一の谷の戦い(3)平業盛、平師盛の最期【平維盛まんが32】



一の谷の戦い。小松家五男・平師盛が、船で落ち延びようとしているところに、知盛の侍が「私も乗せてください」と言ってきた。船はもうすでに定員だったが、仲間を見捨てられない師盛は、彼を助けようと舟を寄せる。門脇家三男・平業盛は、敵と組み合っているうちに、古井戸の中へ落ちてしまい…

<『延慶本平家物語』第五本、『源平盛衰記』巻三十七より>
平家物語 平業盛の最期
平家物語の平業盛の最期、一ノ谷の戦い
平家物語、平業盛、一ノ谷の戦い
平家物語、平業盛、一ノ谷の戦い
平家物語、平師盛の最期、一ノ谷の戦い
平家物語、平師盛の最期、一ノ谷の戦い
平家物語、平師盛の最期、一ノ谷の戦い
平家物語、平師盛の最期、一ノ谷の戦い
平家物語、平師盛の最期、一ノ谷の戦い
平家物語、平師盛の最期、一ノ谷の戦い
平家物語、平師盛の最期、一ノ谷の戦い
平家物語、平師盛の最期、一ノ谷の戦い
平重盛、平維盛、平資盛、平師盛
平重盛、平清経、平師盛
平家物語の平資盛と平師盛、一ノ谷の戦い

※漫画はえこぶんこが脚色しています。  

◆解説目次◆ ・登場人物
・平業盛
・平業盛の最期
・平師盛
・手勢がいなかった師盛
・師盛の苦悩 
・「後に人に問へ」といったのは 
・師盛の最期 
・師盛の子  

登場人物

平業盛 たいらのなりもり
平教盛[清盛の弟]の三男。通盛、教経の弟。

平師盛 たいらのもろもり
平重盛[清盛の長男]の五男。維盛、資盛の弟。

平業盛

さて、一の谷の戦い3話目は、
門脇家・小松家のティーンエイジャー平業盛平師盛の最期です。

二人とも世間一般での知名度はそれほど高くありませんが、
平家の公達としての矜持を持って、若くして散っていったその姿には、ズーンと胸に迫るものがあります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

平業盛は、教盛の三男。

兄である通盛教経に負けず、
業盛も、なかなかの剛の者として描かれていますが、
その容姿は、薄化粧で細眉の貴公子だったそうです。(「四部合戦状本」「長門本」)

内甲を見入れたれば、薄気装して細き眉を作られけり。「咹はや、平家の君達よ」と思ひて、

甲の内側をのぞき込んだところ、(業盛は)薄化粧をして細い眉を作られていた。
「ああ、平家の公達だ」と思って、

『四部合戦状本平家物語』巻九「業盛最期」

ギャップがいいですね。
(^^)

業盛の最期


覚一本では、業盛の最期は、一行であっさり語られるだけなのですが、
読み本系の「延慶本」「長門本」『源平盛衰記』などには、敵との激しいバトルシーンがあります。

▼以下、『源平盛衰記』のストーリー

味方に離れてしまった業盛が、渚に立ち尽くしていたところ、源氏方の常陸国住人・泥屋四郎吉安と出会い、組み合いの戦いになりました。

※業盛と戦っていたのが五郎、加勢にきたのが四郎、と兄弟が逆になっている本もあります。「長門本」など

味方には離れぬ、いづちへ如何に行くべしとも知り給はざりければ、渚に立ちて御座しけるを、常陸国の住人泥屋四郎吉安と組んで落ち、上に成り下に成り、ころびける程に、古井の中へころび入りて、

(業盛は)味方に離れてしまい、どこへどのようにして行けばいいのかもおわかりにならなかったので、渚に立ち尽くしていらっしゃったところ、常陸国の住人、泥屋四郎吉安と組み合いの戦いになり、上に成り下に成り、転がっているうちに、古井戸の中に転がり入って

『源平盛衰記』巻三十七「忠度通盛最後の事

組み合ったまま転がって、古井戸の中に落ちていく二人。

アクロバティックでかっこいいですね。
(◎_◎)

1対1の戦いだったのに、そこへ泥屋四郎吉安の弟、五郎が加勢。
業盛の冑の錣(しころ…首を護る部分)を引っ張って、四郎から引き離そうとします。

が、そこで業盛、まさかの怪力を発揮。
首を大きく振りまわし、その勢いで五郎をぶっ飛ばします。

兄を討たせじとて、泥屋五郎落重なって、大夫の冑のしころに取付きて、ひかんとしければ、大夫頭を強く振給ふに、冑の緒を振切る、五郎冑を持ちながら、二尋ばかりぞ抛げられたる、

兄を討たせまいと、泥屋五郎は井戸の中に落ち重なって、業盛の冑のしころに取りついて、引っ張ろうとしたので、業盛は、頭を強く振りなさって冑の緒を振り切る。五郎は冑を持ったまま、二尋(約3.6メートル)ほど投げ飛ばされた
『源平盛衰記』巻三十七「忠度通盛最後の事」


業盛、TUEEEEEEE ‼
(||| ̄□ ̄)!

さすがは、通盛・教経の弟ですね。

けれども、ぶっとばされた五郎に怪我はなかったので、起き上がった後井戸に戻ってきて、業盛の首をとってしまいました。

2対1だもん。業盛が不利ですよね。
(:;)

まだ17歳なのに、力強さを見せて戦った業盛のことを、人々は惜しんだそうです。


平師盛

平師盛は、重盛の五男。
重盛の正妻である藤原経子の子で、清経、有盛の同母弟とされています。
(『尊卑分脈』『四部合戦状本平家物語』)

一方、延慶本・長門本・覚一本では、師盛を「小松家の末子」と表記し、
覚一本では小松家兄弟を列挙するときの序列も、必ず忠房の後に師盛を表記しています。
(巻七「維盛都落」「一門都落」)

※忠房が五男で、師盛が六男(または異母兄弟)の可能性もある?

↑ ×印…平家一門の「一の谷の戦い」での戦没者

手勢がいなかった師盛


『平家物語』では、師盛は、小舟に乗って、助け舟(沖の大きな船)を目指して逃げていたことになっています。(延慶本など)


一方、師盛は、はじめから戦闘には参加していなかった、というように描く本もあります。

■「四部合戦状本」
小松殿の五男、備中守師盛は、侍五人・御身共に六人にて小船に乗りて、渚より二段許り洋へ押し出だし、軍見物して御しけるに、

小松殿(重盛)の五男、備中守師盛は、侍五人と自身あわせて六人で小舟にのって、渚よりニ段ばかり沖へでて、軍(いくさ)見物をしていらっしゃったが、
『四部合戦状本平家物語』巻九 「師盛最期」

■「中院本」
小松殿のすゑの子に、びつちうのかみもろもりは、しうじう七八人小舟にとりのりて、をきにうかびて、いくさのなりゆくやうを見給ける所に、

小松殿の末子、備中守師盛は、主従七八人小舟に乗って、沖に浮かんで戦のなりゆきをご覧になっていたところ、
『中院本平家物語』巻九 「さつまのかみたゞのりの歌の事」

四部合戦状本では、「軍(いくさ)見物をしていた」
中院本では、「戦のなりゆきを見ていた」とあり、
師盛は、戦闘を遠巻きに眺めていたようにも読めます。

この理由としては、
師盛は単身で三草山から戻ってきた為、手勢がいなかったので、船に乗って戦闘を回避していた

または、
はじめから、味方を助ける為に、船を回遊させていた、と読む説もあります。
(※「覚一本」「四部合戦状本」等では、乗船拒否をしていない。)


もしも師盛が、手勢がいない為に戦闘には参加できず、
かといって逃げることもなく、少しでも味方を助けようと、舟を留めていたのだとしたら、

一の谷の戦いの戦場で置かれた師盛の微妙な立場がうかがえるようで、胸がギュッてなりますね。
(>_<)

※参考:早川厚一氏・佐伯真一氏・生形貴重氏校注『四部合戦状本平家物語全釈』巻九、和泉書院、2006年
延慶本注釈の会『延慶本平家物語全注釈』第五本、汲古書院、2015年

師盛の苦悩


師盛の乗る小舟を追いかけて、一人の男が「私もその舟に乗せてください」と懇願してきます。

※この人物の名と属性は、諸本によって異なります。
※このシーンは、『源平闘諍録』をベースに描いたので、漫画では闘諍録の「知盛の侍・清九郎兵衛家俊」を使っています。


「覚一本」「四部合戦状本」では、すぐに舟を寄せてあげたことになっていますが、

「延慶本」や『源平闘諍録』では、舟の上の人々は、
すでに定員であることを理由に、家俊の乗船を拒否しようとします。

冷たいなぁと思いますが、既に舟は満員。
あと一人を助けようとした為に、舟の全員が助からない結果になったら…と考えると、
その選択もやむを得ないかもしれません。

が、それでも師盛は、舟の者の反対を押し切って、家俊を助けるために舟を寄せてあげようとします


『源平闘諍録』より。
めちゃくちゃかっこいい師盛のセリフ。
「敵なりとも助けよと云はれなば助くべし。況や御方なり。」

(師盛のセリフ)
敵であっても、「助けてくれ」と言われたら、助けるだろ。ましてや味方だぞ。

『源平闘諍録』八之下 四「備中守の船、清九郎兵衛踏み還す事」


師盛、かっこよ!!
(・∀・)

敵が「助けてくれ」と言ってきても、私なら助けないと思いますが()

師盛は、優しいですね。
(;´Д`)


ただ、『源平闘諍録』によれば、師盛が家俊を助けようとした理由は、それだけではなかったようです。

然も新中納言の最愛の者なり。若し千に一つも助かりたらば、後に云はれんことこそ恥かしけれ。只此の船を指し寄せよ。

(師盛のセリフ続き)
「そのうえ、家俊は新中納言(知盛)のお気に入りだ。もし(彼を見捨てて、その後)彼が千に一つの確率で助かったなら、後で(師盛が彼を見捨てたことを知盛に)言われること(を思うと)気詰まりだ。すぐに、この舟を寄せよ。」

『源平闘諍録』八之下 四「備中守の船、清九郎兵衛踏み還す事」


家俊は知盛のお気に入りだから、
彼を見捨てたと知られたら、後で自分が知盛にどう思われるかと気にしているんですね。

…なんだか、
宗盛・知盛たちの平家主流と、小松家との間の確執のことを思わせる一言ですね。


しかも、今は、
維盛は戦の直前に屋島に抜けてしまったし、
資盛有盛(・忠房)も三草山から福原に戻らず屋島に逃げてしまったし、

小松家の兄弟、みんな逃げちゃった、という状況です。

一の谷の戦いにおける唯一の小松家の公達である師盛は、
その若い肩の上に背負うものがあったのかもしれない、と想像すると、一層悲愴なものを感じますね。


「後に人に問へ」と言ったのは…


家俊を助けようと舟を寄せてあげた師盛でしたが、
家俊が勢いよく飛び乗ったため、案の定、舟が転覆してしまいます。

……おい!!!
( ゚Д゚) 
そっと乗って!!!

海に放り出された師盛は、熊手で敵に引き揚げられてしまいました。

薄化粧をしていたことから、平家の公達であると気づかれた師盛。
名を聞かれますが、師盛は名乗ろうとしません。

格下の人物に対して名乗る必要はなかった為、師盛は最期まで相手に名を教えなかったのです。
平家の公達としての高い矜持が感じられて、かっこいいですね。

以下、延慶本の原文です。

師盛宣けるは、「己に逢て名乗るまじきぞ。後に人に問へ」とて名乗り給はず。

師盛は、「お前に対しては名乗るまいぞ。(首をとって)後に人に尋ねよ」
いって、名乗りなさらない。
『延慶本平家物語』第五本 廿六 「備中守沈海給事」


ん?
このセリフ、聞いたことのあるような… 
(゜.゜)

そう、国語の教科書にも載っている、「敦盛の最期」(『覚一本平家物語』)における
超超超有名な平敦盛の名台詞と同じですね。


☆ご存じ☆覚一本の敦盛バージョン↓
「されば、なんぢにあうてはなのるまじいぞ。なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をとッて人に問へ。見知らうずるぞ」

(敦盛のセリフ)
「それでは、おまえに対しては名乗らぬぞ。お前の為にはよい敵だ。名乗らずとも、首をとって人に尋ねよ。見知っている者がいるであろう」
『覚一本平家物語』巻九「敦盛最期」


この超有名なセリフ、実は、
延慶本では、師盛も言っているんですね。

覚一本の「敦盛の最期」が、あまりにも有名であるのに比べ、
世間一般での師盛の知名度は高くありません。

この敦盛の名セリフ、実は
師盛のセリフでもあるんだよーっ!

てことを、少しでも広めてあげたいですね。
(:;)

※延慶本では、平忠度もほぼ同じセリフを言っています。覚一本などでは、表現の重複を避け、敦盛の最期に集約させたのかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

ちなみに。
じゃあ延慶本では、敦盛は何て言っているんだ?というと、

実は、名乗ろうかどうしようか考えた末、
(熊谷直実の誠実さに絆されて)、最終的に名乗ってあげています

「又名乗ても討れなむず、なのらでもうたれむず。とても討べき身なれば、又かやうに云も疎ならず」と思われければ、
「我は大政入道の弟、修理ノ大夫経盛ノ末子、大夫敦盛とて生年十六歳になるぞ。早切れ」とぞ宣ける。

(敦盛は)
「名乗っても討たれるだろう、名乗らなくても討たれるだろう。どうせ討たれる身なのだから。またこのように云うのも(直実が供養をすると言ってくれる気持ちも)一通りでない」
とお思いになったので、
私は、太政入道(清盛)の弟、修理大夫経盛の末子、大夫敦盛といって生年十六歳になるぞ。早く斬れ」
とおっしゃった。

『延慶本平家物語』第五本 廿四「敦盛被討給事 付敦盛頸八島へ送事」


敦盛、めっちゃ名乗ってる。
Σ( ̄□ ̄|||)

直実の誠意に応えて名乗ってあげているところ、延慶本の敦盛は優しいですね。


※敦盛、業盛を十代の若者として描くのは、哀れさを強調する為の演出であり、実際にはもっと年長だったという説もあります。

師盛の最期


敵に囲まれても、毅然とした態度を崩さなかった師盛でしたが、
ついには、長刀で斬られてしまいます。

以下は、延慶本の本文なんですが、
少々グロいというか、残酷なので、見たくないという方は、次項 にお進みください。

長刀にて頸を切に、悪く打てをとかひをどうに付たり、

長刀で(師盛の)首を斬ったところ、打ち方が悪かったので、顎が胴についたまま残ってしまった
『延慶本平家物語』第五本 廿六 「備中守沈海給事」


…………………え?

長刀だったからか、上手に首を斬ることができなかったようで、
1回目は、顎の上で斬ってしまったそうです。

首と下顎が繋がっている状態だったのでしょう。

それでもいいか、と、切り離した部分(上顎より上の頭部)を持っていきます。

人に見せたところ、それが師盛だったと知って、
「貴人じゃん!やっぱり下顎もいるわ」っていって、

わざわざ、遺体の場所に戻って、下顎を胴から切り離して、頭部にくっつけて
差し出したのでした。

(もう、書いていて、気分が悪い……)

頸を取て人にみするに、「小松殿の末の御子、備中守師盛」と申ければ、「吉人にこそ」とて、又立還て、をとがひを取て頸につけてぞ渡しける。

首をとって、人に見せたところ、「それは小松殿(重盛)の末の子、備中守師盛だ」と申したので、「それは(褒賞の為に)よい人だ」といって、また(遺体の場所に)立ち戻って、顎を切り離して、頸につけて持っていった。
『延慶本平家物語』第五本 廿六 「備中守沈海給事」

言葉がないですね。

最期に見せた師盛の誇りを無下にするかのように、
相手の行動からは、師盛へのリスペクトが感じられず、褒美の為の首級としてしか見ていないようなところに、寂しさも感じますね。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

有名な「敦盛の最期」「忠度の最期」に代表されるように、現在親しまれている『覚一本平家物語』では、一の谷の戦いでの公達の戦死を、時に美化して描きます。

一方、『延慶本』だけに見える、この生々しい師盛の最期譚は、
合戦とは、残酷で利己的で、決して美しいものではない、
ということを伝えています。

師盛の子?勢観房源智

浄土宗の開祖・法然の弟子に、勢観房源智という僧がいます。
『法然上人行状絵図』(『法然上人絵伝』)第四十五によれば、この源智は、平師盛の子だったといいます。

勢観房源智は、備中守師盛朝臣の子、小松内府[重盛公]の孫なり。平家逆乱の後、よのはゞかりありて、母儀これをかくしもてりけるを、建久六年生年十三のとき上人に進ず。上人これを慈鎮和尚に進ぜられけり。かの門室に参じて出家をとげおはりぬ。
いく程なくて上人の禅室に帰参、常随給仕首尾十八箇年、上人憐愍覆護他にことにして、浄土の法門を教示し、円頓戒このひとをもちて附属とし給ふ。これによりて道具・本尊・房舎・聖教、のこる所なくこれを相承せられき。

勢観房源智は、備中守平師盛朝臣の子で、小松内大臣(平重盛)の孫である。平家反乱の後、世間の目を避けて、母親が隠して育てていたが、建久六年(1195)十三歳のとき、法然生年の弟子となった。上人は、この子を慈鎮和尚慈円の弟子として預けられた。慈鎮和尚のもとで出家を遂げた。
ほどなく、源智は法然上人の禅室に戻ってきて、常に付き従い十八年。上人が源智を憐みかばうことは他の弟子とは異なるほどで、浄土の教えを説き示し、円頓戒はこの人を後継者として伝授された。これによって、上人の仏具・本尊・房舎・聖教などすべてを、源智が相続された。

『法然上人行状絵図』巻四十五

『法然上人行状絵図』の詞書によれば、法然は、弟子の中でも特にこの源智のことを大切にし、後継者として教えの全てを伝授したそうです。

源智が師盛の子だったとしたら、その哀れな境遇に対する憐憫の情もあったのかもしれないですね。

『法然上人行状絵図』によれば、源智が五十六歳で亡くなったときには、い香りが漂い、部屋中に流れてきて、その一筋の匂いが数日間消えなかったといいます。
なんだか、『平家物語』「灌頂巻」のラストを思い出しますね。


『平家物語』によれば、平家滅亡後、苛烈な残党狩りが行われ、一門の子息は悉く見つけだされ、殺害されたといいます。(巻十二)

師盛自身は一の谷で悲劇の最期を遂げたのだとしても、
師盛の子が、法然のおかげで残党狩りを逃れ、心静かに生きていくことができたのなら、
少し救われたような気がしますね。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


…………ん?
(・・)

いや、待って。

師盛って、一の谷で「生年十四」ではなかったか。(覚一本)

。もう子供がいたのか
お、おぅ…そうか。
(゜.゜)

てなりますが、異説もあります。

師盛の享年は、
「四部合戦状本」では、十六
「南都本」では、十八

子供がいた(かもしれない)ということを考慮すれば、
「四部合戦状本」の十六、または「南都本」の十八あたりが妥当、とも考えられています。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

今回も内容が、重かったですね……
(T T)

次回は、一の谷の戦い(4)です!



☆次回もやたら長くなってしまっているために
なかなか完成までいかず、もどかしいのですが、

ちょっとずつ進めていますので、
もうしばらく、お待ちください。

ごめんなさい(><)


(更新の目途がたったら、ブログTOPでお知らせいたします)




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※出典・参考文献/大橋俊夫氏校注『法然上人絵伝』岩波書店/浄土宗総合研究所編『現代語訳法然上人行状絵図』浄土宗出版/『平家物語(中院本)と研究』未刊国文資料/『玉葉』国書刊行会/『吾妻鏡』新訂増補国史大系、吉川弘文館/早川厚一氏・佐伯真一氏・生形貴重氏校注『四部合戦状本平家物語全釈』和泉書院/福田豊彦氏・服部幸造氏『源平闘諍録全注釈』講談社/『長門本平家物語』国書刊行会/『延慶本平家物語全注釈』汲古書院/『屋代本高野本対照平家物語』新典社/『源平盛衰記』中世の文学、三弥井書店/『平家物語』新日本古典文学大系、岩波書店/『平家物語』新編日本古典文学全集、小学館/『平家物語大事典』東京書籍/『平家物語研究事典』明治書院/『平家物語図典』小学館/冨倉徳次郎氏『平家物語全注釈』角川書店/杉本圭三郎氏『平家物語全訳注』講談社/ →その他参考文献、発行年等詳細はこちら

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