。
まことは、絶えず何事かを創造する力、クリエートする力であります。
その点においてはまことほど貴いものはありません。
ちょうど卵が孵って育っていき、また親鳥となって卵を産んでそれが鳥になるように、己に返って限りない創造の主になるというのが中孚であります。
[安岡正篤]

中孚。豚魚吉。利渉大川。利貞。

中孚は、豚魚とんぎょにして吉なり。大川を渉るに利あり。貞しきに利あり。

孚の字は爪と子から成り、本来鳥が卵を温める意味、卵がかえるのに必ず期日を誤らないことからまことの意味になる。中孚は心中に信あること。
この卦は上と下にそれぞれ二陽があり、真ん中が二陰である。陰は空虚だから、真ん中が空虚、虚心ということで中孚という。また上下卦について見れば、それぞれの中爻、つまり二五が陽爻である。陽はじつだから、中に実があるという点でも中孚といいうる。

『豚魚吉』~清の王引之によれば、士庶人ししょじんのお供えに豚と魚が用いられた。春秋時代の史書『国語』楚語に「士に豚犬の覚えあり。庶人に魚炙ぎょしゃすすめあり」といい、『礼記』王制には庶人の夏秋のお供えに豚と魚とを用いるとあり、『儀礼』によれば、士の婚礼、及び士の喪礼のお供えに豚と魚を鼎に盛る。
豚魚はつまり身分の低い者の貧しいお供えであるが、心中に誠信さえあれば、神は嘉納して福を与えてくれる。それを『豚魚吉』という。恐らく古人が祭りを占ったときの判断辞であろう。

大川を渉るに利ありとは、この卦が、外側は充実して中が空虚で舟の形に似ており、それに上卦が☴木で下卦が沢という点でも舟の意味がある。
舟があれば大川でも渡れる。大川は艱難を意味する。艱難に当たっては正しい道を固く守り続けることが必要なので、貞しきに利ありという。

豚魚=江豚(ヨウスコウカワイルカ)説
豚魚というのは支那の江豚、我が国でいう『イルカ』のことである。
豚魚は風に対して非常に敏感だと言い伝えられ、北から風があれば豚魚の口は北に向かい、西から吹けば西に向かうとされ、舟人はその豚魚を見て風の有る無し、方向を知ることが出来るというのである。それは、まことに内卦兌の口が外卦巽に向かって開く卦象そのままである。このように疑うことなく、相感じ、相応じる孚があって、吉を得ると言うのである。[加藤大岳]


ヨウスコウカワイルカ(揚子江河鯆、Lipotes vexillifer)は、哺乳綱偶蹄目(鯨偶蹄目とする説もあり)ヨウスコウカワイルカ科ヨウスコウカワイルカ属に分類されるイルカの一種。
淡水に生息するイルカは世界に4種が知られており、ヨウスコウカワイルカはその中の1種である。他の3種は、南米のアマゾン川およびラプラタ川に生息するアマゾンカワイルカとラプラタカワイルカ、インド亜大陸のガンジス川やインダス川に生息するインドカワイルカである。
紀元前3世紀ごろに書かれた中国の辞典である『爾雅』にヨウスコウカワイルカに関する記述があり、当時の生息数は約5,000頭と推定されている。中国の伝統的な物語において、ヨウスコウカワイルカは、愛していない男との結婚を拒否して家族に溺死させられた姫の生まれ変わりとして描かれている。また平和と繁栄の象徴と考えられ、「長江女神」、すなわち「長江の女神」の愛称でも呼ばれている。
ヨウスコウカワイルカの個体数は、中国の工業化、魚の乱獲、船舶による水上輸送、水力発電(ダム建設)などの影響により激減している。とりわけ三峡ダムの建設は、ヨウスコウカワイルカの生息環境に対し致命的な被害を与えている。本種を保護する努力は行われているが、2006年の大規模な調査でも生息の確認はできなかったため絶滅が宣言される。[Wikipedia]

彖曰。中孚。柔在内而剛得中。説而巽。孚。乃化邦也。豚魚吉。信及豚魚也。利渉大川。乘木舟虛也。中孚以利貞。乃應乎天也。

彖に曰く、中孚は、柔うちに在りて剛中を得たり。よろこんでしたがうは、孚なり。乃ちくにを化するなり。豚魚にして吉なるは、しん豚魚に及べばなり。大川を渉るに利あるは、木に乗り舟むなしければなり。中孚にして以て貞しきに利あり、乃ち天に応ずるなり。

中孚とは、卦全体でいえば中の二爻が陰だから、上下卦でいえば剛爻が「中」を得ているから、そう名付ける。また上卦☴は巽う。下卦は兌ぶ。上の者が謙遜で、下の者が悦服するというのが中なる孚という卦名の由来である。このようであって始めて国を化することができる。孚に本来孵化の意味があるから化するという。
豚魚にして吉とは、祭る人の誠信が、豚魚のようなささやかな祭りに及んでも、なおかつ神に通ずるからである。大川を渉るに利ありとは、沢の上を木に乗って渡る形があり、卦全体が舟の形をして内部が空虚だからである。中に孚があってしかも利貞の徳、正しい徳がある。さればこそこの卦は天に応ずる。天の徳も孚と貞だから。

象曰。澤上有風中孚。君子以議獄緩死。

象に曰く、沢の上に風あるは中孚なり。君子以て獄をはかり死をゆるくす。

の上を風が吹けば、水は虚心に風を受け、行き届かぬところはない。誠信が人に及ぶとき、隈なく行き渡るようなものである。そこでこの卦を中孚と名付ける。君子はこの卦に象どって心中に誠信をもって、訴訟を論議し、死刑の者もできるだけ減刑してやる。
兌は言説の意味があるから議獄という。巽は風でなごやか、沢は恩沢に通ずるから緩死かんしという。

初九。虞吉。有他(它)不燕。 象曰。初九虞吉。志未變也。

初九は、はかれば吉なり。(它)あればやすからず。
象に曰く、初九の虞れば吉なるは、志しいまだ変ぜざればなり。

『虞』ははかる。『燕』は安と同じ。
初九は中孚の最初。信ずるという卦であるが、初めなので軽々しく誰でも信じてはいけない。信じてよい相手であるかどうかをよく推し測ってから信ずるならば吉である(=虞吉)。
そのようにして一旦信じたなら、あくまで相手に誠実であるべく、もし他人に心を移すようなことがあれば、却って身を安んずる場所を失うことになろう(=有他不燕)。
信ずる相手とは六四を指す。卦の形からいえば、初九と六四とは「応」である。初九は虞ることなく六四を信じてよさそうに見える。しかしここでは事の初めの慎重さを強調するので、「応」だからすぐ信じてよいとは言わない。この爻辞、全体が占者への戒めである。
『虞』は、『説文解字』に「騶虞(すうぐ)なり。白虎黒文、尾は身よりも長し。仁獣なり。自ら死せる肉を食す」とある。中国の文献では一般的に騶虞は、仁徳をもった君主が現れたときに姿を見せる瑞獣として描かれている。姿は虎のようだが性質穏健で獣を捕食しない。尾が体よりも長く、黒い斑点を持つ色の白い虎のようなかたちをしていると描写されている。


この『虞』のにあやかって、山沢を治める官を虞人という。『虞』とは水雷屯䷂六三の爻辞に『鹿に即く虞无し』とあった、あの山沢を司る者で、鳥獣草木によく通じ、はかり知ることである。
そのように案内によく通じて間違えることなく、応爻の六四と孚し合う時は吉を得られる。しかし、心を他に転ずるようなことがあれば、安からぬところが生ずるというのである。
『它』は大過䷛九四のところにもあったが、正しい相手の他に心を向けることである。
『燕』とは、信じて軒に巣を営み安んずるものなので、安息の義を取っている。
この卦の各爻で、象を鳥に取るのが少なくないのは、大卦の離を鳥とするからであろう。

九二。鳴鶴在陰。其子和之。我有好爵。吾與爾靡之。 象曰。其子和之。中心願也。

九二は、鳴鶴めいかくいんに在り。其の子これに和す。我に好爵こうしゃくあり。吾爾われなんじとこれをともにせん。
象に曰く、其の子これに和するは、中心願えばなり。

 

『陰』は日蔭。『靡』は散じて共にする。『好爵』は、美味い酒(好酌)。数多い爻辞のなかで最も美しい句である。
『鳴鶴』とは、親鶴で、その鳴き呼ぶ声に、子鶴が応えるのである。これを人に当て、『自分には美味い酒があるのを独り占めして喜ぶことをせず、爾にも分け与えたいと心の底から孚を尽くすようなものである』というのが爻辞の大意である。

九二と九五は内外卦の「中」で、実がある(陽は充実)。つまり中なる孚がある。誠信のある者同志、遠く離れていても、冥々のうちに感通するものである。たとえば鶴が暗い蔭で鳴けば、見えないところにいるその子が声を合わせて鳴くように。それというのも心中に願っていることが通い合うからである。親が子を思い、子が親に応えるような真心は、姿が見えず、遠いところにいても通じ合うということである。『中孚』は心の中心にある真心、誠信をいう。心の中で真から願うことは、必ず感通するものである。

陰に在りとは、二の位が下にあるからである。吾に好爵あり云々、好き爵位とは二が「中」の位を得ていること。自分に好き爵位があるが、一人占めしたくない。徳のすぐれた汝とこの爵位を分ち共にしよう。自分の願う物は汝もまた願う物だから。
これも誠心の通い合う譬え。孔子は繋辞伝にこの爻辞を引いて次のようにいう、
「君子その室に居り、その言を出す。善ければ千里の外れに応ず。況んやその輝き者をや……言行は君子の枢機。枢機の発するは、栄辱の主なり」。
占ってこの爻を得た人、心に誠さえあれば、求めずして応援を得、爵位を得るであろう。

『鳴鶴=雌鶴』説
『其の子』というのを子供ではなく『夫子』とする。
そして『鳴鶴』は親鶴ではなく『雌鶴』なのである。夫に当たる応位の九五と、妻の九二の間には二陰爻があり、しかも両爻は陽同士なので応和することが妨げられている。それが『陰に在り』にあたる。
しかし中孚の時にあって、相孚しようとする情愛は強く、雄鶴を鳴き呼べば、九五もまたこれに応えて鳴き交わすと言うのである。そのように解釈することで、九五の爻辞『孚有りて攣如たり』が照応してくるはずなのである。[加藤大岳]

六三。得敵。或鼓或罷。或泣或歌。 象曰。或鼓或罷。位不當也。

六三は、敵を得たり。或いはし或いはめ、或いは泣き或いは歌う。
象に曰く、或いは鼓し或いはむるは、位当らざればなり。

『敵』は仇敵。六三は陰のくせに陽位におる。つまりむやみに進みたがる性質。ところがすぐ前に六四が立ち塞がっている。陰同志ではあるが、三は上と、四は初と、それぞれ「応」があり、親しむわけはない。つまり六三には六四という敵が出来た(=得敵)。
この敵を攻めんものと、進軍の鼓を打ち鳴らしたかと思えば、攻めあぐんで後退したりする。四は「正」(陰爻陰位)、自分は「不正」で勝てないからである。
そこで進めないことを歎いて泣いたり、四と和睦して喜び歌ったりする。六三は位が「不正」なだけに、進んだり退いたり恆がないのである。
こんな調子では、物事が上手くいくはずがないという教えである。

六四。月幾望。馬匹亡。无咎。 象曰。馬匹亡。絶類上也。

六四は、月ぼうちかし。馬匹亡たがいうしなう。咎なし。
象に曰く、馬匹亡うは、るいを絶ちてのぼるなり。

『月幾望』は小畜䷈上九・帰妹䷵六五にもあった。望は満月。『匹』は二頭一対の馬。
六四は陰爻陰位で「正」、位は人臣を極め、五の君位に最も近い。満月に近い月に譬えられる。月は陰の精だから。
『馬の匹亡う』とは、初九と六四とは「応」、一対の馬に似ている。しかし六四は初九という同類を絶ち切って上に向かって五に従い、五に信用せられる(卦名の孚は信)。ここに馬の匹が亡われるというイメージが出て来る。
占ってこの爻を得た人、つまらぬ仲間と絶交して大人に従えば、咎なし。

九五。有孚攣如。无咎。 象曰。有孚攣如。位正當也。

九五は、孚あり攣如れんじょたり。咎なし。
象に曰く、孚あり攣如たるは、位正くらいまさに当ればなり。

『有孚攣如』は小畜䷈九五にも見えた。『攣如』は手をつなぎあうさま。九五は上卦の「中」であり、陽爻で充実している。つまり中に実がある。中なる孚の徳がある。
剛健で(陽爻)、「中正」、尊位におり、中孚の卦の主体である。下には九二が同じ中なる孚の徳を具え、志を通わせている。故に、『孚あり攣如』中に孚あって手をつなぎ合う、という。
占ってこの爻を得れば、咎なし。象伝、『位正当』は然るべき徳があって尊位に居ること(䷋九五象伝と同じ)。

上九。翰音登于天。貞凶。 象曰。翰音登于天。何可長也。

上九は、翰音かんおん天に登る。貞しけれど凶。
象に曰く、翰音天に登る、何ぞ長かるべけんや。

『礼記』曲礼きょくらいに、宗廟の祭りに用いるにわとりを翰音という、と。後漢鄭玄じょうげんの注によれば、翰は長い意味で、雞が長く声を引いて鳴くからだという。また、雞が羽ばたきするのを翰音とする説もある。
中孚の卦に雞が出て来るのは、孚は信、約束を違えぬこと、雞が毎朝、時を違えずに鳴くのも信である。また卦の象でいっても、上卦巽は雞に当たる。
上九は陽剛で、中に誠信がないわけではないが、信ずるという卦の極点に登りつめているから、自信が過度である。そこで九五の君に従おうともせず、一人よがりの信念に燃えて世間と交わりを絶つ。それはあたかも、ろくに飛べない雞が天に登ろうとするようなもの(上位だから天という)。どうせ長くは飛べずに地に落ちるであろう。
心術に於て正しいとはいえ、所詮は孟子のいわゆる『匹夫匹婦ひっぷひっぷ溝瀆どぶ自経くびくくりしてまことをなす』ようなもの、結果は凶。
雞は元来、空を飛ぶ鳥ではなく『場鳥にわとり』である。にもかかわらず、卦の上位にあり、また卦そのものも大卦離の飛鳥の象である。自分が飛べないのも知らずに羽ばたきするが、徒にその羽音だけが高く聞こえても、その身を高く飛ばすことはできない。人にすれば、中心に孚があるのではなく、内心の空虚なのを孚のあるかの如く粧っているようなものである。そのような声だけの孚では、いつまでも粧い通すことはできない。
あえてそれに固執しようとすれば、その凶たるべきは言うまでもない。

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