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七支刀2024年05月04日 13:45

七支刀

七支刀 (しちしとう)は奈良県天理市の石上神宮が所蔵する国宝で、身の左右に各3本の枝刃を段違いに造り出した鉄剣である。

概要
史料の少ない4世紀の倭に関する貴重な資料である。剣は全長74.8センチ、剣身の長さ65.6cm、茎は9.3cm。下から約3分の1のところで折損する。4世紀に百済から贈られたとされてきた。剣身の棟の両面に表裏合わせて60余字の銘文が金象嵌で刻まれている。解読は明治以降続けられてきた。

発見の経緯
1874年(明治7年)、菅政友が石上神宮の大宮司として任命され、4年間在任した。菅政友は厳重に封印された木箱を開けると、六又鉾を見出した。鉄さびが全体を覆うが、ところどころ金色が見られ、錆の下に銘文があることき気づいた。

日本書紀
日本書紀巻第九 神功皇后五十二年秋九月丁卯朔丙子条「五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氏等從千熊長彦詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。」と書かれる。この「七枝刀」が「七支刀」である。
大意は「神功52年秋9月に百済が派遣した久氏らが千熊長彦に連れられてきて、七支刀一口と七子鏡一面そのほか様々な重宝を献上した」書紀に寄れば百済の肖古王のときである。

原文解読
(表面) 泰■四年(■■)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵宜供侯王■■■■作 (裏面) 先世以来未有此刀百済■世■奇生聖音故爲倭王旨造■■■世

年号の解釈

最初の2字は年号であるが、1字目は「泰」で問題ないとして、2字目は不明である。 「泰和四年」の解釈であるが、泰和の年号は存在しない。中国で「泰」がつく年号は泰始、泰常、泰豫である。
しかし中国の漢字音義通用の原則と、「泰」は「太」と字音と意味が同一であることから、泰和は太和と読み替えることができる。福山敏男は、中国東晋の太和四年(369年)あるいは三国魏の太和四年(230年)を候補にあげた。宮崎市定は「丙午」を「5月16日」の干支として、それにあてはまる「泰■四年■月」を「泰始四年五月」として解釈した。 李進煕(1951)は反論を提示し、太和四年に続く「五月十一日丙午」と書かれる製作日付に注目した(十六日は偽作とする)。東晋太和では、干支日が合わないからである。北魏の太和四年(480年)とする合うと主張した。369年は百済の近肖王の代であるが、480年になると百済王は東城王となる。 また日付は吉祥句にすぎないとの意見もある。 まとめると年号の解釈には4通りがある。 (1)268年説(泰始4年(西晋):菅政友、高橋健児、喜田貞吉、大場磐雄)、 (2)369年説(太和4年(東晋):福山敏男、吉田晶、浜田耕策、三品彰英、栗原朋信)、 (3)468年説(泰始四年(南朝宋):宮崎市定)、 (4)480年(北魏:李進煕)がある。
           
No 年号西暦国号
1 泰始4 268 西晋 武帝
2 泰常4 419 北魏 明元帝
3 泰始4 468 南朝宋 明帝
4 泰豫4 472 南朝宋 明帝
5 太和4 369 東晋 司馬奕
6 太和4 480 北魏 孝文帝

その後、東晋太和四年が神功五二年(干支二運下げた年代371年)と近似値を示すことから東晋太和四年が通説となった。

解釈

福山敏男の解釈は以下の通り。 (表面)泰和四年正月十一(或は六か)日の淳陽日中の時に百錬の鉄の七支(枝)刀を作る。以って百兵を辟除し、侯王の供用とするに宜しく、吉祥であり、某(或は某所)これを作る。 (裏面)先世以来未だ見なかったこのような刀を、百済王と太子とは生を御恩に依倚しているが故に、倭王の上旨によって造る。永く後の世に伝わるであろう。

国宝

1953年(昭和28年)国宝指定。

侯王の解釈

「百済王」は「倭王」を侯王と位置付けたとする研究者が多い。しかし、渡辺公子は、銘文の字句を中国金石文の実例と比較し「侯王」は吉祥句に過ぎないとしている。

聖音

村山正雄は拙者拡大写真を用いて裏面の「聖□」は「聖晋」ではなく「聖音」とする。

献上か下賜か

刀は、百済王から倭王に献上されたものなのか、反対に下賜されたものかという解釈であるが、金錫亨や上田正昭は、この銘文を素直に読めば、上位者(百済王)から下位者(倭王)への命令的文書の形式をとっていることを指摘している。

考察
『日本書紀』の百済王の記載が正しいとすれば百済の肖古王が贈ったと解釈できる。肖古王は三国史記の「近肖古王」であり、その在位は346年から374年であるから太和4年(東晋、369年)と整合性がある。百済第5代「肖古王」、第6代「仇首王」と区別するため、第14代「近仇首王」と書かれるが当時は肖古王と読んでいたのであろう。『日本書紀』では肖古王の表記であるが、『古事記』では「照古王」とする。
『晋書』(巻九・簡文帝紀・咸安二年(372年)正月条及び六月条)では「余句」とする。「(372年)六月,遣使拜百濟王餘句爲鎮東將軍,領樂浪太守。戊子,前護軍將軍庾希舉兵反,自海陵入京口,晉陵太守卞眈奔于曲阿。」(百済王が使を遣わし鎮東將軍,領樂浪太守の称号を得た。)
大和4年の369年は東晋の年号であり、百済は東晋の年号を使用していたと考えられる。 百済の独自年号説もあるが、これは証拠がない。
日本書紀では369年は仁徳の代であり、和年号とは整合がとれない。銘文にある「侯王」の語は、これは裏面の「倭王」を指す。高句麗と百済は369年から371年にかけて戦争をしているが、この戦争に当たり倭の協力を得たいと考えたのであろう。すると、七支刀が贈られた年は369年が最有力と考えられる。

参考文献

1.福山敏男(1951)「石上神宮の七支刀」(上田正昭編(1971)『日本文化の起源2』平凡社)
2.渡辺(神保)公子(1975)「七支刀の解釈をめぐって」史学雑誌84 (11), pp.1503-1525
3.渡辺公子(1981)「七支刀銘文の解釈をめぐって」『東アジア世界における日本古代史講座』 学生社
4.上田正昭(1973)石「石上神宮と七支刀」(『論集日本歴史 1』原島礼二編)有精堂
5.金錫亨・朝鮮史研究会編(1969)『古代朝日関係史―大和政権と任那』勁草書房
6.石上神宮「伝世の社宝」
7.石上神宮(1929)『石上神宮宝物誌』 8.宮崎市定(1983)『謎の七支刀』中央公論社
9.李進煕(1980)『広開土王碑と七支刀』学生社
10.村山正雄(1979)「七支刀銘字一考」『朝鮮歴史論集』上巻、竜渓書社
11.佐伯有精(1977)『七支刀と広開土王碑』吉川弘文館

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